偽りの保護
「短刀、証言、手紙。調査結果は全部まとめてある」
執務机の上に積み重ねた書類を、ルイナはノアの前に押し出した。
半月に及ぶ調査の全てが、そこには詰め込まれている。
彼女自身の字で書かれた注釈が、余白のいたるところに几帳面に添えられていた。
ノアはその分厚さに、露骨に顔をしかめる。
「俺は、書類仕事嫌いなんだが」
「知ってるわ」
短く返す声には、わずかな笑みが滲んでいた。
こんな状況でなければ、いつもの軽口の応酬として笑って流せたはずだ。
今は、笑みの奥に張り詰めた緊張が透けて見える。
ノアは書類の束に手を置いたまま、しばらく無言だった。やがて顔を上げ、いつもの気だるさとは異なる、真っ直ぐな視線をルイナに向ける。
「絶対戻って来いよ」
「当然よ」
即答した声には、迷いの色などひとつもなかった。
二人とも、内心では同じ疑念を拭いきれずにいる。
ハオランが連行され、証拠のひとつひとつに疑わしさが積み重なっていくこの最中に、グレゴールが倒れるという報せが飛び込んできた。
そのタイミングの良すぎることが、どうしても引っかかって仕方がない。
けれど、それが誰かの策略である可能性を疑ったところで、父の身を案じる気持ちに嘘はつけなかった。
万が一にも本当のことであれば、放っておくことなど到底できない。
真偽の分からないまま突き放すには、あまりにも重すぎる報せだった。
ジンロンとリンナには、事情を手短に説明した。
リンナは不安げに眉を寄せながらも、気丈に頷いてみせる。ジンロンは腕を組んだまま、静かに一言だけ告げた。
「気をつけて行けよ」
その言葉に背中を押されるように、ルイナはその日のうちに港へと向かい、王都行きの船に飛び乗った。
甲板に立ち、波間に沈んでいく辺境の岸辺を見つめながら、ルイナは胸の内で幾度も自問を繰り返す。
父の身に何かあったのなら、一刻も早く駆けつけねばならない。
もしこれが誰かの仕組んだ罠であるならば──その先に待つものを、彼女はまだ知る由もなかった。
数時間後、船が王都の港に着くと、桟橋には見知らぬ治安官の一団が待ち構えていた。
その物々しい出迎えに、ルイナの足が思わず止まる。治安官の一人が一歩前に進み出て、抑揚のない声で告げた。
「ルイナ・ランカスター殿。ハオラン・ホン容疑者との関係を考慮し、一時保護命令が出ています」
耳を疑うような文言だった。保護という言葉の裏に潜む不穏さを、彼女はすぐさま感じ取る。
「身元引受人は、クロイツ家です」
その名を聞いた瞬間、ルイナの背筋を冷たいものが駆け抜けた。
抗議の言葉を紡ぐ間もなく、彼女は左右を屈強な兵に固められ、待たせてあった馬車へと促されていく。
連れて行かれた先は、豪奢な佇まいのヴァレリウス邸だった。
通された応接間には、既に見慣れた美貌の男が、優雅な仕草で椅子に腰掛けている。
ルイナが口を開くより先に、ヴァレリウスは穏やかな声で告げた。
「グレゴール卿は、至って健康ですよ」
その一言に、ルイナの中で何かが焼き切れる音がした。
「何故、こんな真似を」
低く抑えた声には、これまで滅多に見せることのなかった激しい怒りが滲んでいる。
ヴァレリウスは眉ひとつ動かさず、口の端にだけ笑みを浮かべた。
「ハオラン・ホンが容疑者であるにも関わらず、あなたはまだ彼に情を寄せている」
淡々とした口調が、かえって不気味だった。
「保護が必要だと判断しました」
ふざけるな、という言葉が喉元までせり上がったが、ルイナはそれを飲み込み、代わりに踵を返す。
「保護など必要ないわ。失礼する」
扉の前には、既に幾人もの兵が並び、彼女の退路を静かに塞いでいた。
ヴァレリウスが軽く手を上げると、それが合図であったかのように、応接間の外からさらに兵たちが次々と入り込んでくる。
「用意した部屋へ、お連れしろ」
抑揚のない指示が、空気を凍りつかせた。
瞬く間に、ルイナは幾重もの兵に取り囲まれていた。
数えるまでもなく、十数人はいる。
槍の穂先が、じりじりと間合いを詰めながらこちらへ向けられていく。
冷たい鉄の輝きが、視界の端で幾つも揺れていた。
ルイナの手が、無意識のうちに腰の鞭へと伸びる。指先が柄に触れた瞬間、周囲の兵たちの気配が、一斉にわずかに張り詰めた。
「やめた方がいい」
静かなヴァレリウスの声が、その場に落ちる。
「……」
ルイナは動きを止めたが、目の前の数に怯んだからではない。この程度の人数であれば、鞭ひとつで幾人かを打ち倒すことくらい、造作もないという自負が彼女の中にはある。
だが、ここで暴れれば──。
その先に待つ結末が、あまりにも鮮明に見えていた。
容疑者の妻が、保護命令を振り切って護衛の兵を傷つけたとなれば、それはハオランの立場をさらに悪化させるだけの材料にしかならない。
自分自身もまた、罪人として扱われる口実を、みすみす与えることになる。
握りしめた拳の中で、鞭の柄がぎしりと軋んだ。奥歯を強く噛みしめながら、ルイナは静かに手を離す。
屈辱を飲み込むという行為が、これほどまでに重く、苦いものだとは知らなかった。
大人しく従うルイナを一瞥し、ヴァレリウスは満足げに目を細めていた。
彼女がここまで真相に近づいているという事実は、看過できるものではなかった。
短刀、証言、手紙──そのどれもに疑いの目を向け、着実に綻びを手繰り寄せている。
放置すれば、いずれ自分の描いた筋書きそのものが崩れかねない。
ならば、直接その手の届く場所に置いておく方が、はるかに都合が良かった。
「わざわざランカスター家の家令を使ってまで、ご苦労なことね」
振り返らないまま、ルイナは冷たく言い放った。皮肉に込めた棘は、隠しようもなかった。
ヴァレリウスは小さく笑い、あくまで穏やかな調子で答える。
「彼を責めないでやってくれ」
その声には、憐れみにも似た響きが混じっていた。
「孫が病で臥せていて、多額の金が必要なんだ」
老家令の蒼白な顔と、あの震える声が脳裏に蘇る。
忠義と孫の命を天秤にかけられれば、抗える者などそう多くはない。
怒りの矛先をどこに向ければいいのか分からないまま、ルイナは唇を強く引き結んだ。
用意されていた部屋に押し込まれると、背後で重い扉が閉められる。
続いて、鍵の回る音が響いた。
ガチャリ。
その乾いた音が、部屋の静寂に不釣り合いなほど大きく響き渡る。ルイナは扉に駆け寄り、拳で叩いた。
「開けなさい」
返事はない。
もう一度、今度はさらに強く叩いたが、扉の向こうからは物音ひとつ返ってこなかった。
踵を返し、窓へと向かう。
期待は、そこでも裏切られた。硝子の向こうには、太い鉄格子が等間隔に並んでいる。
父の病は、嘘だった。
ハオランは、王都のどこかに拘束されたまま。
ノアは、辺境に残されている。
そして今、自分自身がこうして囚われの身となった。
一人ずつ、大切な人間を引き離されていく。まるで最初から、そう仕組まれていたかのように。
握りしめた拳の中に、爪が食い込んでいく感触があった。
窓の外に広がる王都の夜景を睨みつけながら、ルイナは低く、抑えきれない声を絞り出す。
「ヴァレリウス……!」
その名は、静まり返った部屋の中に、いつまでも重く響き続けていた。




