井戸端
翌朝、砦の広場には、いつもとは違う空気が流れていた。
夜露を含んだ土はまだ湿り気を残し、朝靄が薄く漂っている。東の空から差し込む柔らかな陽光が、整列した兵士たちの鎧や剣を淡く照らしていた。
その列の前に、新たな顔が立っている。
ハオランだった。
動きやすい稽古着を身に纏い、腰には流星錘を提げている。
騎士とは違う。
兵士とも違う。
それでも、その場に立つだけで自然と視線を集める不思議な存在感があった。
兵士たちの前に立ったハオランは、肩を回して軽く体をほぐす。
そして気負いのない笑みを浮かべた。
「よろしくな、みんな。今日から基礎を見させてもらう」
あまりにも自然な第一声だった。
厳しい訓示もなければ説教もない。
そのため兵士たちは逆に戸惑っていた。
これまで彼らが受けてきた指導といえば、怒鳴り声と叱責ばかりだったのだ。
間違えれば怒られる。
失敗すれば怒鳴られる。
そういうものだと思っていた。
だからこそ、目の前の男の柔らかな口調に調子を狂わされている。
ハオランはそんな反応を気にした様子もなく兵士たちの間へ入っていった。
「ちょっと構えてみろ」
言われた兵士が剣を構えるが、次の瞬間、ハオランは苦笑した。
「力入りすぎだ」
肩を軽く叩く。
兵士の体が僅かに揺れた。
「ほら、こんなに固くなってる」
「す、すみません」
「謝らなくていい」
ハオランは笑った。
「緊張するのは分かる。でもそのままじゃ長く戦えねぇ」
そう言いながら自ら腰を落とす。
地面を踏み締める。
肩の力は抜けているのに、まるで根を張った大木のように安定していた。
「押してみろ」
兵士に肩を押させる。
若い兵士が恐る恐る力を込めた。
しかしハオランの体はほとんど揺れない。
「えっ」
驚きの声が上がる。
周囲からも感嘆の息が漏れた。
「腕の力じゃねぇ」
ハオランは自分の腰を軽く叩いた。
「足と腰で立つんだ」
そう言って一人一人の姿勢を見て回る。
腰が高い者には腰を落とさせる。
重心が前へ流れている者には足の位置を直させる。
説明は簡潔だったが、分かりやすい。
体で理解できる。
「そこ、もう少し足を開け」
「そうそう、その感じだ」
「お、良くなったな」
褒めることも忘れない。
そのため兵士たちの表情は徐々に明るくなっていった。
失敗を恐れていた目が、少しずつ前を向き始める。
笑い声すら混じるようになっていた。
広場の空気が変わっていく。
その変化をルイナは離れた場所から見つめていた。
兵士たちが動いている。
昨日よりも明らかに生き生きと。
基礎訓練は地味だ。
派手な剣技よりも退屈で、成果も見えにくい。
それでも兵士たちは真剣だった。
ハオランの教え方が上手いのだろう。
思わず小さく息を吐く。
頼んで正解だった。
そう思えた。
もっとも、本人に直接伝える勇気は何故か出てこなかったが。
一方その頃。
広場の隅にある井戸の近くでは、別の意味で穏やかな時間が流れていた。
井戸の縁に腰を下ろしたノアは、桶をぶらぶらと揺らしながら訓練風景を眺めている。
隣には古参兵のアンダル。
二人とも仕事の合間の休憩だった。
「なあ」
ノアが顎をしゃくった。
「あれ誰だ?」
視線の先には兵士たちに囲まれるハオラン。
アンダルは水を一口飲み、それから答えた。
「ああ。ルイナ団長の旦那さんですよ」
その瞬間だった。
ノアの目が大きく見開かれる。
「は?」
桶が危うく手から滑りそうになる。
「旦那?」
「ええ」
「結婚してんの?」
「してますよ」
「本当に?」
「本当です」
アンダルは当然のように頷いた。
対してノアは理解不能な顔をしている。
しばらく固まった後、ようやく声を絞り出した。
「……あんな女を?」
アンダルの顔が微妙に引き攣った。
しかし、ノアは止まらない。
「いや、美人だぞ?」
慌てて付け加える。
「美人なのは認める。スタイルもいい」
そこは即答だった。
「でも可愛げねぇじゃん」
遠くにいるルイナへ視線を向ける。
腕を組み、無表情で訓練を見守る姿。
相変わらず隙がない。
「初対面で、鞭飛んできたんだぞ」
腕に残るうっすらとした痕をさすりながら、ノアはぼやくように愚痴をこぼした。
あの日の一撃は、彼の中でまだ生々しい記憶として居座っているらしい。思い出しただけでも顔をしかめ、大袈裟に肩をすくめてみせる。
「普通そんなことあるか?」
「まあ……普通ではないですね」
「だろ? あんなのと毎日顔合わせてる旦那の胃、大丈夫かよ」
滔々と続く愚痴に、アンダルは何とも言えない顔で相槌を打っていた。
「しかも怖い」
「怖いですか?」
「怖い」
即答だった。
「怒鳴らねぇのに怖い」
ノアは真顔で言う。
「無表情で近づいてくるだろ」
「ええ」
「無表情で鞭持ってるだろ」
「そうですね」
「怖いだろ」
「まあ……」
アンダルは否定できなかった。
ノアは大きく頷く。
「目が怖ぇんだよ」
さらに続ける。
「あの目で見られると、なんか悪いことしてないか考えちまう」
「分かります」
「だろ?」
「分かります」
二人は妙な連帯感を得ていた。
井戸端にはのんびりとした風が吹いている。
遠くでは兵士たちの掛け声。
鳥の囀り。
平和だった。
実に平和だった。
「でもまあ」
アンダルが広場を見ながら言う。
「団長が来てから変わりましたよ」
その言葉にノアも黙る。
武具庫。
訓練。
規律。
どれも少しずつ改善している。
認めたくないが事実だった。
「そりゃな」
肩を竦める。
「やることはやってる」
「ですよね」
「やり過ぎな気もするけど」
ぼそりと付け加えた。
──その瞬間だった。
背筋を冷たいものが這い上がる。
長年の経験が警鐘を鳴らす。
嫌な予感がした。
とても嫌な予感が。
「まだ痛い目に遭いたいようね」
背後から声がした。
静かな声。
抑揚のない声。
だからこそ恐ろしい声。
ノアとアンダルは同時に固まった。
ぎこちなく振り返る。
そこに立っていたのは、ルイナだった。
いつの間に近づいたのか分からない。
右手には愛用の鞭。
夕陽を受けた革紐が不気味に光っている。
「みんな訓練しているのに、随分余裕があるのね」
「いや、これは休憩で──」
「問答無用。おしおきよ」
言い終わるより早く、鞭が空を裂いた。
革紐がしなり、続けざまに二人の体を打ち据える。
「ぎゃあああっ!?」
「うわああああっ!?」
二人の悲鳴が重なった。
桶が宙を舞う。
水が飛び散る。
井戸端は一瞬で阿鼻叫喚になった。
その様子を見た兵士たちは、一斉に視線を逸らす。
誰も助けようとしない。
むしろ。
「腰を落とせ!」
「はい!」
「もっと声出せ!」
「はい!」
訓練への集中力が急激に増した。
背筋は伸びる。
返事は大きい。
動きも俊敏。
見違えるような成果だった。
遠くでそれを見ていたハオランは苦笑する。
「すげぇ効果だな……」
どんな訓練よりも効いている気がした。
夕暮れの広場に悲鳴が響く。
そして兵士たちの気合いの入った声もまた、空高く響き渡っていた。
砦の空気は、確かに変わり始めていた。




