遠い影
短刀の一件から数日が過ぎても、証言書の文面はルイナの中で消化しきれずにいた。
執務机に広げられた紙の上、几帳面な筆致で綴られた一文を、彼女はもう何度目になるか分からないほど読み返している。
読めば読むほど、腹の底に薄気味悪いものが澱のように溜まっていく感覚があった。
『事件当夜、青髪の大柄な男が野盗と接触していた』
書かれているのは、それだけだ。
王都はこれを「ハオラン・ホンを目撃した」証言として扱い、彼を王都まで連行する根拠のひとつに据えている。
あまりにも大きな飛躍が、たった一行の文面と結論の間に横たわっていた。
指先で紙の端をなぞりながら、ルイナは眉根を寄せる。窓から差し込む午後の光が、机上の証言書を白く照らし出していた。
そこへノアが入ってくる。挨拶もそこそこに、彼は証言書を覗き込んだ。
しばらく文面を目で追ったのち、彼の表情が徐々に険しくなっていく。
指先で文字をなぞり、何かを探すように何度も視線を往復させていた。
「なあ、顔の特徴が一個も書いてねえな」
その一言に、ルイナも改めて意識を集中させる。言われてみれば、確かにそうだった。
顔立ち、年齢、服装──人物を特定するために本来欠かせないはずの情報が、この証言書にはひとつも記されていない。
あるのはただ、青い髪と、大柄な体格という、あまりにも大雑把な二点だけだった。
「これだけで、よく本人だと断定できるものね」
呟く声に、皮肉めいた響きが混じる。
ルイナは机の引き出しから当時の事件資料一式を取り出し、ノアと並んで日付を確認し始めた。
事件発生からこの証言が提出されるまでの期間を洗い出していくと、そこにもまた不自然な間があることに気づく。
半年という、決して短くはない沈黙の期間だ。
「なぜ今なの」
呟きは疑問というより、苛立ちに近い響きを帯びていた。
ノアが証言書の日付欄を指先で叩く。
「恐怖で黙ってたらしいぜ」
「野盗は全員処刑されたわ」
即座に返した言葉には、隠しきれない棘があった。
恐怖の対象となるべき者たちは、すでに全員この世を去っている。
それでもなお口を噤み続ける理由が、どこにあるというのか。
ノアも同じ疑問を抱いていたのだろう、腕を組んだまま小さく唸った。
「そうなんだよな」
その一言を境に、部屋の空気がさらに重く沈んでいく。二人の間に、言葉にせずとも共有された違和感が、確かな輪郭を持ち始めていた。
さらに日付を突き合わせていくと、もうひとつの符合が浮かび上がる。
この証言が提出されたのは、ヴァレリウスが視察の任を終えて王都へ戻った、わずか数日後のことだった。
偶然と呼ぶには、あまりにも出来すぎたタイミングだ。ルイナの背筋を、冷たいものがすっと這い上がっていく。
翌々日、ルイナは自らラト村とベルカ村へ足を運ぶことにした。
現場の空気を吸い、当時を知る者の声を直接この耳で聞かない限り、机上の書類だけでは掴めない何かがあるはずだと確信していたからだ。
土を踏みしめる足取りには、いつも以上の力がこもっていた。
村の入り口で出会った老爺に、青髪の男の噂について尋ねると、返ってきたのは拍子抜けするほど淡白な反応だった。
「青髪?」
首を傾げながら、彼は続ける。
「別に珍しくないぞ」
聞けば、この辺境には西方系の移民や行商人、傭兵、旅人などが少なからず行き交うのだという。
青みがかった髪の人間など、村の市場に立てば一人や二人、当たり前のように見かけるらしい。
特徴として挙げるにはあまりにも心許ない情報だと、老爺の口ぶりからも伝わってきた。
(それだけで、ハオランだと断定できる……?)
胸の内で反芻しながら、ルイナはさらに村長のもとを訪ねる。
村長は年老いた男で、事件当夜のことを問われると、少し記憶を辿るように視線を宙に泳がせた。
やがてぽつりぽつりと語り出した内容は、証言書に記された文言よりもさらに頼りないものだった。
「証言をしたのは、村外れに住む年寄りでな」
村長は言葉を選ぶように、慎重に続ける。
「事件のあった晩、林の向こうに人影を見たと、それだけ聞いた」
ルイナは眉をひそめ、詳細を確かめずにはいられなかった。
「近くで見たの?」
「いや」
短い否定が返ってくる。
「話し声は?」
「聞いてない」
たったそれだけのやり取りで、ルイナの中の違和感が、もはや無視できないほど膨れ上がっていく。
近くで顔を確認したわけでもなく、声を聞いたわけでもない。
遠く離れた場所から、林越しに人影らしきものを目にした──それだけの記憶が、これほど重大な証拠として扱われている現実に、めまいすら覚えそうだった。
証言者本人はというと、隣の集落に暮らしているというが、日中は畑仕事に出ており、直接会うには半日ほどの時間を要するとのことだった。
空を見上げれば、すでに西日が山の稜線に沈みかけている。
「今日は無理だな」
ノアが呟くように言った。馬の手綱を握る手に、疲労の色が滲んでいる。
ルイナは短く息を吐き、静かに頷いた。
「明日、会いに行く」
夕闇が徐々に村を包み込んでいく中、二人はしばらく無言のまま馬を並べて歩いた。
蹄の音だけが、静かな夜道に規則正しく響いている。
やがてノアが、独り言のように口を開いた。
「証言そのものが嘘とは限らねえ」
ルイナは前を見据えたまま、短く答える。
「ええ」
「だが」
ノアの指先が、懐にしまわれた証言書の輪郭をなぞるように、胸元をとんと叩いた。
「これだけでハオランだって決めつけるのは無理だ」
その言葉に、ルイナは深く頷いた。証言そのものの真偽を疑っているわけではない。
たとえ証言が真実だったとしても、そこから導き出せる結論と、王都が下した断定との間には、あまりにも大きな隔たりがある。
宿へ戻り、ひとり部屋に落ち着いてから、ルイナは再び証言書を取り出した。
灯りに照らされた文字を、もう何度目かも分からないほど目で追う。
青髪。
大柄。
男。
たったそれだけの、輪郭の定まらない人影。
(本当に、この証言者は……ハオランを見たの?)
夜風が窓の隙間から忍び込み、蝋燭の炎を小さく揺らす。
答えの出ない問いだけが、静かな部屋の中に長く尾を引いていた。




