ラト村
砦の備品が底を突きかけていることに気づいたのは、修繕作業も一段落した頃だった。
革具の油、砥石、包帯の替え──細々とした消耗品の数々は、これまでの放置のつけが回るように次々と底を見せ始めている。
帳簿を確認したルイナは必要な品を書き出し、近隣で最も市が賑わうというラト村へ向かうことを決めた。
本来ならばハオランを連れて行ってもよかった。しかし彼は今、砦に残って兵士たちの訓練を任されている。
修繕作業が終わった今こそ、次は兵士たち自身を鍛え直す段階だった。
朝早くから広場に立ち、木剣を振る兵士たちへ檄を飛ばしていた姿を思い出しながら、ルイナは砦の門をくぐる。
同行するのはノアだけだった。
「買い出しかぁ……荷物持ちに俺を選ぶなんて容赦ねぇな」
「暇そうだったから」
「否定できねぇのが悲しいところだな」
気怠そうな声が返ってくるが、本気で嫌がっている様子はない。
最近ではこうして二人で行動することも増えていた。
砦を出て小一時間。
緩やかな丘を越えた先に、ラト村の姿が見えてくる。
木造の家々が寄り添うように並び、煙突からは白い煙が細く立ち昇っていた。
畑では農夫たちが鍬を振るい、道端には干し野菜が吊るされている。
王都の華やかさとは程遠い。
それでも人々が確かに生きている温かさが、この村にはあった。
「へえ、意外と賑わってるんだな」
ノアが感心したように呟く。
今日は定期市の日らしく、通りには露店がずらりと並んでいた。
焼きたてのパンの香り。
香辛料の刺激的な匂い。
行商人たちの呼び込みの声。
子供たちの笑い声。
様々な音と匂いが混ざり合い、村全体が活気に包まれている。
ルイナは周囲を見回した。
ここは今後も騎士団が守る土地だ。
どのような人々が暮らし、どのような店があり、どのような道が通っているのか。
隊長として知っておく価値がある。
「団長?」
「少し見ているだけ」
「ふーん」
ノアは深く追及しなかった。
通りを歩きながら、ルイナは村の様子を静かに観察する。
井戸の位置。
広場までの距離。
荷車が通れる道幅。
火事が起きた場合に延焼しやすそうな場所。
無意識のうちに視線がそうした点へ向いてしまうのは職業病かもしれない。
そうして通りを半分ほど進んだ時だった。
前方から不穏な喧騒が聞こえてきた。
悲鳴。
怒号。
何かが激しく地面を叩く音。
ルイナの足が止まる。
ノアも同時に顔を上げた。
「なんだ?」
通りの先、広場の近くで、一頭の栗毛馬が暴れていた。
荒い鼻息を吐き、前脚を振り上げ、興奮した様子で首を振り回している。
手綱を握った男が必死に抑え込もうとしていたが、まるで歯が立っていない。
「落ち着け! 落ち着けって!」
男の叫びも虚しく、馬はさらに激しく暴れる。
周囲の人々が慌てて距離を取った。
荷車が横倒しになり、露店の主人が商品を抱えて逃げ出していく。
そして次の瞬間、男の手から手綱が抜けた。
「あっ!」
解き放たれた馬が通りを駆け出す。
土煙が舞い上がる。
人々の悲鳴が一斉に広がった。
「うわっ、危ねぇ!」
「逃げろ!」
誰もが道の脇へ飛び退く。
その中で一人だけ動きが違った。
ルイナだった。
彼女は逃げるどころか、一歩前へ出る。
真っ直ぐに、暴走する馬の進路へ。
「お、おい!」
ノアが目を見開く。
「何やってんだルイナ!?」
だが、ルイナは止まらない。
騎士学校時代、軍馬の扱いは必須科目だった。
暴れ馬を落ち着かせる訓練も受けている。
もちろん危険がないわけではない。
それでも、ただ怯えて逃げるよりはずっとましだった。
興奮した動物は恐怖を敏感に感じ取る。
騒げば騒ぐほど、混乱は大きくなる。
だからこそ必要なのは冷静さだ。
ルイナは道の中央に立った。
視線を逸らさず、迫り来る馬を見据える。
栗毛の巨体が近づく。
蹄が地面を叩く。
鼻息が荒く響く。
あと数歩。その距離まで迫った瞬間。
馬の耳がぴくりと動いた。
ルイナは微動だにしない。
落ち着き払った視線だけを向け続ける。
馬は一瞬だけ躊躇した。
そして──
目前で急停止した。
土が跳ねる。
強引に止まった反動で馬体が揺れる。
周囲から驚きの声が上がった。
「止まった……」
「すげぇ……」
興奮していた瞳が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
ルイナはゆっくりと手を伸ばした。
汗ばんだ首筋へ触れる。
張り詰めた筋肉が僅かに震えた。
「じゃじゃ馬ね」
静かな声。
叱責でも命令でもない。
ただ落ち着かせるような響きだった。
馬は鼻を鳴らした。
荒かった呼吸が徐々に整っていく。
首筋を撫で続けるうちに、全身の力が少しずつ抜けていった。
やがて人々の悲鳴も収まる。
通りには安堵の空気が広がっていた。
しばらくして、先ほどの男が息を切らしながら駆け寄ってくる。
「す、すみません! 本当にありがとうございました!」
恐縮しきった様子で頭を下げながら手綱を受け取る。
先ほどまで暴れていた馬は、まるで別の馬のように大人しかった。
男は何度も礼を言いながら去っていく。
その後ろ姿を見送り、ルイナは静かに息を吐いた。
「……お前、正気か?」
振り返ると、ノアが呆然としていた。
額にはうっすら汗まで浮かんでいる。
ルイナは裾についた土を払った。
「怯えては、動物には伝わるだけよ」
「いや、そういう問題か?」
「そういう問題」
即答だった。
ノアはしばらく沈黙した後、小さく笑う。
「ルイナには敵わねぇな、ほんと」
その声音には、軽口とは違う響きがあった。
呆れ。
感心。
そして少しの敬意。
ルイナは何も答えない。
ただ歩き出した。
ノアも肩を竦めながら後に続く。
騒ぎの収まった通りを進み、二人は目的の店を回った。
道具屋では革具用の油と砥石を購入する。
雑貨屋では包帯の束や薬草の袋を買い込んだ。
荷物が増えるたびにノアの表情が曇っていく。
「重い」
「頑張って」
「ルイナも持てよ」
「団長命令」
「横暴だろそれ」
そんなやり取りを交わしながら歩いていると、広場の端に小さな花屋が見えた。
色とりどりの花が籠いっぱいに並んでいる。
その前で、水色の髪が揺れた。
見覚えのある色だった。
「あ!」
少女がこちらに気づく。
ぱっと顔を輝かせた。
「お義姉ちゃん!」
リンナだった。
花を数本抱えたまま駆け寄ってくる。
頬には少し土が付いている。
どうやら仕入れを手伝っていたらしい。
「こんなところで会うなんて奇遇だね!」
「店番?」
「うん! 今日はお花屋さんのお手伝いしてるの!」
元気いっぱいに胸を張る。
その様子にルイナの目元が僅かに和らいだ。
リンナは手に持っていた花束を差し出した。
淡い紫色の小花が風に揺れる。
「ほらこれ! 綺麗でしょ!」
「ええ」
素直に頷く。
確かに美しかった。
「一束もらおうかしら」
「ほんと!?」
ぱっと笑顔が弾ける。
「やった! ありがとうお義姉ちゃん!」
喜ぶリンナを見ていると、不思議と心が和む。
隣では荷物を抱えたノアが微笑ましそうに眺めていた。
「あんたにも、こういう普通の顔があるんだな」
小さな独り言。
しかし、ルイナの耳には届いていた。
彼女は何も言わない。
代わりに受け取った花束をそっと胸元へ引き寄せる。
甘く優しい香りが鼻をくすぐった。
夕暮れにはまだ早い。
穏やかな陽光の下、ラト村の喧騒は変わらず続いている。
誰もがいつも通りの日常を過ごしていた。
まるで、この平和がずっと続くと信じているかのように。




