宛先のない手紙
執務室の窓から差し込む光は、すでに橙色を帯び始めていた。
机の上に広げた資料を見つめながら、ルイナはこれまでの調べを頭の中で整理していく。
短刀は本家ホン家の物ではなかった。
目撃証言は、老人の曖昧な記憶に捜査官の言葉が積み重ねられ、実態以上の重みを持たされていた。
そのどちらも決定打には至らない。証拠の信用性を削ることはできても、無実を証明する一手にはまだ遠かった。
その間にも、ハオランは変わらず王都に拘束されたままだ。指を折って数えるまでもなく、すでに何日もの時が過ぎている。
彼が今どんな環境に置かれているのか、食事は取れているのか、想像するだけで胸の奥が締めつけられた。
焦りという感情に、これほど支配されたことは今までになかった。
扉が開き、ノアが顔を出す。ルイナは資料から視線を上げ、静かに切り出した。
「あと残るのは、手紙ね」
「例の『予定通り行え』ってやつか」
ノアが椅子を引き寄せながら答える。その一言で、ルイナの脳裏に、あの応接室の光景が鮮明に蘇った。
再捜査官が机の上に広げた三点の証拠品。
鈍く光る短刀。几帳面な筆致の証言書。
そして、封を切られたたった数行の手紙。文面は短かった。
だからこそ、今でも一字一句をはっきりと思い出せる。
「あの時、貴方が何か言っていたわね」
ルイナが問いかけると、ノアは記憶を辿るように腕を組んだ。
「ああ。あの文面、ホン家っぽくねえ」
そう前置きしてから、彼は続ける。
「お前は辺境に来て日が浅いからわからないかもしれないが、ここの武術家って結構洒落た言い回しをするんだぜ」
ルイナは詳細を求めるように身を乗り出した。ノアは机に肘をつき、思い出しながら言葉を選ぶ。
「東方の武術家一族ってのは、命令文に独特の言い回しを使うんだよ」
指を折りながら、彼は例を挙げていく。
「『行え』とか『実行しろ』とか、そういう西方の軍令調はあんまり使わねえ」
「代わりに?」
「『果たせ』『遂げよ』『成せ』──そういう、ちょっと格式張った言葉を好む」
もちろん個人差はある、とノアは付け加えることも忘れなかった。
それだけで断定できるほど単純な話ではない。
拭い去れない違和感だけは、確かにそこに残り続けていた。
その説明を聞きながら、ルイナの脳裏には、これまでハオランが書き残してきた幾つもの文字が蘇っていた。
巡回で家を空けるルイナのために残していく短い書き置き。リンナの稽古のために書き記す練習メニュー。
世話焼きな性分ゆえか、彼は思いのほか筆まめで、同じ屋根の下にいる家族のために、何かにつけて文字を書き残す癖があった。
その文面には、確かに一貫した癖がある。
「任務を行う」ではなく、「任務を果たす」。
ささやかな違いのようでいて、幾度となく目にしてきた文字の並びは、ルイナの記憶の中に確かな型として刻み込まれていた。
だからこそ、あの手紙の一文が、これほどまでに引っかかり続けているのだと、今になって腑に落ちる。
確証を得るため、その夜、ルイナはホン家へと足を運んだ。
居間には、蝋燭の灯りに照らされたジンロンとリンナの姿があった。
事情を話すルイナの声を、二人は黙って聞いている。話し終えると、ルイナは静かに問いを投げた。
「ハオランは、『行え』という言葉を使う?」
ジンロンはしばし目を閉じ、記憶を辿るように顎に手を添えた。長い沈黙のあと、彼はゆっくりと首を横に振る。
「あやつは使わんのう」
そして付け加えるように、低く続けた。
「ワシも使わん」
隣で聞いていたリンナも、こくりと頷く。
「お兄ちゃんなら、『果たせ』かなぁ?」
無邪気な問いかけの形をとってはいたが、その言葉には確かな実感が滲んでいた。
家族三人の記憶が、ひとつの結論へと自然に重なっていく。
この瞬間、ルイナの胸にはわずかな高揚が生まれかけた。
──だが、ジンロンはすぐに冷静な声でその熱を鎮める。
「それだけでは偽物とは言えん」
ルイナは息を呑んだ。
「文章の癖など、裁判では弱い」
正論だった。個人の言葉選びの傾向は、法廷という場において、覆しようのない証拠にはなり得ない。
頭では十分に理解していながらも、目の前に積み上がっていく状況証拠が、なかなか決定的な一手に結びつかない現実が、ルイナの胸に苦い歯がゆさを残していく。
沈黙が落ちた居間で、ジンロンがふと、何かに気づいたように目を細めた。
「そもそも、その手紙は誰宛じゃ?」
その問いに、ルイナは言葉を失う。
問われて初めて、彼女は自分がその点をまるで検討していなかったことに気づかされた。
記憶の中の手紙を、もう一度たぐり寄せる。書かれていたのは、たったそれだけの一文だった。
『例の件は予定通り行え』
差出人の名はない。
宛名もない。
日付もない。
署名もない。
指示書として扱うにしては、あまりにも異様な短さだった。
誰が誰に対して発したものかすら分からない紙切れが、これほどまでに重大な証拠として扱われていること自体、今さらながら奇妙に思えてくる。
夜気を切り裂くように馬を進めながら、ルイナは静かに思考を巡らせていた。
もしこれが本当に、野盗との間で交わされた連絡文だとするなら、あまりにも情報が足りなさすぎる。
何を、いつ、どこで、誰が、誰に対して行うのか。
具体的な指示であるはずのものが、これほどまでに曖昧なままで、実際の犯行にどう役立ったというのか。
差出人がいない。
宛名もない。
具体的な内容もない。
積み重なる疑問符が、ルイナの中でひとつの輪郭を結んでいく。
「まるで最初から」
呟く声は、夜風にかき消されそうなほど小さかった。
「誰かを陥れるためだけに、作られた紙みたい……」
冷たい夜風が頬を撫で、手綱を握る指先に力がこもる。
星の瞬く夜空の下、エルシオンの足音だけが規則正しく響き続けていた。
答えの見えない疑問を抱えたまま、ルイナはただただ前を見据えた。




