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帰郷の娘

辺境へと続く街道を、一台の馬車が軽やかな音を立てて進んでいく。


窓の外を流れていく景色を眺めながら、メイファ・シャオは膝の上で指を組み直した。


数年ぶりに目にする故郷の風景は、記憶にあるよりも幾分か色褪せて見える。それでも、遠くに霞む山並みの稜線には見覚えがあり、胸の奥にじんわりと懐かしさが込み上げてきた。


他国のシャオ家領地で過ごした歳月は、決して短くはなかった。


商いの基礎から交渉術、帳簿の付け方から人心の掌握まで、あらゆることを叩き込まれる日々。

厳しい環境の中で、幼さの残っていた自分は、いつしか一人前の商人として振る舞えるようになっていた。


窓ガラスに映る自分の横顔を、メイファはそっと確かめる。頬の丸みは削げ、代わりに落ち着いた品のある輪郭が浮かび上がっていた。


(ハオラン、驚くかしら)


胸の内で呟く声には、抑えきれない高揚が滲んでいる。


(少しは、綺麗になったと思うのだけれど)


指先で髪の毛先をそっと撫でつけながら、口元に自然と笑みが浮かんだ。


あの頃はまだ子供だった。がむしゃらにハオランの後を追いかけ回し、彼を困らせてばかりだった自分を思い出すと、少し気恥ずかしくもある。


──今は違う。商人として磨かれた自分なら、きっと胸を張って隣に立てるはずだ。


そんな根拠のない自信が、旅の疲れを忘れさせてくれていた。


馬車が停まると、メイファは真っ先にホン家の門を潜った。


見慣れた木造の屋敷、庭先に植えられた木蓮の木。何一つ変わっていないその佇まいに、懐かしさがこみ上げてくる。


逸る気持ちを抑えきれず、案内も待たずに玄関先へと足を進めた。


「あれ? メイファちゃん?」


弾んだ声とともに現れたのは、リンナだった。


以前よりもずいぶんと背が伸び、あどけなさの残る顔立ちの中にも、少女らしい輪郭が刻まれ始めている。


「久しぶりね、リンナちゃん」


メイファは口元を綻ばせ、久方ぶりの再会を喜んだ。


「お兄ちゃんに会いに来たの?」


無邪気な問いかけに、メイファは頬を僅かに染めながら頷く。


「ええ」


「お兄ちゃん、今は騎士団の砦にいるよ」


「砦?」


思わず聞き返す。ハオランが騎士団と関わりを持つ姿など、メイファの記憶にはなかった。


「うん。お義姉ちゃんのところ」


その一言に、メイファの動きがぴたりと止まった。


「……お義姉ちゃん?」


問い返す声が、僅かに掠れていた。だがリンナは何の屈託もなく、むしろ嬉しそうに言葉を続ける。


「お兄ちゃん結婚したんだよ!」


無邪気な報告だった。屋敷の庭先に吹く風が、木蓮の枝葉をさらさらと揺らす音だけが、しばしメイファの耳に届いていた。


絶句、というのが正しかった。頭の中で幾つかの単語が渦を巻いては消え、意味を結ぶことができない。

血の気が引いていく感覚を必死に押し留めながら、メイファは口角を無理やり持ち上げた。


「そう……なの」


崩さぬよう努めた笑みは、けれど頬の筋肉がどこかぎこちなく強張っている。


(結婚? 誰と?)


胸の奥で反響するその問いに答えを見つける前に、体は既に動き出していた。


リンナに軽く別れを告げると、メイファは踵を返し、砦の方角へと足早に歩き出す。


逸る鼓動が、悪い予感を掻き立てるように胸を打ち鳴らしていた。




砦に着く頃には、日は既に高く昇っている。

水汲み場の傍らで、桶を手にした人影を見つけた瞬間、メイファの表情が一気に華やいだ。


「ハオラン!」


弾んだ声で呼びかけると、水を汲んでいた男が振り返る。


「ん? ──げっ」


ハオランの顔が、あからさまに歪んだ。それに気づく余裕など、今のメイファにはない。

数年ぶりに見るその姿に、記憶の中の彼よりもずっと逞しくなった肩や、日に焼けた精悍な横顔に見惚れながら、迷わず抱きついていた。


「久しぶりね、ハオラン!」


「ちょ……なんでお前がここに!?」


腕の中で慌てふためくハオランの声など、メイファの耳には半分も届いていなかった。


懐かしい体温と、記憶の中にあった匂いが、数年分の時間を一気に埋めていくような感覚に、思わず腕に力を込めてしまう。


「久々に帰って来たのに、ご挨拶ね」


拗ねたように唇を尖らせながらも、その目はどこか嬉しそうに細められていた。


「いいから離れろって!」


慌てて距離を取ろうとするハオランの声が響いた、その時だった。


「……ハオラン?」


静かな声が、二人の間に割り込む。振り返ったハオランの顔から、瞬時に血の気が引いていった。


「ル、ルイナ! 違うんだ、これは……!」


弁明の言葉を紡ぎながらも、ハオランの視線は落ち着かなく泳いでいる。


ルイナは何も言わず、ただゆっくりとこちらへ近づいてくる。


腰に差された鞭に指先が触れる仕草を見た瞬間、ハオランの顔からはさらに色が失せた。


「……ル、ルイナさん」


上擦った声で名を呼びながら、ハオランは慌ててメイファの腕を体からそっと引き剥がす。

その一連の動きの意味を測りかねたのか、メイファは怪訝そうに眉をひそめた。


「……この方は?」


メイファが静かに問う。


「俺の嫁さんだよ」


短く告げられたその一言が、鋭い刃のようにメイファの胸を貫いていく。


「……貴女が」


呟く声には、驚きと、何かを堪えるような硬さが滲んでいた。


リンナから聞かされていた言葉が、ようやく現実として重みを持って迫ってくる。


目の前に立つこの女性が、ハオランの隣にいる人だという事実が。


ルイナはメイファの正面に立つと、真っ直ぐに視線を合わせた。


「はじめまして。ルイナ・ランカスターよ」


淡々とした挨拶だった。表情には特に変化がない。


しかしその静けさの奥に、何か底の見えない強さのようなものを感じ取り、メイファは僅かに息を呑んだ。


「……メイファ・シャオよ」


咄嗟に、商人として培ってきた笑みを顔に貼りつける。感情を面に出さぬことは、これまでの修行で最も磨き上げてきた技術の一つだった。動揺を悟られるわけにはいかない。


「シャオ商会の娘さんよね。義父上から聞いているわ」


ルイナの声には、探るような響きがあった。


「一つ、お願いがあるの」


「……何かしら」


「鎧、矢、消化用の道具、馬具、剣は売ってる?」


予想外の問いに、メイファは一瞬瞬きをする。てっきり何か含みのある牽制でもされるかと身構えていたが、返ってきたのはあくまで実務的な用件だった。


「取り揃えているわよ。そのくらい」


「よかった。騎士団の装備が痛んでいて、使い物にならないの。頼めるかしら」


その言葉に、メイファの中で幾分か張り詰めていたものが緩んでいく。


商談となれば、話は別だ。培ってきた自信が、すっと胸の内で背筋を伸ばさせた。


「了解致しましたわ。お客様のご注文、承ります」


にっこりと笑い、すっかり商人の顔になったメイファが問う。


「納品時期は、いつになるかしら」


「一週間です」


流れるように言葉を紡ぐ。


「シャオ商会は海運業も手掛けておりまして、王都と辺境を結ぶ航路を持っておりますの。素晴らしい品を、お届けさせますわ」


「頼もしいわね。ありがとう」


「辺境の平和は、騎士団あってこそですもの。最高品質の物を、持って来させますわ」


滑らかに応対を終えたメイファは、そこでふとハオランの方へと視線を戻す。先ほどまでの張り詰めた空気とは裏腹に、その表情には未練を押し隠すような柔らかさが浮かんでいた。


「色々話したいことはあるけれど、仕事の時間だわ」


微笑みながらも、瞳の奥にはまだ整理しきれない感情が揺れている。


「またね、ハオラン。また今度、ゆっくり話しましょう」


「お、おう」


気圧されたように頷くハオランを残し、メイファは踵を返して足早に去っていく。その背中が門の向こうへ消えるまで、ハオランはぽかんとした表情を崩さなかった。


やがて我に返ったように、大きく息を吐き出す。


「……驚いたな」


「何が」


ルイナが静かに問い返す。


「前のメイファなら、俺に近づく女はみんな追っ払ってたのに。領地に行ってる間に、大人になったんだな」


呟く声には、どこか安堵にも似た響きが混じっていた。ルイナはそれを黙って聞きながら、胸の内で小さな納得を得ていた。


これまでハオランが女性に対してどこか距離を置くような素振りを見せていたのは、単なる不器用さだけが理由ではなかったのかもしれない。


かつてこうして纏わりつかれた経験が、知らぬ間に苦手意識として根を張っていたのだろう。


「それはそうと──」


思考を切り替えるように、ルイナは静かに口を開く。


「随分と、懐かれているのね」


「いや、昔からああなんだ」


「そう」


短い相槌の後、ルイナはハオランの顔をじっと見つめた。表情はいつも通り、凪いだ水面のように動かない。


「……怒ってるか?」


恐る恐る尋ねるハオランに、ルイナは僅かに首を傾げる。


「いえ、別に」


その返答だけでは、真意など到底読み取れない。相変わらず表情の読めないルイナに、ハオランは内心で冷や汗を掻いていた。


「抱きつかれた時、嬉しかった?」


「えっ」


不意打ちの問いに、ハオランの喉から間の抜けた声が漏れる。


「参考までに、聞いているだけ」


平坦な声色でそう続けるルイナの目には、ほんの微かに、探るような光が宿っていた。


ハオランは額に滲む冷や汗を拭う余裕もなく、ただ言葉に詰まって立ち尽くすことしかできなかった。


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