鬼才の一門
数年ぶりに踏みしめる王都の石畳は、記憶にあるよりもずっと硬く、そして息苦しく感じられた。
石造りの建物が隙間なく立ち並び、行き交う人々の多くは仕立ての良い衣服に身を包んでいる。
ノアの胸に去来するのは、懐かしさなどという生易しい感情ではなかった。
「相変わらず息苦しい街だな」
独りごちる声には、隠しきれない嫌悪がにじんでいた。
貴族、官僚、法務官。権力の匂いを漂わせる人間ばかりが行き交うこの街は、どこまで歩いても、腹の底から馴染めない違和感がつきまとう。
土埃の匂いと、規律よりも生身の人間の熱が優先される辺境の暮らしの方が、よほど自分の性に合っている。
そう思いながらも、ノアは足を止めなかった。
今回ばかりは、好き嫌いを言っている場合ではない。抱えた資料の束を小脇に挟み直し、彼は迷いのない足取りで、生まれ育った屋敷へと向かっていった。
ヴァレンティス家の門をくぐった瞬間、ノアの顔がわずかに歪んだ。
屋敷の造りそのものが、他の貴族の邸宅とはまるで違う。
武具や甲冑を飾る玄関はなく、代わりに巨大な書庫が母屋に直接併設されている。
壁という壁には隙間なく本棚が並び、法典、判例集、書類の束が、屋敷のあらゆる場所を埋め尽くしていた。
すれ違う使用人でさえ、手には分厚い法律書を抱えている。
騎士の屋敷というより、学者の巣窟だった。
「やっぱ気持ちわりー家だ」
正直な感想が、ノアの口から零れ落ちる。
出迎えた使用人が、慣れた様子で一礼した。
「お帰りなさいませ」
「帰ってねぇ」
即座に返した否定に、使用人は特に気にする風もなく、変わらぬ足取りで奥へと下がっていく。
この家では、こうした軽口の応酬すら、ごくありふれた日常の一部らしかった。
執務室に足を踏み入れると、机の向こうに座す人物と目が合う。
五十代後半の、鋭い眼光を持つ男だった。
冷徹という言葉がそのまま服を着て歩いているような雰囲気は、法務官として長年名を馳せてきた父、その人のものだ。
ノアの顔立ちの端々に、確かにこの男の血が流れていることが見て取れる。
「何しに来た」
前置きも挨拶もなく、開口一番に放たれた言葉だった。
「顔見せ」
「帰れ」
にべもない拒絶に、ノアの片眉が跳ね上がる。
「久々に会った息子に言うことかよ」
売り言葉に買い言葉、瞬く間に険悪な空気が漂い始める。数年ぶりの再会だというのに、あまりにも呆気ない喧嘩の火種だった。
その気配を聞きつけたのか、廊下からさらに数人の足音が近づいてくる。
姿を現したのは、ノアの兄だった。
涼しい顔で、隙のない佇まいを崩さない兄が、値踏みするような視線をノアへ向けた。
「まだ騎士ごっこか」
口の端に、皮肉めいた笑みが浮かぶ。
「剣しか振れん男には、似合いの仕事だな」
「殴るぞ」
即座に低く唸ったノアだったが、周囲は誰も動じない。
この程度の応酬など、幼い頃から数え切れないほど繰り返してきた儀式のようなものだった。
今この瞬間だけは、笑い話に付き合っている余裕もない。
ノアは小さく息を吐き、懐から資料の束を取り出した。机の上に、資料が音を立てて置かれる。
「クロイツ家が絡んでる」
その一言に、部屋の空気が瞬時に張り詰めた。
父の手が、書類をめくる動きを止める。兄の表情からも、それまでの軽口が嘘のように消え失せていた。
「詳しく話せ」
低く、有無を言わさぬ声だった。ここから先は、家族間の軽口ではなく、法務官としての本題だ。
ノアは順を追って語り始めた。
紋様の異なる短刀。
曖昧な老人の目撃証言。宛名も差出人もない不自然な手紙。
そして、その裏に見え隠れする再捜査官の経歴。
ひとつひとつを丁寧に説明していく間、父と兄は、まるで法廷での尋問のように、鋭い質問を次々と投げかけてきた。
「証言調書はあるか」
父の問いに、ノアは頷く。
「発見報告書は」
兄が続けて問う。
「原本は、残っているか」
さらに別の声が重なった。叔父まで同席していたことに、ノアは今更ながら気づく。
「ある」
短く答えると、一同は差し出された資料に一斉に手を伸ばし、無言のまま読み込み始めた。
しばらくの沈黙のあと、資料を睨みつけていた父が、低く呟いた。
「なるほど」
紙をめくる指が止まり、彼はやがて低く唸るように続けた。
「ヴァレリウスか」
その名を口にした瞬間、部屋の空気が一段と剣呑さを増す。父の声には、隠しきれない苦々しさがにじんでいた。
「クロイツ家は、昔から法を私物化する」
吐き捨てるような一言に、兄が即座に同調した。
「特に、あのヴァレリウスは最悪だ」
叔父もまた、忌々しげに眉根を寄せる。
「証拠不十分で、何度奴に逃げられたことか」
祖父までもが、苦い顔で口を挟んだ。
「法廷であの名を聞くだけで、胃が痛くなる」
これまで積もりに積もった苦々しい記憶が、次々と口をついて出てくる。
裁判のたびに巧妙な手管ですり抜けていく相手に、一族の誰もが煮え湯を飲まされてきたのだろう。
ヴァレンティス家にとってヴァレリウスという名は、単なる政敵というだけでは片付けられない、王都広しといえど他に類を見ないほどの宿敵だった。
「ヴァレリウスか」
改めて呟いた父の目に、これまでにない本気の光が宿る。その様子を見て、ノアは得心した。
この一族が、ここまで一丸となって動き出す理由が、今はっきりと腑に落ちていた。
これから見せられる光景に比べれば、家族間の因縁話など前座に過ぎなかった。
兄が、証言書の一点を指差しながら言う。
「証言能力が怪しい。保全手続き違反だ」
叔父もまた、別の書類を睨みつけながら続けた。
「発見経緯が異常すぎる」
祖父までが顔を出し、老いてなお鋭い眼光で資料を一瞥する。
「これを裁判に出したら、私なら採用せん」
「私なら三日で崩せる」
叔父が即座に言い返すと、祖父は薄く笑って首を振った。
「半日で十分だ」
(こえぇ……)
ノアは内心で震え上がる。
ルイナが何日もかけて丹念に調べ上げた事実の綻びを、この一族はほんの数十分足らずで整理し、あまつさえ法廷での崩し方まで即座に組み立ててみせている。
ふと、資料をめくっていた兄の手が止まった。証言書のとある一点を指先で示しながら、彼は探るような視線をノアへ向ける。
「お前が、短刀の矛盾に気づいたのか?」
「ああ」
短く答えると、叔父もまた顔を上げた。
「老人の証言もか」
「それも」
しばし場が静まり返る。やがて祖父が、深く皺の刻まれた顔に、どこか複雑な色を浮かべながら呟いた。
「……血は、争えんな」
その一言に、ノアは思わず視線を逸らした。認めたくはなかった。
この場にいる誰もが薄々察している通り、それは紛れもない事実だった。
かつてノアは、この家の誰よりも将来を嘱望された法務官候補だった。
だが、規則という規則を平然と破り、必要な書類はろくに書かず、あろうことか上司を殴り、法廷の最中に居眠りをする始末。
数え切れないほどの問題を起こした末、ついに父から「二度と帰ってくるな」と突き放され、辺境へと追いやられた過去がある。
自分では、あの堅苦しい世界を捨てたつもりでいた。
結局のところ、短刀の紋様の矛盾に気づいたのも、老人の証言に潜む誘導の跡を見抜いたのも、手紙の不自然さを見破ったのも、他でもない自分自身だった。
一度目にした法文は決して忘れず、証拠の矛盾を瞬時に見抜き、尋問の呼吸すら心得ている。
嫌というほど叩き込まれたこの一族の血が、皮肉にも今、ハオランを救う武器になっていた。
最後の資料を閉じ、父が静かに顔を上げる。
「ルイナ・ランカスターは、正しい」
その一言に、ノアの胸の奥が、じんわりと熱を持った。
「証拠は、作られている可能性が高い」
これまで自分たちだけで手繰り寄せてきた推理に、初めて第三者の──それも法の専門家という重みを持った太鼓判が押された瞬間だった。
安堵と興奮が入り混じり、ノアは思わず拳を握りしめるが、喜んでいる場合ではないと、すぐに我に返った。
「で、もっと悪い話がある」
父の眉が、わずかに動く。
「何だ」
「ルイナが、消えた」
その一言に、部屋の空気が凍りついた。誰もが息を潜め、次の言葉を待っている。
「港で、クロイツ家に連れて行かれた」
父の目が、すっと細められる。もはやそこには、先ほどまでの冷静さとは異なる、静かな怒りの色が滲んでいた。
父がゆっくりと椅子から立ち上がる。
「全員、集まれ」
その一声に、兄も叔父も、瞬時に表情を引き締めた。長年培われてきた一族の連携が、瞬く間に発動していく気配があった。
父は執務室の中央に立ち、静かに、確かな重みを込めて告げる。
「クロイツ家が、またもや法を弄んだ」
一拍の間を置き、彼はさらに続けた。
「ヴァレンティス家の名にかけて、叩き潰す」
その宣言が、屋敷全体を揺るがすほどの重みを持って響き渡る。
慌ただしく指示を飛ばし始めた父が、ふと思い出したようにノアへ視線を戻した。
「ランカスター卿には、話したのか」
「まだだ」
短い答えに、父の眉間へわずかに皺が寄る。
「なら、急げ」
「娘を攫われた父親ほど、厄介なものはないぞ」
兄が呆れ半分に口を挟んだ。
「しかも、相手はグレゴール・ランカスターだ」
叔父が続けて名を挙げると、祖父までもが乾いた笑いを漏らす。
「今頃、クロイツ家へ殴り込みに向かっていても、不思議ではないな」
その言葉に、ノアの脳裏には、感情を表に出さない無骨な男の姿が浮かんだ。
ルイナと同じ、あの底冷えするような静けさの奥に、確かな激情を秘めた父親の姿が。
「……あり得る」
呟いた声には、苦笑とも焦りともつかない響きが滲んでいた。




