茶の間の忠告
ベルカ村での騒動があったその日の夜、ルイナはジンロンの自室へと通されていた。
行灯の淡い光が畳の目を照らし、部屋の隅に置かれた火鉢からは、炭の爆ぜる小さな音が時折聞こえてくる。
障子の向こうから涼やかな夜風が忍び込み、ほのかに焚かれた香の匂いと混じり合っていた。
ジンロンは慣れた手つきで急須を傾け、湯呑みへと茶を注いでいく。立ち上る湯気が、行灯の光を受けて淡く揺らめいた。
「今日は疲れたじゃろう」
湯呑みを差し出しながら、ジンロンが穏やかな声をかける。ルイナはそれを両手で受け取り、軽く頭を下げた。
「お気遣いありがとうございます。私は平気です」
一口啜ると、香ばしい茶の風味が疲れた体にじんわりと染み渡っていく。
昼間の熱気と喧騒が嘘のように、ここには静かな時間が流れていた。ルイナは湯呑みを膝の上に置き、姿勢を正す。
「村に死者が出なかったのは、ハオランと義父上のおかげです。ご協力ありがとうございました」
丁寧に紡がれた礼の言葉に、ジンロンは目を細めて笑った。皺の刻まれた口元が、どこか懐かしむような弧を描く。
「相変わらず堅いのぅ。グレゴールそっくりじゃ」
からかうような口調だったが、そこに嫌味はない。
ルイナは僅かに眉を寄せたものの、否定する言葉は出てこなかった。父の血を引いていることは、自分自身が一番よく分かっている。
しばしの沈黙が落ちる。茶を一口含んだジンロンが、ふと思い出したように口を開いた。
「グレゴールから、娘はちゃんとやっているかという手紙が届いておってな」
その言葉に、ルイナの肩がわずかに強張った。湯呑みを持つ指先に、力が籠る。
「……父上ったら。私に直接手紙をよこせばいいのに」
困ったように零した声には、呆れと、その奥に隠しきれない気恥ずかしさが滲んでいた。
ジンロンはそれを見て、愉快そうに肩を揺らす。
「ルイナ殿は、何かあっても大丈夫としか言わんじゃろ」
図星だった。ルイナは言葉を返せず、湯呑みの中の茶葉を見つめるようにして視線を落とす。
かつて父に宛てた手紙には、いつも簡潔な近況報告しか綴らなかった。弱音や不安を書き記す習慣が、そもそも自分にはない。
それを見透かされていることに、居心地の悪さを覚えた。
「ハオランとのわだかまりも、解消されたようじゃな。良い傾向じゃ」
穏やかな声で告げられた言葉に、ルイナは驚いて顔を上げる。
「……気づいていたのですか」
「あのバカ息子は、昔からわかりやすいからの」
苦笑混じりに言うと、ジンロンは湯呑みを卓に置き、少し肩を落とした。
「子供みたいに拗ねおって。申し訳ない」
「いいえ」
ルイナは静かに首を振る。
「私の言葉が足りなかったのが、そもそもの原因です。ちゃんと伝えるべきでした」
自分の胸の内に、あの日感じた小さな棘のような後悔が蘇る。言葉を惜しんだつもりはなかったが、言葉を尽くしたつもりもなかった。
すれ違いの種は、いつも自分の側にもあったのだと、今なら分かる。
ジンロンは首を横に振った。
「ハオランも、勝手に自己完結して何も言わんかったんじゃ。おあいこじゃよ」
そう言ってから、ふと表情を曇らせる。行灯の光が揺れ、深く刻まれた皺に陰影を落とした。
「夫婦の問題に、ワシがどこまで首を突っ込んだらいいのか分からんかった。ハオランを怒鳴りつけるのは簡単じゃが、それでは何も解決せん。それはおそらく、グレゴールもそうだったんじゃろう。だからワシも奴に倣って、静観することにしたんじゃよ」
その言葉に、ルイナは小さく息を吐いた。
「……そうですか」
短い相槌の裏に、複雑な想いが渦巻いている。
父だけでなく、この地に来てまだ日の浅いジンロンにまで心配をかけていたのだと思うと、申し訳なさと、同時にどこか温かなものが胸に広がった。
ジンロンはその表情の揺らぎを見て取ったのか、柔らかく笑う。
「ワシは、ルイナ殿が息子の嫁でよかったと思っておるんじゃよ」
穏やかな声だった。窓の外で虫の音が微かに響き、部屋の中の静寂を一層深めている。
「ハオランは、自分がしっかりせねばという思いが強くてな。人を頼ることは滅多にせん。そんな奴が、背中を預けられるなんて言うとはな。人生、何があるか分からんの」
その言葉を聞きながら、ルイナはこの家族が抱える静かな影のことを思い出していた。
母を野盗に奪われ、母のぬくもりを知らぬまま育ったリンナ。
妹の寂しげな横顔を見るたびに、自分がしっかりせねばと自らを奮い立たせてきたハオラン。
そしてその兄妹の姿を、誰よりも近くで見守り続けてきたジンロン。
この家は笑顔が絶えず、明るく仲睦まじい。
それは決して偽りではないけども、その笑顔の下には、まだ癒えきらない痛みが確かに息づいていた。
少しの間を置いてから、ルイナは静かに言葉を継いだ。
「私も、ハオランと結婚してよかったと思っています。父が結んでくれた縁を、大切にしたいです」
飾らない、確かな響きを持つ言葉だった。ジンロンは満足そうに頷き──その直後、ふっと眉間に皺を寄せた。
「……少々、困ったことがあってのぅ」
急に翳った声色に、ルイナは湯呑みを置いて姿勢を正す。
「もうすぐ、シャオ商会の娘が帰ってくる」
聞き覚えのない名だった。ルイナは小さく首を傾げる。
「シャオ商会の……」
「メイファという娘での。ハオランに、恋慕しておる」
淡々と告げられた事実に、ルイナの中で何かがすっと冷えていくのを感じた。
表情には出さぬまま、続きを促すように黙って耳を傾ける。
「ワシの妻の実家と、シャオ商会が取引をしておってな。その縁で、メイファはホン家のことを昔から知っておった。ある日、川で溺れておったメイファを、ハオランが助けたことがあってな。それがきっかけで、あの娘はハオランに惚れ込んでしもうたんじゃ」
淡々とした語り口の中にも、ジンロンの声には僅かな苦さが滲んでいる。
ルイナは湯呑みの縁を指先でなぞりながら、静かに問うた。
「そのメイファという方と、ハオランとの縁談の話は上がらなかったのですか」
「ワシとハオランで拒否した」
即座に返ってきた答えには、迷いがなかった。
「いくら良家の娘とはいえ……性格に難がありすぎる女との結婚は、考えられんかった」
その言い回しに、ルイナの脳裏には、一体どんな子なの……という思いがよぎる。あえて言葉にはせず、黙って続きを待った。
「どうして、その話を私に」
問いかけると、ジンロンは少し表情を硬くした。
「メイファが、カルディアに帰って来るからじゃ」
窓の外の虫の音が、一瞬遠くなったような気がした。
「あの娘は、ここ数年、他国にあるシャオ家の領地へ行っておってな。もう二度とカルディアには帰って来ぬものだと思っておった。しかし三日前、突然帰省すると、シャオ商会の者から聞いてな」
ルイナは僅かに眉を寄せる。
「ハオランと結婚しているのは私です。さすがに、諦めるのでは」
冷静な言葉だが、ジンロンは苦々しく首を振る。
「そういう考え方のできる娘なら、ワシもここまで気にしておらん」
深いため息が畳の上へ落ちる。
「昔から思い込みが強くての。一度こうと決めたら、人の話を聞かん。ハオランが何度断っても、まるで聞いとらんかった」
行灯の火が揺れ、部屋に落ちる影がわずかに伸びる。
「何事もなければ良いが。念のため、用心なされよ」
静かな忠告だった。
ルイナは少しだけ目を伏せる。
知らない相手だ。顔も性格も分からない。
それでも、ジンロンほどの人物がわざわざ自分を呼び出して話す以上、ただ事ではないのだろう。
だが、不思議と不安ばかりではなかった。
昼間のベルカ村での出来事が脳裏をよぎる。
傷ついた村人を守ろうとした背中。
無茶だと分かっていても飛び出していく姿。
そして、自分に向かって差し出された掌。
背中を預けられる相手だと、真っ直ぐに言ってくれた男の顔を思い出す。
ルイナはゆっくりと顔を上げた。
「ご忠告、感謝します」
静かな声だった。
「ですが、心配はいりません」
その瞳には、揺らぎのない光が宿っている。
「ハオランは私の夫です」
はっきりと言い切る。
「簡単に誰かへ渡すつもりはありません」
それは恋敵への宣戦布告でも、独占欲の吐露でもなかった。
夫婦として結ばれた以上、その関係を守るのは当然のことだという、彼女なりの責任感だった。
ジンロンは一瞬目を丸くしたが、やがて堪えきれなくなったように笑い出した。
「うむ。そう言ってもらえると安心じゃ」
皺だらけの顔に、心底ほっとしたような笑みが広がる。
ルイナもまた、わずかに口元を緩めた。
行灯の炎が静かに揺れる。
窓の外では虫たちが変わらず鳴き続け、夜はゆっくりと更けていく。
しかしその穏やかな時間の裏側で、まだ姿を見せぬ一人の女が、この地へ近づいていた。
ルイナは湯呑みに残った茶を飲み干しながら、胸の奥に芽生えた小さな警戒心を静かに抱き締める。
それが、これから始まる騒動の前触れであることを、まだ誰も知らなかった。




