氷結の名
王都の執務室には、書類をめくる乾いた音だけが規則正しく響いていた。
グレゴールは机に向かい、山積みの陳情書に目を通している。領主としての日々は変わらず淡々と過ぎていくはずだった。
その静けさを破るように、扉が乱暴に開け放たれる。
「旦那様……!」
駆け込んできたのは、長年仕えてきた家令だった。いつもの折り目正しい佇まいはどこにもなく、顔は蒼白で、呼吸すら乱れている。
グレゴールは眉をひそめ、羽根ペンを置いた。
「ルイナ様が、王都へ来られました」
その一言に、グレゴールの表情が険しくなる。
「なぜだ」
低く重い声だった。娘が辺境の任を放り出してまで、突然王都へ来る理由に、心当たりはひとつもない。
家令は俯きがちに、震える声で事情を語り始めた。
旦那様が重病で倒れられた──そういう知らせが辺境へ届いたのだと。
グレゴールは一瞬、言葉の意味が理解できなかった。自分自身の体は、いたって健やかなままだ。
「私は、倒れてなどおらん」
静かな、しかし底冷えするような声だった。家令の肩が、目に見えて震え出す。
問い詰めるまでもなく、家令は崩れ落ちるようにその場に膝をついた。
「申し訳、ございません……」
絞り出すような声とともに、これまで胸の内に抱え込んできた真実が、堰を切ったように溢れ出す。
「クロイツ様から、金を渡されました」
孫が長らく病に臥せっており、治療のためにはまとまった金が必要だったのだという。
困窮の中で差し出された金子に、藁にもすがる思いで手を伸ばしてしまった。
加えて、断れば孫の治療そのものを潰しにかかると、暗に脅されたのだとも打ち明けた。
グレゴールの拳が、机の上できつく握りしめられる。
怒りが体の芯から突き上げてくるのが分かった。その怒りの矛先を、目の前で震える老いた家令に向けることだけは、どうしてもできなかった。
「なぜ、私に相談しなかった」
叱責の言葉は、想像していたよりもずっと静かだった。剣を抜くでもなく、罵声を浴びせるでもない。
ただ、深い落胆と、それでもなお相手を案じるような響きだけが、そこにはあった。
「孫の病であれば、私に言えば良かったものを」
家令はただ、額を床に擦りつけるようにして詫び続けた。
グレゴールはしばらくその姿を見下ろしていたが、やがて静かに息を吐き、視線を窓の外へと移した。
今は、家令を責め立てている場合ではない。娘の行方こそが、何よりも優先すべき事柄だった。
グレゴールはすぐさま側近を呼び、港へ使者を走らせた。
戻ってきた報告によれば、ルイナは確かに数時間前、船で王都の港に到着していた。
ランカスター邸には未だ姿を見せていないという、その一言にグレゴールの背筋が冷たくなる。
到着してから、これほどの時間が経っている。
娘の性格からして、たとえ何があろうと、真っ先に自分のもとへ駆けつけるはずだった。
それがない。ただそれだけの事実が、これまでにない不穏さを孕んでいた。
さらに人を使って調べを進めさせると、港湾を管理する治安官の記録に、思いがけない一文が見つかった。
『当該港にて、保護命令を執行』
対象者の名は、紛れもなくルイナのものだった。そして、身元引受人の欄に記された名を目にした瞬間、グレゴールの顔色が完全に変わる。
──クロイツ家。
その四文字を、彼はしばらくの間、瞬きもせずに見つめ続けていた。
同じ頃、ヴァレリウス邸のとある一室では、ルイナが窓辺に佇んでいた。
使用人が音もなく運んできた夕食は、贅を尽くした品々で埋め尽くされている。
湯気を立てる肉料理、彩り豊かな野菜、芳醇な香りの漂うスープ。
どれもが最高級の品だと、見ただけで分かった。
その豪華さが、かえってルイナの心を冷たくさせていく。箸を取る気力すら湧いてこなかった。
窓の外に広がる王都の夜景を、彼女はただ静かに見つめ続ける。
(ノアなら、何か掴んでいるかもしれない)
胸の内で、そんな思いが自然と浮かんだ。
あの飄々とした男が、こういう時に限って思わぬ手がかりを引き当てることを、これまでの付き合いの中で幾度となく見てきた。
(リンナは、きっと心配しているでしょうね)
無邪気で気丈な少女の顔が、脳裏をよぎる。
兄が連行され、義姉までもが行方を絶ったとなれば、その心細さは計り知れない。
こうしている間にも、ルイナは部屋の隅々に視線を走らせ、脱出の糸口を探し続けていた。
壁の継ぎ目、床板の軋み、換気の隙間──だが、どれだけ調べ尽くしても、それらしい手がかりは何ひとつ見つからなかった。
料理を下げに来た使用人が、控えめな声でぽつりと告げる。
「旦那様は、本当に貴女様を大切に思っておられます」
その言葉に、ルイナは強い嫌悪感を覚え、思わず視線を鋭くする。
侍女という体で控えているその女を、じっと観察した。
背筋の伸ばし方、立ち位置の取り方、視線の配り方──どれをとっても、本来の使用人の所作とはどこか異なっている。
給仕に徹する者ではなく、常にこちらの動向を窺う者の立ち方だった。
監視役だと、すぐに見抜ける。
ルイナは何も言わず、ただ冷ややかな眼差しだけをその女に向け続けた。
夜が更けた頃、扉の外に再び足音が近づいてくる。
姿を見せたヴァレリウスとの会話は、今回はごく短いものだった。
相変わらず「保護」という言葉を繰り返す彼に、ルイナは頑なに拒絶の意を示し続ける。
大きな進展があったわけでもない。
ただ、互いの立場の隔たりだけが、変わらぬまま確認された夜だった。
扉が再び閉ざされ、鍵の音が響く。静寂だけが残された部屋の中で、ルイナは拳を握りしめたまま、じっと闇を見つめていた。
執務室に戻ったグレゴールは、しばらくの間、身じろぎひとつせずに立ち尽くしていた。
やがて彼は、静かに椅子から立ち上がる。その所作には、これまでの穏やかさとはまるで違う、抑えきれない気迫が漲っていた。
控えていた側近たちが、思わず息を呑む。
「馬を用意しろ」
短く放たれた命令に、部屋の空気が一変する。
「今すぐ、クロイツ家へ向かう」
その言葉に、側近の一人が慌てて進み出た。
「お待ちください、事前の連絡もなく訪ねるのは……」
グレゴールは、その制止に一切耳を貸さなかった。短く発された命令のもと、側近たちが慌ただしく動き始める。
馬の支度を整える足音、外套を取りに走る気配。
にわかに慌ただしさを増していく室内で、グレゴールだけがひとり、静かに窓辺へと歩み寄った。
娘を騙し、姿を消させ、あろうことか保護の名の下に囲い込んだ。その背後にある名は、もはや疑いようもなく判明している。
机の上で、彼の拳が静かに、しかし確かな力を込めて握りしめられた。
「ヴァレリウス・クロイツ……」
低く抑えたその声が、静まり返った執務室に重く響き渡る。
窓の外に広がる王都の夜景を、グレゴールはじっと見つめ続けた。
娘は今どこにいるのか。無事でいるのか。
答えの出ない問いだけが、胸の奥で絶え間なく燻り続けている。
──彼はまだ知らない。
その娘が今まさに、クロイツ家の屋敷の一室に囚われていることを。
灯りの落ちた王都の街並みに、夜だけが静かに、そして深く更けていった。




