小さな慰め
視察団が去った翌日、ルイナは久しぶりに肩の力を抜いて、詰所の裏手に広がる竹林へと足を向けていた。
青々とした竹が風に揺れ、葉擦れの音がさらさらと辺りを満たしている。
湿った土と青竹の匂いが混じり合う空気を吸い込むと、ここ数日張り詰めていた神経が、ほんの少しだけ緩んでいくのが分かった。
リンナが世話をしている一角に近づくと、数匹の子パンダが日向で戯れる姿が目に飛び込んでくる。
ころころと転がり合い、時折竹の葉に頭から突っ込んでは、また起き上がって同じことを繰り返す。
その拙い仕草に、ルイナの口元がほんの僅かに緩んだ。
「元気にしてるようね」
誰にともなく呟くと、ルイナは近くの切り株に腰を下ろし、しばらくその光景を眺めることにした。
丸みを帯びた黒白の身体が日差しを受けて艶やかに光り、時折上がる甲高い鳴き声が竹林の静けさに小さな彩りを添えている。
忙しない日々の中で、これほど何も考えずに時間を過ごすのは、久しぶりのことだった。
「──ルイナ」
名を呼ばれ、ルイナは振り返った。竹の間から現れたのは、見慣れた大柄な影だった。
「ハオラン?」
「お前もパンダ見に来たのか」
ハオランは軽い足取りで近づいてくると、切り株の傍らに立った。
その視線は、ルイナよりも先に子パンダたちの方へと向けられている。
「ええ、リンナが世話をしているから、人懐っこいわね」
答えながら、ルイナは足元まで転がってきた一匹の子パンダへ視線を落とした。
ふわふわとした毛並みの生き物は、警戒する素振りも見せず、のそのそとルイナの膝元まで近寄ってくる。
両手でそっと抱き上げると、思いのほかずしりとした重みと、日向の匂いが染み付いた温もりが腕の中に伝わってきた。
ハオランは何も言わず、ルイナの隣に立ったまま、しばらくその横顔を見つめていた。
子パンダを抱いたルイナの表情には、いつもの凛とした空気とは違う、どこか儚げな翳りが差していた。
膝の上でじっとしている生き物の温もりを確かめるように指先を動かしながらも、視線はどこか遠くを見ているようで、目の前の光景を本当には映していない。
その様子を見逃さず、ハオランは静かに口を開いた。
「心配か?」
不意の問いに、ルイナは我に返ったように瞬きを繰り返した。
「え?」
「親父さんのこと」
短い一言だったが、その的中ぶりに、ルイナは思わず言葉に詰まった。
「……そうね」
正直に認めるほかなかった。晩餐会の夜からずっと、あの一言が頭の片隅から離れずにいる。
執務を減らしている──ヴァレリウスが軽い調子で口にしたその言葉の断片が、意識の隙間を縫うようにして、幾度となく蘇ってくるのだ。
「何かあったなら便りがくるだろ。何もないってことは、ただの風邪なんだろ」
ハオランは慰めるようにそう言ったが、ルイナは膝の上の子パンダの背をそっと撫でながら、小さく首を振った。
「だといいけど……父上は何も言わないのよね」
「お前もそうだよな」
その一言に、ルイナは思わず口を噤んだ。
図星だった。
娘として父から弱音や不調を打ち明けられた記憶など、これまで一度もない。
それと同時に、自分自身もまた、王都や辺境での苦労と左遷の悔しさを、父にも夫にも、誰にも進んで語ろうとはしてこなかった──その事実に、今更ながら気づかされる。
沈黙が竹林の葉擦れに溶けていく中、ハオランがふいにルイナの背後へと回り込んだ。
次の瞬間、大きな腕がすっぽりとルイナを包み込む。
「ハオラン……?」
戸惑いの滲む声に、ハオランは腕を解くことなく、耳元近くで低く続けた。
「こんな時にこんなこと言うのもなんだけど……あの男はなんでも知ってたよな。ルイナのこと」
その名を出されただけで、ルイナの胸の奥にじわりと不快感が広がった。
「気味が悪いほどにね。なんで私のことあんなに知ってるのかしら」
「王都にいた頃は、どうだったんだ?」
「たまに話す程度よ。あなたみたいに助けた訳じゃないし……執着されるようなことは何もしてない」
「一目惚れ、とか?」
「知らないわ。興味もない」
素っ気ない口調に、ハオランの唇の端がわずかに持ち上がった。だが、その笑みはすぐに苦々しいものへと変わる。
「……あいつ、本当になんでも知ってたな。好きな食い物や花まで。正直、イラっとした」
「相手にするだけ無駄よ」
「わかってるけど……」
言葉尻とは裏腹に、背中に回された腕の力が、じわりと強まった。
抱きしめる腕の熱と、その奥に滲む苛立ちの気配に、ルイナは思わず小さく笑みをこぼす。
「嫉妬なんて、可愛い人ね」
「いちいち可愛いとか言うなっての!」
裏返った声で反論するハオランに、ルイナはとうとう堪えきれず、口元を押さえて笑った。
「ふふっ」
「ったく……こんなデカい男のどこが可愛いんだか。本当、変な女だぜ」
「可愛いに大きさは関係ないわ。そんなことを言ったら、私も背は高い方よ」
「俺より小さいだろ。だから可愛いんだよ」
「可愛げない女と言われ続けた私を可愛いだなんて、貴方もなかなかよ」
「そいつらは見る目がなかっただけだ。お前の魅力は、俺だけが知ってればいーのっ!」
自分で言い放った言葉の熱量に、ハオラン自身が耐えきれなくなったのか、その額がルイナの肩へとぽすんと預けられた。
耳まで赤くなっているであろうその様子を、ルイナは振り返らずとも、背中に伝わる体温だけで容易に想像できた。
「私も、あなたにだけわかっててほしい」
ぽつりと落ちたその一言に、ハオランが弾かれたように顔を上げる。
「ルイナ……?」
「それなのに、心底興味ない男に纏わりつかれた挙句、過去のことまで調べられて不愉快だわ。エルシオンに関しては感謝しているけど」
淡々とした口調に戻ったルイナに、ハオランは苦笑を漏らした。
「割と容赦ねーなお前」
「あなたなら、私の気持ちわかるでしょう?」
その問いかけに、ハオランの表情がわずかに翳った。
「まあ、な……」
何度も何度も、纏わりつかれた過去がある。
無理だ、やめてくれと繰り返し告げても、決して聞き入れられることはなかった日々。
果てには、ハオランに近づこうとする女性を痛い目に遭わせ、二度と関わらせないようにする──あの頃の粘つくような視線と、逃げ場のない息苦しさを、ハオランは今でもはっきりと覚えている。
竹の葉が風にさらさらと鳴り、日差しがふたりの影を長く伸ばしていた。
膝の上の子パンダが、あくびをひとつして丸くなる。その無邪気な仕草が、張り詰めていた空気を僅かに和らげた。
「お互い、苦労するな……」
ハオランが呟くように漏らした一言に、ルイナは小さく頷いた。
「本当にね……」
その声には、諦めにも似た軽い笑いが混じっていた。
同じ痛みを知る者同士だからこそ通じ合える、言葉にならない慰めが、抱き合う体温を通してゆっくりと満ちていく。
竹林を渡る風だけが、そんな二人を静かに見守っていた。




