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言葉が足りない

屋敷が寝静まる頃合いを見計らい、ルイナは廊下を静かに歩いていた。

板張りの床は昼間の温もりをすでに失い、素足に近い薄い足袋の裏から、ひやりとした冷たさが伝わってくる。手にした行灯の光が、揺れるたびに壁へ細い影を這わせた。


ハオランの部屋の前に立ち、しばし呼吸を整える。


竹林のパンダと戯れてから屋敷へ戻るまでの間、幾度も頭の中で言葉を組み立てては崩し、また組み立て直した。

それでも、いざ扉を前にすると、喉の奥が思いのほか強張っているのを自覚する。


小さく息を吐き、拳を持ち上げて戸を叩いた。


内側で何かが動く気配がして、ほどなく戸が開かれる。寝間着姿のハオランが、怪訝そうな顔でこちらを見下ろした。


「何か用か?」


素っ気ない問いかけだった。ルイナは一瞬だけ言葉を選び、それから短く答える。


「話がしたいの」


その一言に、ハオランの表情がわずかに揺れた。


しばしの間、彼は何かを見極めるようにルイナの顔を見つめていたが、やがて無言のまま体をずらし、部屋の中へと招き入れる仕草を見せた。


行灯の淡い光だけが灯る部屋に足を踏み入れると、畳の匂いと、微かに残る夜気の冷たさが肌を撫でた。


戸を閉めたハオランは、腕を組んだまま、どこか落ち着かない様子で口を開く。


「こんな夜中に男の部屋に来るなんて、何考えてんだ?」


咎めるような口調の奥に、隠しきれない動揺が滲んでいた。ルイナはその視線を正面から受け止め、静かに言い返す。


「夫婦なのだから問題ないでしょう」


淡々とした返答に、ハオランは一瞬言葉を詰まらせた。二人の間には、まだ越えていない一線がある。

初夜という言葉が、二人の間で明確に交わされたことは一度もない。


──話ってまさか。


そんな考えが脳裏をよぎったのか、ハオランの喉仏が小さく上下するのが見て取れた。


しかし続いたルイナの言葉は、その予想とはまるで違う方向へと進んでいった。


「最近、距離を感じるの」


拍子抜けしたように、ハオランの肩から力が抜ける。それを誤魔化すように、彼はわざとらしく肩をすくめてみせた。


「気のせいだろ」


「いいえ」


即座に返された否定に、ハオランは思わず眉をひそめる。ルイナは行灯の淡い光の中、まっすぐに彼の目を見据えたまま続けた。


「婿入りの話からあなたは目を合わせなくなった」


その指摘に、ハオランは何も答えなかった。視線を微妙に逸らし、口を真一文字に結んだまま、部屋の隅へと目を落とす。


沈黙が、二人の間に重く垂れ込めた。


その沈黙の重さに耐えかねたように、ルイナが静かに口を開く。


「失礼なことを言ってしまったのなら、謝るわ」


「──そういうのやめろ」


遮るように放たれた声には、思いのほか鋭い棘があった。ハオランは苦い顔をしたまま、吐き捨てるように続ける。


「適当に謝られても困る」


その厳しい響きに、ルイナは一瞬息を呑んだ。それでも視線は逸らさず、静かに頭を下げる。


「ごめんなさい。でも──何かあるのなら、ちゃんと話してほしい」


真摯な言葉だった。だがハオランは、その言葉に応える代わりに、ゆっくりと体の向きを変え、ルイナに背を向けてしまった。


今の自分がどんな顔をしているのか、彼自身にも分からなかったのかもしれない。


ただ、その表情を見られたくないという思いだけが、丸めた背中から伝わってくる。


長い沈黙が落ちた。行灯の炎が、じ、と小さく音を立てて揺れる。


ハオランはしばらく黙り込んだまま、何度か口を開きかけては、また閉じることを繰り返していた。ようやく声が出たのは、随分と長い間の後だった。


「……リンナがさ」


唐突な切り出しに、ルイナは黙って耳を傾ける。


「たまに、仏壇の前で座り込んでんだよ。誰かに言われたわけでもねぇのに、線香上げて、じっと座ってる。何してんだって聞いたら、母さんに顔見せてるだけ、って笑うんだ」


背を向けたまま語られるその声には、抑えた響きがあった。ルイナは何も挟まず、ただ静かに続きを待つ。


「あいつ、お袋の顔なんて知らねぇんだよ。産まれてすぐ死んじまったから。それでも、誰かに教わったわけでもないのに、ああして座ってる姿を見ると──なんつーか、こっちの方が寂しくなる」


行灯の灯りが、丸めた背中の輪郭をぼんやりと縁取っていた。ハオランは一度、言葉を切って息を吐く。


「俺は物心ついた頃からお袋がいたけど、あいつには最初からいなかった。同じ屋根の下で育っても、抱えてるもんが違うんだよな。だから、俺がしっかりしなきゃって、ずっと思ってた。兄貴なんだから、お袋の分まで──とはいかなくても、何か埋めてやれたらって」


その独白に、ルイナの胸の奥が静かに締め付けられる。彼女はしばらく言葉を探し、それから、そっと呟いた。


「……優しくてしっかり者のお兄さんね」


その一言に、ハオランの肩がわずかに震えた。振り返りはしなかったが、しばしの沈黙の後、声には少しだけ柔らかさが戻っている。


「そういうのずっと見てきたから、俺が家庭持つ時は絶対に、子供に寂しい想いなんかさせねぇって決めてたんだ。夫婦揃って、ちゃんと傍にいてやれる家にするって」


その言葉が、部屋の空気にゆっくりと沈んでいく。


ルイナは、この話がどこへ向かおうとしているのか、まだ完全には掴めずにいた。

ただ、彼の声の端々に滲む切実さだけは、はっきりと伝わってくる。


「でもさ」


ハオランの声が、そこで一段低くなった。


「お前はいずれ王都に戻る。それはいいんだ。領主の娘なんだから、当然っちゃ当然だ。でも──お前は俺に、好きにしろって言った」


言葉が、そこで一拍、間を置いた。


「つまり俺は、お前の将来像に入ってないんだよ」


ようやく紡がれたその一言に、ルイナは息を呑んだ。ここまでの話が、すべてこの一言に繋がっていたのだと、遅れて理解が追いついてくる。慌てて言葉を継いだ。


「それは……あなたがカルディアを出たくなさそうだったから……」


「俺は、たとえ政略結婚だったとしても嫁さんになる女は大切にしたいし、子供が出来たならちゃんと愛してやりたい。でもお前の考える未来にそんなのないんだなって思ったら……」


言葉の途中で、その声がわずかに掠れた。振り返らない背中が、ほんの少しだけ小さく見える。


ルイナは胸の中で何かが崩れる感覚を覚えながら、静かに首を振った。


「違うわ」


短く、はっきりとした否定だった。


「私は……あなたと夫婦になりたいと思っている」


まだ言葉を選びながらの返答だった。それでも、その声には確かな熱がこもっている。


ハオランは、それでもまだ振り向こうとしなかった。


「カルディアに残っていいと言ったくらいなんだから、俺は必要ないんじゃないか?」


「あなたの意思を尊重したの。無理やり連れて行くことなんて出来ないから」


言い訳がましくなってしまった自分の声に、ルイナ自身が戸惑う。ハオランはようやく、ゆっくりと体を巡らせた。


「……お前はどうしてほしいんだよ?」


正面から向き直ったその瞳は、真剣な光を宿しながらも、どこか寂しげな翳りを帯びていた。

行灯の炎に照らされたその表情を、ルイナは初めて正面から受け止める。


「俺のためって言うけどさ、俺のためならちゃんと俺にどうしてほしいのか言ってくれよ」


「ハオラン、に……?」


「ああ。所詮、政略結婚だと割り切るならそれでいい」


突き放すような響きに、ルイナは咄嗟に首を振った。


「……わがままを言ってあなたを困らせたくないわ」


その返答に、ハオランの表情が一瞬にして歪んだ。


「あのなぁ………あーーーもう!! じれってぇ!!!!」


突然張り上げられた声に、ルイナの肩がびくりと跳ねる。狭い部屋の壁に、その声が反響した。


「そういう大事なことを言わないでどうすんだよ!? 本心隠されてる方が迷惑なんだよ!!」


激しい言葉に、ルイナは思わず一歩後ずさりそうになる。

その怒りの奥に滲む切実さを感じ取り、彼女はぐっと踏みとどまった。


「……ごめんなさい。あなたを怒らせるつもりは──」


「そういうのいいから。俺にどうしてほしいのかだけ言ってくれ。ここに残ってほしいのか──それとも、一緒に王都に来てほしいのか」


真正面から突きつけられた問いに、ルイナは息を止めた。行灯の炎が、静かに揺れている。答えを口にすることが、これほどまでに重く感じられるとは思っていなかった。


カルディアには、ハオランが生まれ育った家族がいる。父の教えを受け継ぐ道場があり、妹がいて、旧知の友がいる。それらすべてを置いてまで、彼が自分についてきてくれるのか──その確信が持てないまま、わがままを口にすることが、ずっと怖かったのだと、ようやく気づいた。


長い沈黙の後、ルイナは覚悟を決めるように、静かに、しかしはっきりと告げた。


「ついて……来てほしい。私、あなたと一緒にいたい」


震えを押し殺した声だった。それでも、その言葉には、これまで彼女が見せたことのない、剥き出しの本音が宿っていた。


ハオランは、すぐには何も言わなかった。


しばらくの間、彼はただ黙って、ルイナの顔を見つめ続けていた。行灯の炎に照らされたその表情を、瞬きひとつせずに確かめるように。


数日間、胸の奥で燻らせ続けてきた諦めにも似た感情が、その静かな沈黙の中で、少しずつ溶けていくのが分かった。


小さく、長く、息を吐く。それは呆れにも、安堵にも似た、複雑な色を帯びた吐息だった。


「……やっと言ったな」


呟くようにそう言うと、ハオランの顔に、ようやく柔らかな笑みが浮かんだ。


張り詰めていた空気が、その一瞬でふっと緩む。


彼はゆっくりと歩み寄り、そっとルイナの体を抱き寄せた。


不意打ちのような温もりに、ルイナは驚きのあまり体を強張らせる。


心臓が、痛いほどに早鐘を打っていた。腕の中に閉じ込められたまま、身動きひとつ取れずにいる。


「そんな可愛いわがままなら、いくらでも聞いてやるよ」


耳元で囁かれたその声には、これまでの硬さが嘘のように消え失せていた。

行灯の炎が、二人の輪郭をゆっくりと橙色に縁取っている。


窓の外では、大きな満月が二人を静かに見守っていた。


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