竹林のパンダ
ルイナが砦に赴任してから、はや数日が経とうとしていた。
未だに職務を面倒がる者はいる。
大抵はノアで、ノアで、そしてまたノアだった。
日向を見つけては腰を下ろし、点呼の合間に姿を消し、気づけば井戸端で大欠伸をしている。
そのたびにルイナの鞭が飛び、情けない悲鳴と共に仕事へ引き戻される光景は、もはや砦の日常となりつつあった。
それでも変化は確かにあった。
放置されていた武具は修繕され、訓練場には以前よりも真剣な声が響くようになっている。兵士たちの動きにも少しずつ規律が生まれ始めていた。
改革は順調だった。
誰の目にも分かるほどに。
──それなのに。
屋敷への帰り道。
夕闇が滲み始めた竹林を眺めながら、ルイナは胸の奥に残る違和感を持て余していた。
ハオランとの距離が縮まらない。
会話はある。
食事も共にする。
それだけだった。
視線が合うことは減った。
自然に交わされていた短いやり取りも、どこかぎこちない。
まるで二人の間に見えない壁が立っているかのようだった。
原因は分かっている。
おそらく、あの日だ。
婿入りの話が出た朝食の席。
あれを境に、ハオランは目に見えて変わった。
しかし……理由が分からない。
もし本当に嫌なことがあるなら、彼は黙って抱え込むような男ではないはずだった。
不器用ではあるが、誠実だ。
だからこそ余計に分からない。
考え込んでいた時だった。
竹林の奥から楽しげな笑い声が聞こえてきた。
ルイナは顔を上げる。
聞き慣れた声だった。
導かれるように足を向ける。
竹の合間を抜けた先に、小さく開けた空間があった。
そこにいたのはリンナだった。
そして、その周囲を白と黒の小さな生き物たちが歩き回っている。
「あ、お義姉ちゃん!」
リンナが嬉しそうに手を振った。
ルイナは思わず足を止める。
見慣れない動物だった。
丸みを帯びた身体。
黒い耳。
黒い手足。
目元には黒い模様が入っている。
そのうちの一匹が竹を抱え込み、夢中で葉を食べていた。
「……何かしら、それは」
「パンダ!」
リンナが即答した。
「パンダ?」
「東方の山の方にいる動物なんだよ!」
誇らしげな説明と共に、一匹を抱き上げる。
子パンダは短い脚をばたつかせた後、諦めたようにリンナの腕の中で丸くなった。
懐っこいその様子は、日頃からリンナが世話をして懐かせている証なのだろう。
どうやら完全に懐いているらしい。
「可愛いでしょ?」
「……ええ」
ルイナは正直に頷いた。
驚くほど、可愛かった。
一匹がとてとてと近寄ってくる。
警戒心の欠片もない。
やがてルイナの足元に座り込み、鼻をふすふすと鳴らした。
恐る恐る手を伸ばす。
柔らかな毛並みが指先に触れた。
暖かい。
思った以上に暖かかった。
子パンダは気持ち良さそうに目を細め、そのまま額を手のひらへ押し付けてくる。
「……可愛いわね」
自然と声が漏れた。
リンナが嬉しそうに笑う。
「でしょー!」
その後もしばらく二人はパンダたちと戯れていた。
転んだ子パンダを起こし。
竹を抱えて歩く姿を眺め。
膝の上によじ登ってくる小さな体を支える。
不思議な時間だった。
砦では常に気を張っている。
規律を守らせるために厳しく振る舞わなければならないが、今だけは違う。
温かな毛並みと、のんびりした動きに触れているうちに、肩に入っていた力が少しずつ抜けていくのが分かった。
その時、膝の上の子パンダが、のそのそと身体を起こした。
そして突然、ふらふらと歩き出す。
その先には親パンダがいた。
子パンダは迷うことなく親の腹へ飛び込み、甘えるように身体を擦り寄せる。
親パンダは当たり前のように受け入れた。
大きな身体で子を包み込む。
その光景を見た瞬間。
ルイナは何故か目を離せなくなった。
──家族。
その言葉が頭をよぎる。
そして自然とハオランの顔が浮かんだ。
夫婦。
家族。
結婚。
婿入り。
脳裏に浮かんだ言葉が一本の線で繋がりそうになる。
だが、まだ何か足りない。
答えまでは届かない。
「お義姉ちゃん?」
リンナが不思議そうに覗き込んだ。
ルイナは我に返る。
そして前から抱えていた疑問を口にした。
「リンナ。少し聞きたいことがあるの」
「なに?」
「最近、ハオランの様子がおかしい気がするの。あなたは何か知らない?」
リンナは目をぱちくりさせた。
「あたし?」
「ええ」
しばらく考え込む。
腕の中の子パンダを撫でながら首を傾げた。
「うーん……別にいつも通りだと思うけど」
予想通りの答えだった。
リンナは兄の細かな変化を読むタイプではない。
ルイナもそれは分かっていた。
それでも何か手掛かりが欲しかった。
「婿入りの話が出てからなの」
そう付け加えれば、リンナはしばらく考え込むように唸った。
竹の葉が風に揺れ、木漏れ日が地面の上でちらちらと踊る。
やがて、彼女は思いついたように顔を上げた。
「あたしが後継者なのが心配なのかな?」
「……」
「それとも、お兄ちゃんも本当は継ぎたかったとか?」
無邪気な推測だった。
あり得なくはない──が、違う気がする。
もしそれが理由なら、ハオランはきっと隠さない。
黙って距離を置くようなやり方はしないはずだった。
「……それだけではない気がするわ」
ルイナは小さく呟いた。
その時だった。
ふいに、記憶が蘇る。
王都を発つ日、グレゴールが言った言葉。
『夫となる男とよく話し合え』
『お前は昔から言葉が足りん』
あの時は理解できなかった。
父らしい説教だと思っただけだった。
──今は違う。
グレゴールは何かを見抜いていたのかもしれない。
娘の鈍さも。
夫婦になろうとしている二人の不器用さも。
だからあの言葉を残した。
ルイナは膝の上のパンダを見下ろした。
子パンダはいつの間にか親パンダの元へ戻っている。
迷うことなく、当たり前のように。
言葉など交わさずとも、そこに居場所があると知っているから。
その光景を見ているうちに、ルイナは苦笑した。
自分は戦場では迷わない。
敵がいれば戦う。
問題があれば解決する。
だが、夫婦のことになると途端に足が止まる。
理由を推測し。
答えを探し。
肝心の本人に聞くことを後回しにしていた。
それでは駄目だ。
父の言う通りだった。
言葉が足りない。
だから伝わらない。
夕暮れの風が竹林を抜ける。
葉擦れの音が静かに響いた。
ルイナは立ち上がる。
胸の中にあった霧が少し晴れていた。
答えはまだ分からない。
だけど、やるべきことは分かる。
「ありがとう、リンナ」
「え?」
「少し考えがまとまったわ」
リンナは首を傾げたが、すぐに笑顔になった。
「あたし何もしてないよ?」
「そうかもしれないわね」
ルイナは小さく笑った。
そして屋敷の方へ視線を向ける。
今夜、ハオランと話そう。
逃げずに。
曖昧にせずに。
夫婦として向き合おう。
その決意だけは、もう揺らがなかった。
夕闇の迫る竹林を後にしながら、ルイナは静かに歩き出した。




