相棒
ルイナたちがラト村の対応に追われていた頃。
ホン家の道場には、乾いた気合の声と、木刀が空を切る音が絶え間なく響いていた。
昼下がりの陽射しが板張りの床に格子状の影を落とす中、ハオランは門下生たちの型を一人ずつ丁寧に見て回っていた。
腰の据わりが甘い者には手を添えて姿勢を正し、力みすぎている者には呼吸を合わせるよう声をかける。
朝の騎士団での訓練とはまた違う、静かな集中がこの場には満ちていた。
「腰が浮いてるぞ。もっと重心を落とせ」
そう指導していた矢先、道場の外から慌ただしい足音が響いてきた。
板戸を勢いよく開け放ち、若い門下生の一人が転がり込むようにして駆け込んでくる。
顔は真っ青で、息が上がっていた。
「師範、大変です……ッ! 村の方から煙が……!」
その声に、道場の空気が一瞬にして張り詰める。ハオランは木刀を握る手を止め、視線を鋭くした。
傍らで胡座をかいて茶を啜っていたジンロンも、湯呑みを静かに置く。長年の武人としての勘が、ただならぬ事態を察知していた。
二人はほぼ同時に立ち上がり、道場を飛び出す。
外に出た瞬間、遠く村の方角に立ち昇る黒い煙が視界に飛び込んできた。
それは一筋ではなく、幾筋にも分かれて夕方前の空を汚している。
「……ベルカ村か」
ジンロンの声が低く沈んだ。ハオランは既に地面を蹴っていた。
「行くぜ、親父!」
「待たんか、ハオラン!」
叫びながらも、ジンロンは背後の門下生たちへ向き直り、腹の底から響く声で命じる。
「お前たちは道場で待機じゃ! リンナは絶対について来るでないぞ、危ない目に遭わせるわけにはいかん!」
門下生たちが息を呑んで頷くのを確認する間もなく、ジンロンは既に駆け出したハオランの背を追いかけていた。
年齢を感じさせない俊敏さで地を蹴る足取りには、若い頃の武人としての鋭さが今なお色濃く残っている。
村へ続く道を急ぐ最中、道端の茂みの陰に、一人の村人がうずくまっているのが目に入った。
腕から血を流し、苦しげに呻いている。ハオランは即座に足を止め、駆け寄って肩を支え起こした。
「大丈夫か、しっかりしろ」
「た、助けて……野盗が……ベルカ村が、野盗に襲われて……」
途切れ途切れの言葉に、ハオランの表情が険しくなる。追いついたジンロンが村人の傷を素早く確認しながら、眉をひそめた。
「騎士団はどうしたんじゃ。ルイナ殿はおらんのか」
その問いに、村人は力なく首を振るばかりだった。詳しい状況を知る余裕など、この村人にはないのだろう。
ハオランは村人の背をそっと地面に横たえると、拳を強く握りしめる。
腹の奥から突き上げてくる焦燥と怒りが、抑えきれないほど膨れ上がっていた。
「人任せになんかできっかよ……ッ!」
叫ぶように言い放つと、ハオランは村人に「すぐ人をよこす」とだけ言い残し、再び駆け出していた。
「俺がみんなを守ってやるんだ!!」
その背中は迷いなく、ベルカ村の方角へと真っ直ぐに突き進んでいく。ジンロンは呆れたように息を吐きながらも、口元にはどこか誇らしげな笑みを浮かべていた。
「まったく、すぐ頭に血が上るのは……ワシに似たのかのぅ」
呟きながら、ジンロンもまた地を蹴る。
ベルカ村に辿り着いた時、そこは既に地獄絵図と化していた。
荒々しい怒号と悲鳴が入り混じり、家々の戸が蹴破られ、家財が路上に投げ出されている。
土埃と怒声の中を、剣を手にした野盗たちが我が物顔で駆け回っていた。
「ぶっ潰してやらあ!!」
雄叫びとともに、ハオランは腰の鎖を解き放つ。振り抜かれた流星錘が唸りを上げて宙を薙ぎ、突進してきた野盗の一人を弾き飛ばした。
鈍い衝撃音とともに、男の体が地面に叩きつけられる。
息をつく間もなく次の敵が斬りかかってくるが、ハオランは低く沈み込むようにして間合いを潰し、拳を叩き込んだ。
その隣で、ジンロンの動きはまるで舞のようだった。振り下ろされる剣の軌道を紙一重で見切り、体を捻るだけで刃をかわす。
踏み込みざまに放たれる蹴りは、鎧の上からでも骨を軋ませるほどの威力を持っていた。
それでいて息一つ乱れていない。
長年鍛え上げられた武の極致が、老いてなお衰えることなくそこにあった。
とはいえ、敵の数は尋常ではなかった。
一人倒せばまた一人、路地の陰からわらわらと湧いて出てくる。まるで底の見えない沼に足を取られているような感覚に、さすがのハオランも僅かに息を切らし始めていた。
そして、その隙を狙う者がいた。
物陰に潜んでいた野盗の一人が、剣を逆手に構え、無防備なハオランの背後へと音もなく忍び寄る。
刃が振り下ろされようとした、まさにその刹那──。
蹄の音が、地を割るように響いた。
疾風のごとく駆け込んできた黒鹿毛の馬体が、野盗の体を弾き飛ばす。
鞍上から放たれた鞭が空気を切り裂き、野盗の腕に絡みついて武器を叩き落とした。
土煙の中に降り立ったのは、ルイナだった。
「あなた、どうしてここにいるの」
刃を弾き終えたばかりだというのに、その声には焦りよりも呆れの色が濃く滲んでいる。
ハオランは振り返り、額の汗を拭いながらにやりと笑った。
「ベルカ村が襲われてるって聞いて来たんだ! 力が必要だろ? 手、貸すぜ!」
言うが早いか、ハオランは再び野盗の群れへと突っ込んでいく。その背中を見送りながら、ルイナは小さく息を吐いた。
呆れと同時に、胸の奥にじんわりと広がる温かなものを、彼女自身どう扱えばよいのか分からずにいた。
「まったく、あなたという人は……目を離すと、すぐにこれなんだから」
呟く声には棘がない。むしろ、その無鉄砲さを頼もしいと思う自分がいることに、ルイナ自身うっすらと気づき始めていた。
手綱を握り直し、エルシオンの腹を軽く蹴る。
まるで主人の意志と一つになったかのように、エルシオンは低く身を沈めると同時に地を蹴り、群がる野盗の中へと躍り込んでいった。
ルイナの騎馬戦は、まさに圧巻の一言だった。
鞭が唸るたびに野盗の得物が弾け飛び、エルシオンの巧みな体捌きが敵の刃を紙一重でかわしていく。
人馬一体という言葉がそのまま形を成したかのような動きに、斬りかかろうとしていた野盗たちの何人かが、思わず動きを止めて見入ってしまうほどだった。
中には震え上がって後退る者もいたが、それすら気にする余裕がないほど、その姿は美しくもあった。
「はっはっは、これぞ人中のルイナ、馬中の黒鹿毛じゃな!」
戦いながらも豪快に笑い声を上げていたジンロンだったが、次の瞬間、その笑みがすっと消える。
背後から斬りかかろうとした野盗の顔面を、片手で無造作に鷲掴みにしていた。
男の足が地面から浮き、じたばたと空を掻く。
「貴様らのような輩は……どれだけ殺しても、はらわたが煮えくり返るわ」
低く、地の底から響くような声だった。
視線だけで人を殺せそうなほどの殺気を纏いながら、ジンロンは掴んだ手にゆっくりと力を込めていく。
野盗の顔が、指の隙間でぐしゃりと歪んだ。
骨の軋む鈍い音が響き、悲鳴は長くは続かなかった。声にならない呻きが一度、二度と漏れたのを最後に、男の体からふっと力が抜ける。
ジンロンはそのまま手を開き、もはや動かなくなった体を、汚物でも捨てるかのように地面へ放り投げた。
「……親父」
ハオランが小さく呟いた。その声には恐れではなく、ただ静かな畏敬の念だけが滲んでいた。
父の内に眠る、普段は決して表に出さない苛烈さを、改めて思い知らされたような心地だった。
首魁と思しき男を含め、数を大きく減らした野盗たちは、統率を失ったようにばらばらと逃げ出していく。
ハオランたちはその背中を追わなかった。負傷した村人の手当てと村の被害確認を優先すべき状況だったし、何より、あれほどの気迫を目の当たりにして戦意を失った者たちを、わざわざ深追いする必要もない。
逃げていく野盗たちの足取りには、二度とこの村へ戻ってくるだけの余力は残されていないように見えた。
戦いが終わった村には、静けさが戻ってきていた。
村人たちの中には怪我を負った者こそいたものの、命を落とした者は一人もいない。
それは紛れもなく、ハオランとジンロンが間に合ったからこそ守られた結果だった。
「ありがとう」
ルイナがエルシオンから降り、短く礼を告げる。
ハオランは流星錘の鎖を巻き取りながら、大きく息を吐き出した。
まだ体の芯に興奮が燻っているのか、握りしめた拳がわずかに震えている。
それでも村人たちの無事な顔を一つ一つ確かめるように見渡すと、強張っていた表情が少しずつ緩んでいった。
「……助かったぜ」
ぽつりと零れた声は、先ほどまでの荒々しさが嘘のように静かだった。
「お前が来てくれて」
短い言葉の中に、安堵と、それ以上の何かが滲んでいる。
ルイナは何も言わず、ただその横顔を見つめていた。
張り詰めていた気配が緩んでいくのを見届けてから、ハオランはようやくいつもの調子を取り戻したように、白い歯を見せて笑う。
「俺の嫁さんはやっぱり強いな!」
屈託のない笑顔だった。荒かった息もすっかり整い、彼はまっすぐにルイナを見つめる。
「俺……人を頼るの苦手なんだけどさ。でもお前になら、背中を預けられる。そう思えたの、お前が初めてだ。これからも頼りにしてるぜ、相棒」
そう言って、掌を高く掲げてみせる。その仕草には、照れ隠しとも本心とも取れる不器用な誠実さが滲んでいた。
ルイナは一瞬その手を見つめたまま動きを止めるが、すぐに口元がふっと緩んだ。
滅多に見せることのない、柔らかな微笑みだった。
「あなたは誰よりも勇猛果敢な人。私も……あなたを頼りにしてる」
差し出された掌に、ルイナは自らの手を打ち合わせる。乾いた音が、静まり返った村の中に小さく響いた。
その光景を少し離れた場所から眺めていたジンロンは、口元に手を当てたまま、どこか遠い目をしていた。
(夫婦というより……これでは戦友じゃな)
胸中でそう呟きながらも、その表情には隠しきれない満足げな色が浮かんでいた。
息子が誰かにこれほどまで心を開く姿を見るのは、初めてのことだったのかもしれない。
夕焼けに染まり始めた空の下、二人の背を見つめるジンロンの瞳には、微かな温かさが灯っていた。




