読ませるための手紙
翌日、ルイナは執務机に向かい、手紙にまつわる情報を一枚の紙に書き出していた。
差出人なし。
宛名なし。
日付なし。
内容は曖昧。
箇条書きにして改めて並べてみると、その異常さが視覚的にも際立って感じられる。
指示書と呼ぶにはあまりにも要素が欠落しすぎていた。
羽根ペンの先で紙面を軽く叩きながら、ルイナは眉間に深い皺を刻んでいた。
そこへノアが、いつもの気だるげな足取りで入ってくる。机の上の書き出しに目を留め、しばらく黙って眺めていた。
「なあ、これ誰が読んでも意味分かるよな」
その一言に、ルイナは羽根ペンを持つ手を止め、顔を上げる。
一瞬、言葉の意味を測りかねた。問われて考えるうち、その指摘の鋭さがじわじわと胸に染み込んでくる。
本来、秘密裏に交わされる連絡文というものは、受取人だけが理解できるように書かれるはずだ。
第三者が読んでも意味の通らない、暗黙の符牒めいた言い回しになるのが自然だろう。
しかし目の前の一文は違った。
『例の件は予定通り行え』
誰が読んでも、瞬時に「悪事の指示らしきもの」だと感じ取れてしまう。
まるで、読む者に誤解の余地を与えないよう、あえて分かりやすく書かれているかのようだった。
「……確かに、妙ね」
ルイナは呟きながら、事件当時の記憶を手繰り寄せる。討伐された野盗たちの姿が脳裏をよぎった。
彼らは決して統率の取れた集団ではなかった。行き当たりばったりの略奪を繰り返し、計画性という言葉とはほど遠い有様だったはずだ。
「そんな連中に、『例の件』の一言だけで通じるものかしら」
疑問を口にすると、ノアも同意するように頷いた。
確かめるため、二人はその日のうちに、当時の野盗討伐に加わった兵士たちのもとを訪ねた。
聞き込みを重ねるうちに、思わぬ事実が浮かび上がってくる。
討伐された野盗たちは、そのほとんどが読み書きを満足にできなかったという。
押収品の中にも、帳簿や書状の類はほとんど見つからなかった。
彼らの間で交わされていたのは、もっぱら口約束による指示だったというのだ。
兵士の一人が、当時を思い出しながら苦笑まじりに語った。
「あいつら、字ィ書けるのなんてほとんどいなかったですよ。頭目でさえ、自分の名前を書くのがやっとだったって話です」
その証言に、ルイナの中の違和感はさらに輪郭を強めていく。
読み書きもろくにできない集団を相手に、わざわざ回りくどい書状で指示を出すという行為自体、そもそも成立し得ない話だった。
帰り道、夕闇の迫る街道を馬で進みながら、ノアがぽつりと呟いた。
「野盗向けじゃねえんだよ」
「え?」
ルイナが視線を向けると、ノアは前を見据えたまま続けた。
「この文」
一拍置いて、彼は言葉を継ぐ。
「野盗に読ませるためじゃなく、裁判官に読ませるためなら完璧だ」
その一言が、雷鳴のようにルイナの思考を貫いた。
確かに、この手紙は野盗との連絡文としてはあまりにも杜撰で、意味を成していない。
裁判の場でこの一文を目にした者は、間違いなく「何か悪事を指示した証拠」だと即座に受け取るだろう。
誰が読んでも一目でそれと分かるよう、あえて簡潔で分かりやすく仕立てられている。
実際の犯行に用いるための連絡文ではなく──。
「犯人を作るための手紙」
ルイナは自分の声が、震えを帯びていることに気づいた。
証拠品としての説得力だけを追求し、実際の運用としての整合性は完全に度外視されている。
誰かが、法廷という舞台を最初から見据えて、この一枚の紙を用意したのだとしか思えなかった。
その確信は同時に、大きな壁にも突き当たる。
「それでも、推測よ」
自分自身に言い聞かせるように、ルイナは静かに呟いた。
「ああ」
ノアも短く同意する。
どれほど筋の通った推理であっても、それを裏付ける証拠がなければ、法廷では何の力も持たない。
「秘密保持のため、あえて曖昧に書いた」
裁判所がそう言い張れば、それだけで反論は封じられてしまう。
どれほど不自然に見えても、意図的な曖昧さだと開き直られれば、覆しようがない。
頭では理解していても、その理不尽さに、ルイナの胸の奥がじりじりと焼けるように痛んだ。
執務室へ戻り、資料をもう一度めくり直していたルイナの指が、ふと止まる。
「そういえば……」
呟きながら、彼女は当時の証拠品目録に視線を落とした。
「この手紙は、誰が見つけたの?」
その問いに答えを探すように、資料の該当欄を辿っていく。
やがて見つけた発見者の記載欄には、他でもない、あの再捜査官の名が記されていた。
さらに遡って確認すると、野盗討伐が行われた当時の押収品一覧に、この手紙は存在していなかった。
半年もの月日が経ち、再捜査が始まってから突然、証拠として浮上したものだったのだ。
ルイナとノアは、思わず顔を見合わせる。
「おかしくねえか?」
ノアの声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。
「ええ……」
短く答えたルイナの手の中で、資料の紙が小さく音を立てる。無意識のうちに、指先へ力がこもっていた。
半年もの間、どこにも存在しなかった証拠が、再捜査の始まりとともに、あたかも最初からそこにあったかのように差し出された。
この一点だけでも、これまで積み上げてきたどの疑問よりも、はるかに大きな意味を持っているように思えた。
ルイナは資料を強く握りしめ、静かに、しかし確かな決意を込めて口を開く。
「この手紙が見つかった経緯を、調べるわ」
窓の外では、すでに夜の帳が深く下り始めていた。
灯りの落ちた執務室の中、彼女の瞳だけが、次に進むべき道を見定めるように、まっすぐな光を宿していた。




