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燃える村とまがい物の火

異変を告げる鐘の音が鳴り響いたのは、日が傾き始めた頃だった。


砦の見張り台から響く早鐘は、いつもの巡回交代を知らせるものとは明らかに音の間隔が違う。


短く、激しく、何度も打ち鳴らされるその響きに、執務室で書類を整理していたルイナの指先が、ぴたりと止まった。


「ラト村で火の手が上がっています!」


飛び込んできた伝令の声に、ルイナは即座に椅子を蹴るようにして立ち上がる。


窓の外へ視線をやると、遠く北東の空に、薄墨を溶かしたような黒煙が幾筋も立ち昇っているのが見えた。

夕焼けの朱色に染まりかけた空を、その煙が不気味に汚している。


「エルシオン」


短く名を呼ぶと、既に異変を察していたのか、厩から連れ出されたエルシオンが軽く鼻を鳴らして応えた。


鞍を整える間も惜しく、ルイナは手早く鞭を腰に差すと、迷いのない動作で鐙に足をかける。


ハオランは朝だけ騎士団の訓練を担当し、昼からはホン家の道場で門下生の指導をしているはずだ。

伝令を出して呼び戻す時間はない。騎士団の招集にも多少の時間がかかる。


ならば、一秒でも早く現地へ向かうべきなのは自分だと、判断は既に固まっていた。


「団長を一人で行かせるわけには」


追いすがろうとする兵士の声を背に受けながら、ルイナは手綱を締める。


「騎士団は整い次第すぐに追って。私は先に様子を見てくる」


言い残すが早いか、エルシオンの腹を軽く蹴る。巨躯に見合わぬ俊敏さで、黒鹿毛の馬体が矢のように駆け出した。


風がルイナの桃色の髪を激しく後方へなびかせ、頬を切るように打つ。土を蹴る蹄の音が、鼓動と重なって耳の奥に響いていた。


村が近づくにつれ、焦げた木材と煙の匂いが濃くなっていく。喉の奥に絡みつくような刺激臭に、ルイナはわずかに眉をひそめた。


視界の先に見えてきたラト村は、既にいくつもの建物から炎が噴き上がり、悲鳴と怒号が入り混じって夕闇を切り裂いている。


ルイナは村の入口でエルシオンを止めると、素早く飛び降りた。


「動ける者は井戸へ! 水を絶やすな、バケツは列を作って回すこと!」


よく通る声で指示を飛ばしながら、燃え盛る民家の傍らでうずくまっていた老婆に駆け寄る。

煙を吸い込んだのか、老婆はひどく咳き込みながら、腕の中に幼い孫を庇うように抱えていた。


ルイナは迷わず二人を抱え上げ、安全な場所まで運び出す。腕に伝わる重みと、老婆の震える息遣いが、事態の深刻さを何よりも雄弁に語っていた。


やがて土煙を上げながら騎士団の一団が到着する。


先頭を切って駆けてきたノアが、馬から飛び降りるなり周囲を見渡した。


「うわ、こりゃ盛大にやってんな……」


軽口めいた口調とは裏腹に、その目つきは鋭く周囲を観察している。普段の気怠げな空気が消え、代わりに研ぎ澄まされた集中が滲んでいた。


騎士団と村人が入り乱れながら、消火と救助が続けられる。

ルイナ自ら村人を誘導し、崩れかけた屋根の下から取り残された家族を助け出す間も、炎は衰える気配を見せなかった。


汗と煤で顔を汚しながら、ルイナは息をつく間もなく次から次へと現場を駆け回る。


そんな最中、ノアの足が不意に止まった。


視線が、燃え盛る村の全景を右から左へとゆっくり這わせていく。眉間に浅い皺が寄り、口元からいつもの軽薄な笑みが消えていた。


「……妙だな」


誰に聞かせるでもなく零れた呟き。ノアはその場に留まったまま、燃えている建物の位置を一つ一つ目で追っていく。


村の入口付近の納屋。


中央に近い倉庫。


そして少し離れた村長の屋敷付近。


それぞれが独立して炎を上げており、いずれの延焼経路を辿っても、隣接する建物からの燃え移りとは思えない距離が保たれていた。


普通の失火であれば、まず一軒から出火し、隣家へ、さらにその隣へと炎が這うように広がっていくはずなのだが──目の前の光景は違う。


まるで最初から複数の場所で、同時に火が放たれたかのような燃え方をしている。


「火元が一つじゃねぇ」


低く呟いた声には、確信めいた響きがあった。


ノアは焦げた地面を踏みしめながら、燃える倉庫の裏手へと回り込む。地面に視線を落とすと、そこには複数の轍と、無数の馬蹄の跡が刻まれていた。


しゃがみ込み、指先で土を軽くなぞる。踏み固められた蹄跡の深さと数から、決して少なくない頭数の馬がここを通ったことが窺えた。


しかも、その配置には村人が普段家畜を繋ぐような無造作さがない。統率された動きの跡だった。


「……こんな人数が村に、しかも馬に乗って来てたのか」


呟きながら、ノアは険しい顔で立ち上がる。焦げ臭い風が頬を撫でるたび、胸の奥に広がる不穏な予感が濃くなっていくのを感じていた。


やがて村人たちの避難がおおよそ完了する頃、ノアはルイナの元へと駆け寄った。煤に汚れた頬に、珍しく真剣な光を宿した目。

それだけで、ただの世間話ではないことが伝わってくる。


「ルイナ、ちょっといいか」


「何」


ルイナは水を配る指示を出しながら、視線だけをノアへ向ける。


「火の回り方がおかしい。ふつうの失火なら、一箇所から燃え広がるはずだ。だが今回は村の入口、倉庫、村長の家の周り……離れた場所が最初からバラバラに燃えてる」


淡々と、けれど確信を持った口調でノアは続ける。


「それに村の外れに、大量の馬蹄の跡があった。村人のもんじゃねぇ形だ」


ルイナの手が、ふと止まった。


指示を出す声が一瞬途切れ、燃え残った建物の骨組みへと視線が移る。


夕闇に紅く照らされたその輪郭を見つめながら、彼女の中で幾つかの断片が静かに繋がっていくのが分かった。


「……事故じゃなく、放火ってこと」


「その可能性が高い」


短く、けれど揺るぎない断言だった。ノアが普段見せない鋭さでそう言い切るとき、それはほとんどの場合正しい。ルイナはこれまでの付き合いで、それをよく理解していた。


だとすれば、目的は何か。誰が、何のためにこれほど手間をかけて村を燃やしたのか。思考を巡らせようとした、その矢先だった。


「た、助けてください……ッ!」


悲鳴じみた声が、村の入口方向から響いてくる。振り返ると、ベルカ村の方角から必死の形相で走ってくる男の姿があった。

息が上がり、足元がもつれながらも、男は倒れ込むようにルイナたちの前まで辿り着く。


「野盗が……野盗がベルカ村を襲っています! お願いです、助けてください……!」


その言葉に、ノアの顔から一瞬にして表情が抜け落ちた。


「……やられた」


低く、吐き捨てるような声だった。


「ラト村は囮だったみたいだぜ」


炎に照らされたその横顔には、悔しさと苛立ちが滲んでいる。


目の前の火事に気を取られている間に、本当の狙いは別にあった。


統率された放火。


同時多発する火元。


村の外に残された馬蹄の跡。


全ての断片が、一つの結論へと収束していく。


ルイナは奥歯を噛みしめる。ラト村の惨状を見捨てるわけにはいかない。


しかし、ベルカ村で今この瞬間にも人が傷つけられているとしたら、一刻の猶予もない。二つの選択肢が天秤のように揺れ、けれどその答えを出すのに、彼女は一秒とかけなかった。


「そのようね」


短く答えると同時に、ルイナは既にエルシオンの元へと駆け出していた。


炎の熱気を背に受けながら、鐙に足をかけ、鞍上へと身を躍らせる。手綱を握る手に力が籠り、エルシオンもまた主人の意志を汲み取ったように前脚で地面を掻いた。


夕闇の向こうから響く新たな悲鳴に、ルイナの瞳が静かに、確かな怒りを宿して細められる。


「ノア、後は任せた。ここの消火と村人の保護を頼む」


「おう、そっちは俺に任せろ。気をつけろよ、ルイナ」


言葉を交わす間も惜しむように、ルイナはエルシオンの腹を蹴った。

黒鹿毛の巨躯が力強く地を蹴り、夕闇に染まる街道を一直線に駆け抜けていく。

蹄の音が遠ざかるにつれ、その背中はやがて、赤く燃える地平線の中へと吸い込まれていった。


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