誘導された記憶
翌朝、ルイナとノアは馬を並べ、隣の集落へと向かった。
証言者である老人の家は、畑の片隅にひっそりと建つ小さな家屋だった。
訪ねてきた二人を見るなり、老人は驚いたように腰を上げる。
七十代後半だという体は骨張り、深い皺の刻まれた顔の中で、白く濁った瞳が不安げに二人を見つめていた。
事件当時から目はあまり良くなかったのだと、あとで村長から聞かされている。
今はさらに老いが進み、近くの物すら判然としないほどだという。
その態度に悪意めいたものは微塵も感じられなかった。むしろ、突然の訪問に戸惑いながらも、椅子を勧めようとする仕草には素朴な誠実さが滲んでいる。
「わしの証言が役に立つなら」
か細いその声には、誰かを陥れようという企みなど欠片も感じられなかった。
純粋な善意だけが、この老人をここまで巻き込んだのだと、ルイナは直感的に理解する。だからこそ、事態はより一層厄介だった。
椅子に腰を下ろし、ルイナは静かに切り出した。
「あなたはハオラン・ホンを見たのですか?」
老人はしばし考え込むように視線を泳がせ、やがて首を横に振る。
「いや……名前は知らん」
「では顔を見た?」
「遠かった」
「声は?」
「聞いておらん」
「服装は?」
「覚えておらん」
一問ごとに返ってくる曖昧な答えに、ルイナの中の違和感が、じわりじわりと輪郭を強めていく。
何ひとつとして、具体的な情報がない。
それでいて、この証言が「ハオラン・ホンを目撃した」という決定的な一文として、王都の書類に記録されているという事実が、あまりにも歪だった。
その後、二人は老人を伴って実際の現場へと向かった。ここでの検証こそが、この日の本題だった。
老人が立っていたという場所、人影を見たという方角、そして事件当夜に野盗が潜んでいたとされる地点。
ひとつひとつを地図と照らし合わせながら、実際の距離を歩いて確かめていく。
歩を進めるほどに、ルイナの表情は険しさを増していった。
老人の立ち位置から、人影が見えたという地点までの距離は、優に三百から四百メートルはある。
しかもその間には、鬱蒼と茂った林が横たわっていた。
木々の隙間から辛うじて向こう側が見通せる程度で、はっきりと人の輪郭を捉えられるような視界では到底なかった。
「この距離で……」
呟いたきり、ルイナは言葉を継げなかった。
夕暮れ時の薄闇の中、老いた目でこの距離を見通し、人物を特定できるはずがない。
それは検証するまでもなく、常識的に考えて明らかなことだった。
ノアが老人の隣に立ち、腕を組んだまま問いかける。
「これでハオランだって分かったのか?」
老人は視線を彷徨わせ、ぽつりと答えた。
「いや……」
「顔も見てねえんだろ?」
「見ておらん」
重ねられる問いに、老人はただ正直に頷くしかなかった。ここまで来て、ようやくルイナは核心へと踏み込む。
「ではなぜ、ハオランだと思ったのです?」
その問いに、老人は困ったような表情を浮かべ、しばし口ごもった。皺だらけの手が、落ち着かなげに膝の上で組み直される。
「役人様が……そう言ったので」
その一言が、ルイナの背筋を凍りつかせた。
老人がぽつりぽつりと語った当時のやり取りは、想像していたよりもさらに露骨なものだった。
王都から訪れた捜査官は、まず穏やかな口調で問いかけたのだという。
「青髪でしたか?」
「たぶんのう」
「大柄でしたか?」
「そうじゃな」
そこまでは、老人自身の記憶をなぞる問いに過ぎなかった。捜査官はそこで、さりげなく言葉を継いだのだという。
「実は当時、この辺りに青髪で大柄な男がおりましてな」
「ほう」
「その男が事件に関わった可能性を、調べております」
「そうか」
老人はただ、相槌を打っただけだった。
ハオランの名を口にしたわけでもなければ、その男が犯人だと断定したわけでもない。
捜査官の側もまた、「ハオランを見たか」などという直接的な問いは、一度たりとも口にしていなかった。
この短いやり取りが調書という形に落とし込まれる過程で、事実はいつの間にか組み替えられていた。
まず「青髪で大柄な男を目撃した」という証言が記録され、続けて「当時その条件に一致する人物はハオラン・ホンである」という一文が添えられる。
そして最後に、二つの事実を繋ぎ合わせるようにして、「ハオランを目撃した可能性が高い」という結論が導き出されていた。
老人は誰に対しても、一言も嘘をついていない。
捜査官もまた、誘導と呼べるほど露骨な問いは投げていない。
それでいて、出来上がった書類の上では、まるで最初から老人がハオランを名指ししたかのような重みを持って扱われている。
巧妙という言葉が、これほど恐ろしく響くことはなかった。
ただし、それで証言のすべてが崩れ去るわけではなかった。
老人は最後に、しっかりとした声でこう付け加えた。
「だが、誰かはおった」
その一言だけは、揺るぎない事実として残る。
遠く、林の向こうに、確かに人影があった。
それ自体は嘘ではない。老人が見たものそのものを、完全な偽証だと切り捨てることはできなかった。
崩れたのはただ、「その人影がハオランだった」という部分だけだ。
帰り道、夕日が街道を茜色に染め上げていく中、馬を並べて進みながらノアがぽつりと呟いた。
「やっぱりな」
「証言が捏造されたわけではない」
ルイナが静かに応じる。
老人自身に悪意はなく、目撃したこと自体は事実なのだろう。だからこそ、この証言そのものを真っ向から否定する材料にはならない。
「だが、盛られてる」
「ええ」
短いやり取りの中に、二人の間で共有された確信が滲んでいた。証言は捏造ではない。
誘導によって不当に肉付けされ、あたかも決定的な目撃談であるかのように仕立て上げられている。
馬の蹄が土を踏む音だけが、しばらく静かな夕暮れの中に響いていた。
ルイナは頭の中で、これまでに見つけた綻びをひとつずつ並べていく。
「短刀は、偽物だった」
呟くように言葉を紡ぐと、隣でノアが小さく頷く気配がした。
「証言は、誘導されていた」
続けて口にしたとき、ルイナの声にはこれまでにない確かさが宿っていた。
ひとつひとつは、決定打には至らない小さな綻びに過ぎない。
しかし、その二つが同じ時期に、同じ人物を狙うように積み重ねられているという事実は、もはや偶然の一言では片付けられなかった。
「どちらも、偶然とは思えない」
夕闇の中、彼女の横顔には確かな決意が浮かんでいる。
まだヴァレリウスの名を口にする段階ではない。
証拠と呼べるものは、まだ何ひとつ手の中にないのだ。
それでも、誰かが意図してハオランを陥れようとしている──その一点だけは、もはや疑いようのない確信へと変わっていた。
夕闇が完全に街道を包み込む頃、彼女は小さく息を吐き、前を見据えたまま呟いた。
「次は、手紙ね」
その声には、疲労の色とともに、確かな意志の火が灯っていた。




