二本角の龍
短刀を見せてほしい──その要求を王都へ送ってから、返答が届くまでにさほど時間はかからなかった。
しかし中身は、ルイナの神経を逆撫でするには十分すぎるものだった。
『当該証拠品は捜査中につき、閲覧を許可できません』
たったそれだけの一文が記された書状を、彼女は執務机に叩きつける。紙の端が跳ね、インク壺の蓋がかたりと震えた。
「捜査中……」
低く呟いた声には、抑えきれない苛立ちがそのまま滲んでいる。
容疑者の運命を左右する証拠品でありながら、当の弁護側にすら見せないという理屈が、まるで理解できなかった。
公正さの欠片もない対応に、拳の内側で爪が肌に食い込む。
隣で書状を覗き込んだノアも、眉間に深い皺を刻んでいた。
「証拠見せねえとか舐めてんのか」
吐き捨てるような口調だったが、その声には珍しく熱がこもっている。
普段は気だるげに椅子へ寄りかかっているノアが、こうまで露骨に感情を表すのは珍しい。
ルイナはその横顔を一瞬見つめたが、すぐに自分自身の怒りに意識を引き戻された。
しばらくすると妙なことに気づく。
先ほどまで悪態をついていたはずのノアが、いつの間にか静かな表情に戻っていた。
窓の外を眺めながら、指先で顎を撫でる仕草には、何か思案を巡らせているような落ち着きがある。
その変化に、ルイナは違和感を覚えずにいられなかった。
「何か考えがあるの?」
問いかけると、ノアは軽く肩をすくめる。
「まあな。ちょっと実家に手紙出してみる」
その一言に、ルイナは思わず瞬きを繰り返した。
「実家?」
これまで幾度となく共に任務をこなしてきたが、ノアが自分の出自について語ったことは一度もない。
優秀な父兄を持つ次男坊であるらしいという噂は耳にしたことがあったが、本人の口から具体的な話が出たことはなかった。
だからこそ、その単語の響きが、やけに新鮮に感じられる。
ノアは頭をかきながら、視線を逸らした。
「あー……まあ色々あんだよ」
それ以上の追及を拒むような、軽い調子ではぐらかす。
ルイナはそれ以上問い詰めることをせず、静かに頷いた。
今は彼の過去を暴くよりも、その手札に賭けるべき時だと理解していたからだ。
その日の夕暮れ、ルイナがホン家の屋敷へ戻ると、玄関をくぐった瞬間から空気の重さが肌にまとわりついてきた。
いつもならハオランの声が真っ先に迎えてくれる廊下が、今はやけに広く、そしてがらんとして感じられる。
たった一人分の不在が、これほどまでに家全体の温度を下げてしまうものかと、ルイナは自分でも驚くほどの寂しさを噛みしめた。
居間に入ると、リンナが食卓の椅子に座ったまま、指先で袖口を弄んでいる。無邪気で人懐っこいはずの少女の表情には、隠しきれない不安の色が浮かんでいた。何かに気を紛らわせようとしているのか、視線が絶えず窓の外と扉の方向を行き来している。
一方でジンロンは、腕を組んだまま椅子に深く腰掛け、微動だにしなかった。藍青の髪の下、その瞳には迷いのかけらもない。
「あの馬鹿息子が、こそこそ悪事なんぞ働くわけがなかろう」
低く落ち着いた声には、疑うことそのものを最初から選択肢に入れていない、揺るぎない信頼があった。
長年武術家として鍛えてきた男の芯の強さが、その一言だけでルイナの胸にじんわりと沁みてくる。
ルイナは深く息を吸い、二人の前で頭を下げた。
「私が彼を巻き込んでしまった」
声が、自分でも意外なほど掠れている。
「本当に、申し訳ない」
リンナは慌てたように首を振り、ジンロンもまた、そんなことは気にするなとばかりに手を振った。
「お義姉ちゃんのせいじゃないよ」
リンナの声には涙が滲んでいたが、それでも精一杯の気丈さで紡がれた言葉だった。
「お兄ちゃんだって、お義姉ちゃんを責めたりしない」
ジンロンも頷き、深く息を吐く。
「あの子が選んだ道じゃ。お前が背負う必要はない」
その温かさが、かえってルイナの胸を締めつける。
責められる方がまだ楽だったかもしれないと思うほど、二人の優しさは重く、そして眩しかった。
数日後、待ち望んでいた返事が届いた。
封筒を受け取ったノアの表情には、これまでにない緊張が滲んでいる。
差出人の名を確かめるその手つきは、丁寧で、どこか畏まっているようにさえ見えた。
ルイナはその様子に、初めて彼の実家というものの重みを察する。
文面を読み進めたノアが、ふうと息を吐いた。
「証拠品そのものは無理だ。だが絵師に写させるくらいなら可能」
その一言に、ルイナは目を見開く。
「そんなことができるの?」
問いに、ノアは口の端をわずかに持ち上げた。
「できる奴はできる」
普段の飄々とした態度からは想像もできないほどの人脈と権力を、彼の実家が持っているのだと、ルイナはようやく理解し始めていた。
今はそれを詮索している場合ではない。一縷の希望が、確かに繋がったのだから。
さらに数日を経て、王都から一通の封筒が届く。
中に収められていたのは、驚くほど精緻な短刀のスケッチだった。
柄の意匠から鞘の細工まで、まるで実物を目の前にしているかのような克明さで描き込まれている。
ルイナは食い入るようにその線をなぞった。
「確かに、ホン家の紋様に見える……」
呟きながらも、胸の奥にわずかな引っかかりを覚える。彼女はすぐさまスケッチを手に、ジンロンのもとへと足を向けた。
差し出された紙を、ジンロンはしばらく無言で見つめる。皺の刻まれた指先が、龍の意匠をなぞるように空中を辿った。
「確かにホン家系統じゃ」
そう言った直後、彼の眉間に深い皺が寄る。
「じゃが、本家ではない」
その一言に、ルイナの背筋が緊張で強張った。
「この紋様は西州に移った傍流のものじゃ。ワシでも数十年見ておらん」
「ですが、龍の紋様はホン家の……」
食い下がるルイナに、ジンロンは静かに首を振る。
「確かに龍は共通じゃ。じゃが角を見よ」
「角?」
「ホン家の龍は三本角じゃ。この龍は二本角じゃな」
言われて初めて、ルイナはスケッチの細部に目を凝らした。
確かに、龍の頭部に描かれているのは二本の角だ。見慣れたはずの紋様との違いに、今まで気づけなかった自分の観察不足を悔やむ。
ジンロンはさらに指先を滑らせる。
「尾も違う」
「爪も違う」
「鱗の数も違う」
ひとつひとつを指摘するたびに、ルイナの中の確信が塗り替えられていく。
長年その紋様を見続けてきた者だからこそ分かる、微細な差異の積み重ねだった。
やがてジンロンが、何かを思い出したように目を細める。
「ああ……これはレン家の紋じゃな」
その名を口にした瞬間、記憶の奥底から埃を払うような、そんな間があった。
「昔、ホン家から分かれた一族の紋じゃ」
ルイナは息を詰める。
「では、ハオランの物ではない?」
「まずあり得ん」
きっぱりとした否定に、安堵の波が胸に押し寄せる。
その直後にジンロンが付け加えた一言が、彼女を現実に引き戻した。
「あくまで、本家ホン家の品ではないというだけじゃ」
つまり、これは無実の証明にはならない。
分家の品である以上、それがハオランに縁のある何者かのものである可能性までは否定できない。
事態はさらに複雑さを増しただけだった。
ルイナは手の中のスケッチを、もう一度見つめる。
「誰が、何のためにこんな物を使ったの……」
呟きは誰に向けたものでもなく、ただ静かな部屋の中に溶けて消えていった。
新たな疑問だけが、確かな輪郭を持って彼女の胸に残されていた。




