港に来た誇り高き馬
砦の執務室には、羊皮紙の擦れる乾いた音と、インクの匂いだけが満ちていた。
ルイナは山積みになった巡回報告書に目を通しながら、羽根ペンの先で数字を一つずつ確認していく。
集中しているときの癖で、眉間にほんの少しだけ皺が寄っていた。窓から差し込む午前の光が、机の上に伸びた影をゆっくりと動かしている。
その静寂を破ったのは、廊下を駆けてくる荒々しい足音だった。
「団長! 港から使者が来ています!」
扉を開け放って飛び込んできた兵士は、息を切らしながら敬礼も忘れて叫んだ。
頬が上気し、額には汗が滲んでいる。よほど急いで走ってきたのだろう、呼吸の合間に言葉を継ぐのがやっとという様子だった。
ルイナは羽根ペンを置き、顔を上げる。
表情はほとんど動かないが、報告書の束を几帳面に重ね直す仕草の速さに、彼女なりの緊張が滲んでいた。
「港から? 何用」
「そ、それが……とにかく来ていただければと。港の者たちが、ひどく困っている様子で」
要領を得ない報告だったが、ルイナは小さく頷き、椅子から立ち上がった。
同じ部屋の隅で書類の整理をしていたハオランが、ちらりとこちらを見る。視線が合うと、彼は何も言わずに上着を手に取った。言葉のいらないやり取りだった。
外へ出ると、潮の匂いを含んだ風が二人の頬を撫でた。
港へ向かう道すがら、ルイナは特に何も語らなかった。
ただ、歩く速度がいつもよりわずかに速い。
ハオランはその隣で歩幅を合わせながら、横顔を一度だけ盗み見た。
表情は変わらないが、目の奥にほんのわずかな緊張の色が浮かんでいる。
彼女がこういう顔をするときは、大抵何か予感めいたものを抱いているときだ。
港に着くと、そこには一隻の大型貨物船が停泊していた。船体は潮風に晒されて塗装が剥げ、長い航海の疲労を物語っている。
桟橋には人だかりができており、船員たちが困惑した顔つきで何やら言い合っていた。
「やっと来たか!」
一人の船員がルイナたちの姿を見つけるなり、安堵とも苛立ちともつかない声を上げる。
「この馬、誰の言うことも聞かねぇんだ!」
その言葉に、ルイナの表情がわずかに強張った。
船倉の奥から、鈍く重い蹄の音が響いてくる。
それは苛立たしげに床板を叩く音で、次第に大きくなっていった。船員たちが数歩後ずさりする中、軋みながら船倉の扉が開かれる。
現れたのは、漆黒に近い黒鹿毛の巨躯だった。
鬣を振り乱し、鼻孔を大きく膨らませて荒い息を吐き出している。
筋肉の盛り上がった首を激しく振り、前脚で床を蹴りつけるたびに、狭い船倉に籠っていた獣の匂いと汗の匂いが潮風に混じって漂った。
目には興奮と警戒の色が濃く滲み、誰かが一歩でも近づこうものなら容赦なく蹴りつけそうな殺気を纏っている。
「近づくな、蹴られるぞ!」
船員の一人が叫び、他の者たちも遠巻きに様子を窺うばかりだった。
誰一人として手綱を取ろうとする者はいない。それほどまでに、その馬の放つ気配は凶暴だった。
しかし──。
暴れていた馬の動きが、不意にぴたりと止まった。
大きく見開かれていた目が、桟橋に立つルイナの姿を捉えた瞬間、荒かった呼吸がすうっと静まっていく。
振り乱していた鬣も落ち着き、あれほど苛立たしげに蹴っていた前脚が、静かに地面へと下ろされた。
「……エルシオン」
ルイナの声は、いつもの凛とした響きとは違う、どこか柔らかなものだった。
囁くように紡がれたその名前に応えるように、馬は小さく鼻を鳴らす。ふん、と息を吐き出す音は、まるで安堵の吐息のようでもあった。
「な、なんだそりゃ……」
「別の馬じゃねぇのか!? さっきまであんだけ暴れてたのに」
船員たちが顔を見合わせ、口々にざわめく。誰もが信じられないという顔で、目の前の光景を凝視していた。
エルシオンは彼らの言葉など気にも留めず、周囲の船員を軽く押しのけるようにして歩を進める。
蹄が桟橋の板を打つ音が一定のリズムを刻み、その一歩一歩が確かな意志を持って迷いなく主人の元へと向かっていた。
ルイナのすぐ前まで来ると、大きな鼻先をそっと彼女の肩口に寄せる。
ルイナは手を伸ばし、その硬い被毛に指を沈めた。
首筋を撫でると、エルシオンは目を細め、心地よさそうに小さく喉を鳴らす。長い睫毛に縁取られた瞳が、心なしか潤んで見えた。
「元気そうね」
短くそう呟くルイナの声には、普段は隠している感情の揺らぎが、ほんのわずかに滲んでいた。
傍らで見守っていたハオランは、何も言わずにその様子を見つめている。
彼女がこれほど柔らかな表情を見せるのは珍しいことだった。
「あの……手紙を、お預かりしております」
我に返ったように、一人の船員が懐から一通の封筒を取り出す。
ルイナはエルシオンの首を撫でる手を止めぬまま、もう片方の手でそれを受け取った。
上質な紙に、見覚えのある紋章の封蝋。それを見た瞬間、彼女の指先がほんのわずかに強張った。
封を開き、目を通す。
『ルイナ・ランカスター殿
貴女の愛馬が処分されるとの話を耳にした。
余計なお世話かもしれないが、見過ごすことができなかった。
どうか新天地でも貴女の助けとなれば幸いである。
ヴァレリウス・クロイツ』
短い文面を読み終えたルイナの眉が、かすかに寄る。
「……あの人ね」
呟いた声には、はっきりと言葉にはできないほど微かな──けれど確かな嫌悪の色が滲んでいた。
周囲の船員たちはその変化に気づく様子もなく、依然としてエルシオンの豹変ぶりに気を取られている。
しかし、すぐ隣に立っていたハオランだけは、その一瞬の表情の翳りを見逃さなかった。
「……誰だ」
短く問う声に、詮索するような響きはなかった。ただ、静かに尋ねる声色だった。
「王都にいる、クロイツ侯爵よ」
ルイナはそれだけを答え、手紙を丁寧に畳んで懐に仕舞う。それ以上語るつもりはない、という空気が漂っていた。
ハオランはそれ以上追及せず、ただ小さく頷くだけに留める。
「い、いやぁ、それにしても大変だったんですよ」
沈黙を破るように、船員の一人が口を開いた。安堵からか、堰を切ったように話し始める。
「王都で預かってた時から、誰の言うことも聞かなくて。近づくだけで威嚇してくるし、触ろうとすれば足で蹴ってくるしで、手に負えなかったんです。餌をやるのすら命がけで」
「騎士団の方でも処分の話が出ていたらしくて。そしたら、あのクロイツ侯爵様が、わざわざ海路で急がせてこちらまで届けろと。かなりの金を積んで、急な話だったんですけどね」
船員は肩をすくめながら、疲れの滲んだ苦笑を浮かべる。
長い航海の間、この気性の荒い馬をどう扱えばよいのか、船員たちなりに苦労を重ねてきたのだろう。
その表情には、安堵と困惑が入り混じっていた。
ルイナは黙ってその話を聞きながら、再びエルシオンの首筋へと手を這わせる。
硬い被毛の下に、確かな体温と鼓動が伝わってくる。
荒波に揺られながらも、この馬は誰にも心を許さず、ただひたすらに主人が現れる日を待ち続けていたのだろう。その頑なさが、どこか自分自身と重なって見えた。
「……お礼の手紙、出さないとね」
ぽつりと零れたその呟きは、誰に向けたものでもなく、ただ静かに潮風の中へと溶けていった。
エルシオンは満足げに鼻先をルイナの手のひらに擦り寄せ、目を閉じる。
長い時間をかけてようやく辿り着いた再会の余韻に浸るように、その場に佇む主従の姿を、傾き始めた陽射しが柔らかく照らしていた。




