再捜査官
朝の光は、まだ湿った土の匂いを残したまま執務室の窓から差し込んでいた。
ルイナは机に積まれた書類の束をひとつずつ検めながら、羽根ペンの先でインクの量を確かめる。
辺境に来てからというもの、こうした事務仕事の量は王都時代の比ではなかった。
巡回の割り振り、備蓄の点検、村々からの陳情。
どれも後回しにはできない。指先に滲んだインクの染みを見て、彼女はわずかに眉をひそめた。
扉が乱暴に開いたのは、ちょうど三枚目の報告書に目を通し終えた頃だった。
「王都から使者だ」
ノアの声には、いつもの気だるさが微塵もない。ルイナは顔を上げ、彼の表情の硬さに気づいた。
褐色の肌の下で、頬骨のあたりがわずかに強張っている。
「二村襲撃事件の再捜査だとよ」
その一言が、部屋の空気を変えた。
ルイナは羽根ペンを持つ手を止める。ペン先からインクが一滴、書類の端にぽつりと落ちたが、彼女はそれに気づく余裕もなかった。
二村襲撃事件──ラト村が焼かれ、ベルカ村が襲われたあの事件は、もう半年近く前のことだ。
犯人は野盗で間違いなく、証拠も証言も出揃っていたはずだった。
裁判は終わり、処罰も済んでいる。今さら何を捜査するというのか。
「再捜査……」
呟いた声は自分でも驚くほど掠れていた。
窓の外では、朝の巡回に出る騎士たちの足音が石畳を叩いている。
いつもと変わらない朝のはずなのに、ルイナの胸の奥だけが、冷たい水を注がれたように静かにざわめいていた。
使者が持参した書状には、蝋印がまだ新しい。
開封の際、ルイナの指先がわずかに震えたことに、本人だけが気づかないふりをした。文面は簡潔だった。
『新たな証拠が発見されたため、二村襲撃事件について再捜査を行う』
たったそれだけの文言が、王都の紋章の下に刻まれている。
ルイナは書状を二度読み返した。
一度目は文字を追うために。
二度目は、そこに書かれていない何かを探すために。
だが、行間にはなにも見つからない。ただ事務的な一文が、冷たく紙面に居座っているだけだった。
「今更?」
疑問がそのまま口から零れる。
半年も経ってから見つかる証拠とは何なのか。事件当時、現場検証は徹底して行われたはずだ。
ノアも当然同じ違和感を抱いたのだろう、腕を組んだまま窓の外を睨みつけている。
「妙だな」
その短い言葉には、ふだんの投げやりさが欠けていた。
ノアが真面目な顔をするときは、大抵ろくでもないことが起きる前触れだ。ルイナはそれを、辺境に来てからの数か月ですでに学んでいた。
書状を机に置き、窓の外の空を見上げる。雲ひとつない青が広がっているというのに、なぜか胸のざわめきだけが消えなかった。
その夜、食堂のテーブルにはいつもより一皿多く料理が並んでいた。
ハオランが仕事を終えて戻ってきたのは、リンナがすでに三杯目のおかわりを平らげたあとだった。
空腹の限界を超えたリンナのゾンビ状態を、ルイナの手料理が寸前で救った直後の食卓は、いつになく賑やかな空気に包まれている。
ルイナは湯気の立つ皿を挟んで、昼間の書状のことを切り出した。ハオランは箸を止め、ふぅん、と鼻を鳴らす。
「再捜査なんて珍しいな」
その声には緊張の欠片もない。武術家として鍛えられた体は、危機の匂いには敏感なはずなのに、この件に関してはまるで他人事のような余裕を漂わせていた。
「何か見つかったんだろ」
リンナも頬を膨らませたまま頷き、それ以上は興味なさげにスープを啜っている。
誰の顔にも、危機感というものが見当たらない。
ルイナ自身も、この時はまだ、これがどれほど自分たちの日常を切り崩すことになるのか、想像すらしていなかった。
窓の外では虫の声が絶え間なく響き、ランプの炎が小さく揺れている。
何気ない一夜の食卓は、翌日訪れる嵐の前触れとしては、あまりにも静かすぎた。
翌日、王都から派遣された再捜査官が辺境騎士団の門をくぐったのは、日が中天に差し掛かる頃だった。
黒い外套に身を包んだ壮年の男は、名乗りもそこそこに、応接間の長机に書類の束を広げた。
ルイナ、ハオラン、ノアの三人が向かい合う形で座らされる。
空気は張り詰め、誰も口を開かない。
再捜査官が革の鞄から中身を取り出していく所作には、無駄がなかった。長年こうした場に立ち会ってきた者特有の、感情を挟まない手つきだ。
「まずはこちらを」
そう言って机の中央に置かれたのは、鞘に収まった一振りの短刀だった。
鈍い光を放つ鞘には、見覚えのある意匠が彫り込まれている。
東方の紋様──流麗な曲線を描く、ホン家の家紋だ。
ルイナの視線が、その紋様の一点に縫い留められる。喉の奥がひやりと冷えていくのを感じながら、彼女は身動きひとつせずに短刀を見つめ続けた。
「ホン家の紋章……」
呟いた声には、疑いというより戸惑いが色濃く滲んでいる。ハオランの持ち物にしては見慣れない一品だった。武器庫にも私物にも、こんな短刀があった記憶はない。
再捜査官は表情を変えず、次の書類を滑らせるように机の上へ置く。
羊皮紙には几帳面な筆致で証言が綴られていた。
『私は事件当夜、ハオラン・ホン殿を見た。ベルカ村へ向かう道の外れで、単独で行動していた』
読み上げられた文言に、ハオランの眉が跳ね上がる。腕を組んだまま、彼は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「知らねえ奴だな」
証言者の名には、心当たりがまるでない様子だった。
単独行動そのものは事実だ──ベルカ村へ真っ先に駆けつけたのは、他でもないハオラン自身だったのだから。
事実の欠片に、都合よく色をつけられている。その不快さが、彼の声の端に滲んでいた。
三枚目が机に置かれたとき、部屋の空気はさらに重さを増した。
封を切られた手紙が広げられ、そこに記された文字を、ルイナは食い入るように追う。
『例の件は予定通り行え』
短い一文の下に、見慣れた署名があった。ハオラン・ホン、と。
ノアが身を乗り出し、手紙の筆跡を睨みつける。指先が紙面すれすれをなぞり、やがて拳が机を叩いた。
「筆跡まで真似しやがったのか?」
怒りと呆れが混じった声だった。書き癖の細部までよく似ている。だが、よく見れば「行」の払いが微妙に硬い。
台所の壁に貼られた買い出しの走り書きを、飯目当てで足繁く通うたびに盗み見てきたノアだからこそ気づける、わずかな違和感だった。
三つの証拠が机の上に並んだところで、ようやく再捜査官が顔を上げる。
書類の端を指先でとんとんと揃えながら、感情の読めない声で口を開いた。
「以上の証拠により──」
そこで一拍、間が置かれる。
ランプの炎が揺れ、壁に映る影がわずかに伸びた。
誰も動かない。誰も、息をすることさえ忘れている。短い静寂が、粘度のある水飴のように部屋全体を包み込んでいた。
「容疑者はハオラン・ホン」
その一言が落とされた瞬間、応接間の空気が完全に凍りついた。
「……は?」
ルイナの唇から漏れた声は、感情の行き場を失ったまま、ただ乾いた響きだけを残す。
無表情がまるで機能を失ったかのように、彼女の眉間には深い皺が刻まれていた。
隣でハオランが立ち上がる気配がする。椅子の脚が石の床を擦り、耳障りな音を立てた。
「何言ってやがる」
低く抑えた声には、抑えきれない怒りが滲んでいる。武術家として鍛え抜かれた拳が、机の端をきつく握りしめていた。
そしてノアが、両手で机を叩きつける。書類の一部が跳ね、床に散らばった。
「ふざけんな」
その一声が、応接間の静寂を粉々に打ち砕く。
再捜査官だけが、変わらぬ無表情のまま、三人の反応を静かに見つめていた。




