偽装の綻び
呟きが空気に溶けて消えたあとも、ジンロンはしばらくスケッチから目を離さなかった。
皺の刻まれた指先が、二本角の龍の頭部を、確かめるように何度もなぞり続けている。
やがて彼は低く唸るように口を開いた。
「妙じゃな」
その一言に、ルイナは顔を上げる。
「何がです?」
ジンロンは紙面から視線を外さないまま、腕を組み直した。
長年武術家として鍛え抜かれた眼光が、細部の一点一点を検分するように動いている。
「この程度の違いは、ホン家を知らぬ者ならまず見分けられん」
言われて、ルイナは自分自身の反応を思い返す。
角の本数の違いに気づけなかったのは、他でもない自分だ。
ホン家に嫁ぎ、日常的にその紋様を目にしてきたはずの彼女でさえ、指摘されるまで気づけなかった。
ならば、まったく縁のない人間が一目で見分けられるはずもない。
「……」
言葉が出てこなかった。
頭の中では、ひとつの推理が急速に形を成しつつある。それを言語化する前に、ジンロンの方が先に核心へと踏み込んでいく。
「つまりこの短刀を用意した者は、ホン家の紋を見たことはある。だが詳しくは知らぬ」
その一言が、ルイナの中でぱちりと音を立てて噛み合った。
遠目には確かにホン家の紋様に見える。細部まで踏み込めば、まるで似て非なるものだ。
中途半端な模倣──それこそが、この短刀の正体を雄弁に物語っている。
「本当にホン家を知る者なら」
ルイナは自分の声が、思考をなぞるように紡がれていくのを感じながら続けた。
「わざわざ二本角の紋を選ぶ理由がない」
もし本家との縁を偽るつもりなら、本家の証である三本角の紋様を用いるのが道理だ。
しかし実際に用意されたのは、数十年も前に分かれた傍流の紋。
それはつまり、用意した者がホン家について、うわべの知識しか持っていなかったことの証左に他ならない。
ジンロンが頷き、深く息を吐いた。
「遠目に見ればホン家。詳しく見れば違う」
言葉を継ぐように、彼は続けた。
「雑な偽装、というやつじゃな」
その表現に、ルイナは奇妙な冷たさを覚える。
誰かが、おそらくは机の上で紙面と資料だけを頼りに、この短刀の意匠を作り上げたのだ。
実物のホン家の血縁者に確かめることすらせず、遠目にそれらしく見えればいいという、ある種の傲慢さすら滲む雑さだった。
「少なくとも、本家ホン家をよく知る者の仕業ではなさそうですね」
ルイナが呟くと、ジンロンは静かに頷く。
「ホン家に近しい者なら、こんな間違いはせん」
その一言で、疑いの輪郭がわずかに絞られていく。
ただし、それが騎士団の外の者による仕業だと決めつけるのは早計だった。
ホン家をよく知らない王都の貴族かもしれず、商人や役人かもしれない。
あるいは分家に連なる遠縁や、資料の上でしか紋様を知らなかった者という可能性も残っている。
断定できるのは、ひとつだけだ。
少なくとも、本家の内情に通じた人間ではない。
ルイナは手の中のスケッチを、もう一度見つめる。
二本角の龍が、蝋燭の灯りを受けて紙の上でわずかに揺れているように見えた。
「誰かが、ホン家の短刀に見せかけて作った」
声に出して結論を紡ぐと、ようやく胸の奥に沈んでいた靄の一部が、ほんのわずかに晴れていく感覚があった。
それは、無実の証明とはまだ程遠い。ルイナは自分自身に言い聞かせるように、もう一段階、思考を押し進める。
「これだけでハオランを犯人扱いするのは無理がある」
証拠が本物である保証すらない以上、それを根拠に断罪すること自体が乱暴だ。
ヴァレリウスに繋がるわけでも、王都の裁判が覆るわけでもない。
証拠と証言はまだ、ハオランを縛りつけたままだ。
それでも、これまで絶対的な重みを持って積み上げられていた証拠の山に、確かな亀裂を入れられた。
無実を証明したわけではなく、証拠そのものの信用を削り取った。今はそれで十分だった。
窓の外では、夜の帳がすでに深く下りていた。
ジンロンの部屋に灯る蝋燭の炎だけが、二人の間に横たわる沈黙を、静かに照らし続けていた。
騎士団の執務室に戻ると、机に足を乗せていたノアが億劫そうに顔を上げた。
「どうだった?」
ルイナは黙ってスケッチを机の上に広げる。蝋燭の灯りに照らされた紙面を、ノアがしばらく眺めていた。
「短刀は、本家ホン家の物ではなかった」
淡々とした説明に、ノアは足を下ろし、身を乗り出す。二本角の龍の意匠を指先でなぞりながら、彼はふっと息を漏らした。
「へぇ……」
それだけの反応だったが、その瞳の奥には確かな興味の色が宿っている。しばらく黙り込んだのち、彼は椅子の背もたれに体を預け直した。
「なら次は証言だな」
短い一言に、ルイナは静かに頷く。
証拠の綻びは、まだひとつ見つかっただけだ。
積み重なった偽りの山を、ひとつずつ崩していけば、いずれ真実の輪郭が見えてくるはずだった。
夜はまだ長い──が、確かに前へ進んでいる。その手応えだけを胸に、ルイナは次なる証言書の在り処へと思考を巡らせ始めた。




