返事
書斎での話し合いを終えたのか、廊下の向こうから男たちの話し声が聞こえてきた。
低く落ち着いた声。
一つは父グレゴール。
もう一つはジンロンだろう。
客間を出たルイナは、その声に耳を傾けながら静かに廊下を歩いていた。
隣にはハオランがいる。
先ほどまで二人きりで話していた時よりも、その横顔は幾分落ち着いて見えた。
とはいえ完全ではない。
耳の先はまだ少し赤い。
本人は隠しているつもりなのだろうが、ルイナには分かっていた。
可愛らしい人。
先ほど抱いた感想は今も変わらない。
真面目で、不器用で、感情が顔に出やすい。
騎士団にいた頃なら、部下として扱いやすそうだと思っただろう。
もっとも、今は少し事情が違うのだが。
居間の襖が開く。
部屋の中央では、ジンロンとグレゴールが卓を挟んで向かい合っていた。
茶器からは湯気が立ち上っている。
どうやら二人とも、かなり話し込んでいたらしい。
先にこちらへ気付いたのはグレゴールだった。
灰色の瞳が娘へ向けられる。
その視線は厳しいが、ルイナには分かる。
心配しているのだ。
父は昔からそうだった。
表には出さない。
言葉にもあまりしない。
それでも、いつも見ていてくれた。
「どうだ」
短い問いだった。
しかし意味は明白だ。
グレゴールはハオランを顎で示した。
「その男は」
ルイナは立ち止まる。
少しだけ考える。
何と言えばいいのだろう。
誠実。
真面目。
不器用。
色々あるが──最初に浮かんだ言葉は一つだった。
「可愛い人よ」
迷いなく答えた。
その瞬間、部屋の空気が止まった。
ジンロンが目を丸くする。
グレゴールが僅かに眉を上げる。
「ぶっ」
ハオランが盛大にむせた。
咳き込みながら胸を押さえる。
顔は真っ赤だった。
「おい、大丈夫か」
ジンロンが笑いを堪えながら言う。
「だ、大丈夫です……」
全然大丈夫ではなさそうだった。
ルイナは首を傾げる。
何かおかしなことを言っただろうか。
正直な感想を述べただけなのだが。
「俺のどこが可愛いんだよ……変な女……」
小さく呟く。
本人としては聞こえないつもりだったのだろう。
残念ながら、グレゴールの耳は誤魔化せなかった。
「何か言ったか」
低い声。
ハオランの背筋が伸びる。
一瞬で、まるで上官に呼ばれた兵士のようだった。
「いえ」
「そうか」
会話終了。
それだけだったが、ハオランの額には薄く汗が滲んでいる。
隣で見ていたジンロンがとうとう吹き出した。
「はっはっはっ!」
豪快な笑い声が響く。
「気に入られたようじゃな!」
「気に入られたというか……」
ハオランが複雑そうな顔をする。
するとルイナが小さく頷いた。
「ええ」
即答だった。
「気に入ったわ」
ルイナがそう言った瞬間、ハオランは完全に固まった。
顔がみるみる赤くなる。
視線の置き場を失い、思わず頭を掻いた。
そんな息子を見て、ジンロンは豪快に笑う。
「はっはっは! なら話は決まりじゃな!」
卓を叩くように立ち上がった。
「結婚ということで問題ないな!」
「問題ありません」
ルイナは迷いなく答えた。
その返事に、ハオランは慌てて声を上げる。
「いや待て!」
全員の視線が集まった。
「話が早すぎるだろ!」
「何がじゃ」
「何がじゃじゃねぇよ!」
思わず語気が強くなる。
「俺たち今日会ったばっかりなんだぞ!」
「だから何じゃ」
「だから何じゃって……!」
ジンロンは本気で理解していない顔をしていた。
その様子にハオランは頭を抱えたくなる。
「結婚だぞ!?」
「うむ」
「うむじゃねぇ!」
居間の空気が少し張り詰めるが、ジンロンは動じなかった。
むしろ呆れたように息を吐く。
「お前は何が不満なんじゃ」
「不満じゃねぇ!」
ハオランは思わず立ち上がった。
「俺はちゃんと考えたいんだよ!」
その言葉に、ジンロンの眉が僅かに動く。
「考える?」
「そうだ!」
ハオランは拳を握った。
「相手が誰だろうが関係ねぇ! 結婚なんて簡単に決めるもんじゃないだろ。責任取れない約束なんかしたくねぇんだよ」
その声には、飾り気のない本音が滲んでいた。
しばらく沈黙が落ちる。
ジンロンは黙ったまま息子を見つめていたが、
「……ふん」
やがて鼻を鳴らす。
「そこだけはワシに似んかったか」
「親父?」
「いや」
ジンロンは腕を組む。
そして今度はルイナを見る。
「嬢ちゃんはどう思う」
ルイナは少し考えた。
そして静かに答える。
「誠実な人だと思う」
ハオランが目を見開く。
ルイナは続けた。
「適当に返事をしない。相手にも、自分にも嘘をつかない。そういう人は嫌いじゃないわ」
居間が静まり返る。
ハオランは言葉を失った。
そんな風に評価されたことなど、これまで一度もなかった。
ルイナはさらに続ける。
「私は父が決めた縁談だから受けるつもり。でも……」
そこで少しだけ声が柔らかくなる。
「夫婦になるのなら、相手のことは知りたい。貴方のことも」
まっすぐ向けられる視線。
逃げ場はなかった。
そして不思議と、逃げたいとも思わなかった。
ハオランは大きく息を吐いて、父を見る。
ジンロンは何も言わない。
グレゴールを見る。
腕を組んだまま黙っている。
最後にルイナを見る。
静かに返事を待っていた。
その姿を見ているうちに、答えは自然と決まっていた。
「……あー、もう」
頭を掻く。観念したように。それでいて、どこか吹っ切れたように。
ハオランは立ち上がり、ルイナの前に歩み寄る。
「ルイナ」
名前を呼ぶと、彼女が顔を上げた。
夕陽がその横顔を照らしている。
綺麗だと思った。
素直に、心の底から。
「俺は不器用だ。お前みたいに立派でもねぇ。たぶん迷惑もかける」
少し笑う。
「親父の言う通り、馬鹿だしな」
ジンロンが満足そうに鼻を鳴らした。
「だけど」
ハオランは真っ直ぐルイナを見る。
「お前となら上手くやっていける気がする」
一拍。
そして。
「俺の嫁さんになってくれ」
居間が静まり返り、竹林を渡る風だけが聞こえた。
ルイナはしばらくその言葉を受け止めていた。
やがて、ほんの僅かに目元を和らげる。
普段の彼女を知る者なら、驚くほど柔らかな表情だった。
「ええ」
静かな声だが、確かな喜びが滲んでいる。
「喜んで」
その瞬間、ジンロンが大きく笑い、
グレゴールもまた、小さく口元を緩めた。
こうして二人の婚約は、ようやく本人たちの意思によって結ばれたのだった。




