教官
広場での一件から一夜明け。
朝靄の残る砦の中を歩きながら、ルイナはノアに案内されて武具庫へ向かっていた。
石造りの建物の奥まった場所にある武具庫は、人の出入りが少ないのか、周囲の空気までどこか淀んでいる。分厚い木扉の前で立ち止まったノアが、慣れた様子で鍵を外した。
重い音を立てて扉が開く。
その瞬間、湿った空気が流れ出した。
鼻を刺すのは錆の匂いと黴臭さ。
思わずルイナは眉をひそめる。
薄暗い庫内に視線を向けると、そこには想像以上の惨状が広がっていた。
本来なら整然と並んでいるはずの槍や盾は歯抜けのように数が減っている。
残されている物も状態は良くない。
刃は欠け、柄は歪み、金具には赤茶けた錆が浮いていた。
壁際に掛けられた革鎧に近づいて指先で触れてみる。
ぱきり、と乾いた音がした。
湿気を吸ったまま放置され続けた革は硬く脆くなり、少し力を加えただけで表面に亀裂が走る。
これでは防具として機能しない。
奥には木箱が積まれていた。
蓋を開けると補修用の工具や金具が無造作に放り込まれている。
だが、それらも埃を被ったまま長く使われた形跡がない。
「これは……」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど重かった。
戦場に立つ者にとって武具は命だ。
その命綱がここまで放置されているとは思っていなかった。
沈黙したまま庫内を見回すルイナの隣で、ノアは棚へ歩み寄った。
意外にも、その足取りに迷いはない。
「革具は全滅だな」
そう言いながら一つを持ち上げる。
軽く曲げただけで革が軋んだ。
「湿気対策からやり直さねーと意味がねぇ。直してもすぐ駄目になる」
続いて別の棚へ移動する。
「こっちの剣はまだ使える。研ぎ直せば十分だ」
一本を抜き放ち、刃を光にかざした。
「ただ、この辺は駄目だな。刃が死んでる」
ぽい、と棚へ戻す。
「鍛冶屋に出す手間を考えたら買い替えた方が安い」
説明には一切の淀みがなかった。
どの武具が使え、どれが使えないのか。
どこを修理し、どこを諦めるべきか。
まるで帳簿でも読むように即座に判断していく。
ルイナは静かに目を細めた。
「必要な数と補充の優先順位まで分かっているようね」
「まあな」
ノアは肩を竦める。
「暇な時間だけはたっぷりあったから」
気だるげな口調だったが、その言葉だけで済ませられる内容ではない。
ここまで正確に把握するには相応の知識が必要だ。
少なくとも、ただの怠け者にできることではない。
だからこそ疑問が浮かぶ。
「把握しているなら何故放置したの?」
問いかけた瞬間、ほんの一瞬だけノアの表情から僅かに力が抜けた。
気のせいと思えるほど短い変化だったが、ルイナは見逃さない。
「言っても誰も聞かなかったから」
短い返答だった。
それだけだった。
言い訳も愚痴も続かない。
ただ事実を述べただけのような声音。
ノアは再び棚へ目を向ける。
いつもの気の抜けた様子に戻っていた。
しかしルイナはしばらく返事ができなかった。
これほど状況を理解していながら。
これほど正確に問題点を把握していながら。
誰にも聞き入れられなかった。
そう考えると、砦全体の腐敗が改めて実感として迫ってくる。
そして同時に、ノアという男に対する認識も少し変わっていた。
怠けている。
やる気がない。
そう見えていた男が、本当に最初から何もしなかったのか。
違うのかもしれない。
「今日から優先順位に沿って修繕を進める」
ルイナは棚へ向き直った。
「あなたの見立てを頼りにするわ」
その言葉に、ノアが僅かに目を瞬かせる。
意外そうな顔だった。
しかし次の瞬間には、いつもの調子に戻って頭を掻いた。
「……へいへい。了解っと」
面倒そうな返事。
それなのに、何故だろうか。
ほんの少しだけ、その声に張りがあった気がした。
──翌朝。
砦の広場には兵士たちが整列していた。
久しぶりに行われる本格的な訓練である。
しかし、その光景を見たルイナは内心で頭を抱えそうになっていた。
足並みが揃わない。
姿勢が悪い。
剣の構えも不安定。
重心はぶれ、呼吸も乱れている。
一人一人を見れば決してやる気がないわけではないのだが、基礎が壊滅的だった。
剣技以前の問題である。
「足を開きすぎよ」
「肩に力を入れない」
「腰を落として」
声を張り上げながら兵士たちの間を歩く。
姿勢を直し。
構えを修正し。
足の位置を調整する。
一人を見ている間に別の誰かが崩れる。
修正してもすぐ元へ戻る。
まるで穴の開いた桶に水を注ぎ続けているようだった。
兵士は五十人以上。
ルイナは一人。
明らかに手が足りない。
日が傾く頃には喉が焼けるように痛み始めていた。
額の汗を拭いながら広場を見渡す。
疲労の色が濃い兵士たち。
それ以上に疲れている自分。
このままでは駄目だ。
改革を進めるには時間がかかりすぎる。
もっと効率的な方法が必要だった。
その時、不意に脳裏へ浮かんだのは竹林だった。
風に揺れる青竹。
静かな道場。
ホン家。
ハオランは武術家だ。
剣こそ使わないが、身体の使い方を知り尽くしている。
リンナも幼い頃から鍛錬を積んでいる。
そしてジンロンは東方武術の宗師。
あの家の協力が得られれば。
兵士たちの基礎作りは格段に進むはずだ。
結論が出るまで時間はかからなかった。
ルイナはその足でホン家へ向かった。
竹林を抜ける風が心地良い音を立てている。
それなのに、足を踏み入れた瞬間、僅かな居心地の悪さを覚えた。
理由は分かっている。
朝食の席での出来事だ。
あの日から、どこか空気が変わった気がしていた。
夫婦になったばかりなのに、夫との間に妙な距離がある。
そのことを意識すると、足取りまで僅かに重くなる。
道場から打ち合う音が聞こえてきた。
ハオランだ。
ルイナは道場の入口で足を止める。
中ではハオランが一人、流星錘を振っていた。
鎖が風を切り、二つの錘が弧を描く。
踏み込み。
腰の回転。
腕の動き。
一つ一つが無駄なく繋がっていた。
訓練場の兵士たちとは、比べるまでもない。
ハオランは最後の一振りを終えると、流星錘を手元へ引き寄せた。
そこでようやくルイナに気付いた。
「……何か用か?」
以前より明らかに硬い声だった。
ルイナは少しだけ間を置いた。
「お願いがあるの」
ハオランは流星錘を片付けながら、視線を合わせない。
「俺に?」
「ええ」
「何だよ」
「騎士団の訓練を手伝ってほしい」
ハオランの手が止まった。
「俺は騎士じゃない」
「知っているわ」
「剣も使わない」
「それも知っている」
「なら、俺じゃなくてもいいだろ」
その言葉には、世話焼きな彼らしさがなかった。
ルイナは黙ってハオランを見る。
──やはり距離を感じる。
「剣術を教えてほしいわけではないの」
ルイナはゆっくりと言葉を選んだ。
「兵士たちの基礎を作ってほしいの」
「基礎?」
「立ち方、重心、体の使い方。武器を扱う前の身体の鍛え方」
ハオランは黙った。
「五十人以上を私一人で見るのは難しい」
そこで、ルイナは視線を少し落とした。
頼る。
その言葉が、どうにも苦手だった。
父に言われた。
言葉が足りないと。
ならば、きちんと伝えなければならない。
「あなたの力を借りたい」
ハオランの眉が僅かに動いた。
やがて長い沈黙の後、ハオランが小さく息を吐いた。
「……分かったよ」
諦めたような声音だった。
「手伝えばいいんだろ」
了承だった。
間違いなく了承なのだ。
だが、どこか遠い。
以前ならもう少し柔らかかったはずの空気が感じられない。
ルイナが礼を言おうと口を開く。
しかしその前にハオランが背を向けた。
「明日の朝からでいいか」
「ええ」
それだけ。
本当にそれだけだった。
ハオランは振り返らない。
そのまま屋敷の方へ歩いていく。
ルイナは無言でその背中を見送った。
何かがおかしい。
そう思うのに、理由が分からない。
自分は何かしただろうか。
考えてみても答えは出ない。
以前と同じように接しているつもりだった。
それなのに距離だけが生まれている。
竹の葉がさらさらと揺れる。
夕暮れの風が二人の間に残された沈黙を運び去っていく。
ルイナはしばらくその場に立ち尽くしていた。




