相棒の理由
厩舎に差し込む午後の陽射しが、藁の匂いと混じり合いながら、のんびりとした空気を作り出していた。
ルイナは腕まくりをして、丁寧な手つきでエルシオンの黒鹿毛を梳いていく。ブラシが被毛を撫でるたびに、埃と艶やかな光が微かに舞い上がった。
エルシオンは気持ちよさそうに目を細め、時折首を傾けては、ルイナの肩口へ鼻先をすりすりと擦り寄せる。
その仕草は、およそ軍馬とは思えないほど甘えたもので、まるで大きな猫がじゃれついているかのようだった。
「すっげー懐いてるなぁ」
すぐ傍らで見物していたハオランが、感心したように呟く。その気の緩みが仇となったのか、彼は何気なく手を伸ばし、エルシオンの首筋に触れようとした。
瞬間、黒い蹄が唸りを上げて宙を切る。
「うおっ!」
間一髪、ハオランは飛び退いて後方へ転がるようにして避ける。すんでのところで頬を掠めた蹄の風圧に、背筋が冷える思いだった。
「エルシオン、駄目」
ルイナが低く窘めるが、エルシオンはまるで聞く耳を持たず、ハオランを睨みつけたまま前脚で地面をとんとんと踏み鳴らす。
明確な威嚇だった。
落ち着かない鼻息が、苛立ちを隠そうともせずに漏れている。
「ごめんなさいね、いつもこうなの」
代わりに謝るルイナの声には、僅かな苦笑が滲んでいた。
ハオランは尻についた藁を払いながら、けろりとした顔で笑う。
「別に気にしてねぇよ。慣れてきたし」
そう言いながらも、油断なくエルシオンとの間合いを保つあたり、多少は学習しているらしい。
ルイナはその様子を横目に見ながら、再びブラシを動かし始めた。
「装蹄師を呼んだ方がいいわね」
視線の先には、少し伸び始めたエルシオンの蹄がある。手入れの時期が近づいているのは明らかだった。
「……いや、無理だろ」
ハオランが即座に首を振る。
「絶対、装蹄師を蹴っちまう」
想像に難くない光景だった。ルイナは小さく息を吐き、ブラシを持つ手を止める。
「もう少し、大人しくしてくれればいいんだけど……」
呆れの滲む声だった。エルシオンはそんな主人の心配などどこ吹く風で、再び機嫌よくルイナの腕に鼻先を擦りつけている。
その落差に、思わず苦笑が漏れた。
「こいつ、なんでルイナ以外はダメなんだろうな」
疑問を口にするハオランに、ルイナはブラシを動かしながら、ふと視線を宙に漂わせた。
「私も、最初から平気だった訳じゃないわ。何度か蹴られかけたもの」
「えっ、マジで!?」
ハオランが驚いたように目を丸くする。
「エルシオンがお前に歯向かってるところなんて、想像できねぇ……」
その反応に、ルイナは僅かに口元を緩める。当然の反応だろう。今のこの馬とルイナの間にある信頼を見れば、そんな過去があったとは誰も思わない。
ブラシを動かす手を止め、ルイナは黒鹿毛の被毛に指を沈めながら、静かに語り始めた。
「私がまだ見習い騎士だった時、騎士団の巡回中に、厩舎に狼の群れが侵入したの」
声の調子は淡々としていたが、その奥に、あの日の記憶を辿るような硬さが微かに滲んでいる。
「厩舎にいたのは、誰も乗せたがらないエルシオンだけだった」
「……襲われたのか」
ハオランの声から、先ほどまでの軽さが消えていた。ルイナは小さく頷く。
「ええ。巡回が終わって厩舎へ行ったら、狼に襲われているエルシオンがいたわ。騎士団のみんなで追っ払ったけど、エルシオンは重傷だった」
ブラシを再び動かしながら、彼女は続けた。その手つきは、まるで当時の傷を確かめるように、いつもより丁寧だった。
「馬が死んだら、新しいのを買えばいい。そう言って、みんなエルシオンを助けようとしなかった」
淡々と紡がれるその言葉には、当時の憤りが薄く残響していた。
「……今までのエルシオンの態度を見ていれば、そう言いたくなるのもわからなくはないけど」
自嘲めいた響きを混ぜながら、ルイナは目を伏せる。
エルシオンはその手のひらの動きに合わせるように、静かに首を垂れていた。
「でも、見捨てなかったんだろ」
ハオランの声は、確信に満ちていた。ルイナは僅かに目を見開き、それから小さく頷く。
「狼が侵入したのは、対策を怠った騎士団のせい。エルシオンは、何も悪くないわ」
きっぱりとした口調だった。
「獣医師を呼んで治療してもらおうとしたけど、やっぱり暴れて……私が宥めながら、なんとか治療してもらったの」
「……暴れるほどの元気はあったんだな」
ハオランが呟くと、ルイナはふっと表情を緩めた。
「暴れて傷が開くといけないから、その日は厩舎に泊まったの。それ以降ね、この子が私に心を開いてくれたのは」
そう語りながら、ルイナはエルシオンの鼻筋をそっと撫でる。
エルシオンは目を細め、心地よさそうに喉を鳴らした。夜通し傍にいてくれた主人の温もりを、今もどこかで覚えているのかもしれない。
「ルイナが優しい人だってわかったんだ。賢いな──おっと!」
感心した様子で手を伸ばそうとしたハオランに、再びエルシオンの足が飛んでくる。
「あはは! 本当元気な奴だなー!」
危うく蹴られかけたというのに、ハオランはむしろ楽しげに笑い声を上げていた。その豪胆さに、ルイナは呆れ半分感心半分といった面持ちになる。
「エルシオン……危ないから、やめて」
窘める声にも、エルシオンはどこ吹く風でハオランへ鼻息荒く威嚇を続けている。
その様子を眺めるハオランの目には、苛立ちも恐れもなく、ただ純粋な親しみだけが浮かんでいた。
「こいつとはずっと一緒だったんだろ? いい相棒を持ったな」
ぽつりと零された言葉に、ルイナの手が一瞬止まる。
「ええ」
短く答えた声には、静かな重みがあった。
「辛いこともあったけど……エルシオンがいてくれたから、耐えてこられたわ」
これまで誰にも語ったことのない胸の内が、するりと口から零れ出ていた。それに気づき、ルイナは僅かに驚いたように瞬きをする。
でも隣に立つこの男の前でなら、そんな言葉を紡いでも構わないと、どこかで思っていたのかもしれない。
「もう、エルシオンだけじゃないぜ」
穏やかな声だった。
「え?」
「何かあったら、俺も頼ってくれよ。力になるからさ」
真っ直ぐな眼差しに、ルイナは一瞬言葉を失う。夕暮れ前の柔らかな光が厩舎の中に差し込み、藁の匂いと共に、どこか温かな沈黙が二人の間に広がった。
「……そうね」
小さく頷いてから、ルイナはふと思い出したように口を開く。
「ちょうど今、悩んでることがあるの」
「お、なんだ?」
ハオランが身を乗り出す。
「おしおきしてほしいって、お願いされるの」
真剣な声色だった。
「おしおきはおしおきであって、ご褒美じゃないのに……勘違いする人が増えて、困ってるの」
「…………ん?」
ハオランの表情が、一瞬にして固まった。
「この前も、踏んづけて下さいって土下座してくる人もいたわ。一体何を考えているのかしら」
眉を寄せ、心底不可解そうに呟くルイナの様子には、一片の悪気もない──その言葉を聞いたハオランの脳裏には、みるみる不穏な想像が広がっていく。
「ん〜〜〜〜〜????」
言葉にならない唸り声を上げながら、ハオランは額に手を当てた。
もしかしたら自分は今、聞いてはいけないものを聞いてしまったのかもしれない。
兵士たちの間に、何か新たな性癖の扉が開け放たれつつあるのではないか──そんな不穏な予感が、拭いきれないまま胸の奥に居座っていた。
エルシオンだけが、そんな二人の空気などお構いなしに、満足げにルイナの肩へと鼻先を擦り寄せ続けていた。




