晩餐会の夜 最後の一手
視察最終日の晩は、辺境の詰所には不釣り合いなほどの華やかさに包まれていた。
大広間には長机が並べられ、白い布の上に辺境の特産である鹿肉や、シャオ商会が届けた海の幸が所狭しと並んでいる。
灯された燭台の炎が、磨き上げられた食器の縁をちらちらと照らし、視察団を迎える最後の晩餐会にふさわしい賑わいを演出していた。
明日の朝には、この一行も王都へと発つ。長かった視察も、ようやく終わりが見えていた。
ルイナは団長として上座近くに立ち、次々と挨拶に訪れる視察団の面々に儀礼的な会釈を返していた。
表向きの穏やかさの裏で、意識の大半は一人の男の動向に注がれている。
案の定、しばらくして人波を縫うようにヴァレリウスが近づいてきた。
「今宵は一段と、お美しい」
グラスを片手に、ヴァレリウスは芝居がかった仕草で軽く一礼した。
燭台の炎を受けた金の髪が、いつもより一層優雅に輝いて見える。
ルイナは表情を変えず、儀礼の範囲でだけ頷いた。
「お褒めいただき、恐縮です」
「明日には王都へ戻らねばなりません。この地を離れるのが、これほど惜しいとは思いませんでした」
そう言いながら、ヴァレリウスは自然な仕草でルイナの手を取ろうとした。
指先が触れる寸前、その動きを遮るように、横合いから大きな手が割り込んだ。
「──失礼、閣下」
低く落ち着いた声とともに、ハオランがルイナの隣に立ちはだかった。
組んだ腕は解かれておらず、視線はまっすぐヴァレリウスへと向けられている。
決して声を荒げてはいないが、その立ち姿には有無を言わせぬ圧があった。
ヴァレリウスは取ろうとした手を引っ込め、興味深そうにハオランを見上げる。
「妻に触れるのは、控えてくれないか」
短い一言だったが、その裏に滲む警告は明確だった。
ヴァレリウスはわずかに眉を上げ、それから困ったように笑みを浮かべる。
「これは失礼を。つい、旧知の気安さで」
「──旧知、ね」
ハオランの声に、微かな棘が混じった。
ヴァレリウスはその反応を面白がるように目を細めると、話題を逸らすようにさりげなく視線を巡らせた。
「ところで、ホン殿。貴殿は騎士団の者ではないと伺っておりますが、こうした場に参加されるのは些か奇異に映ります。今宵は騎士団と視察団のための晩餐会のはずですが」
やんわりとした口調ではあったが、その問いには明確な棘があった。
場に立つ資格を暗に問う──そういう類の意地の悪さが、笑顔の下に透けて見える。
ハオランが口を開くより先に、ルイナが静かに割って入った。
「彼は騎士団の兵士たちに、武術の訓練をつけてくれているの。実質的には、団に欠かせない協力者よ」
淀みない返答だった。事実、ここ最近の演習でも、ハオランの実戦的な指導が団員たちの動きを見違えるほど引き締めていた。
ヴァレリウスはその説明を受け、納得したように小さく頷く。
「なるほど、それは失礼しました」
言葉こそ丁寧だったが、グラスを持つ指先にわずかに力がこもったのを、ルイナは見逃さなかった。
表向きの笑みの下で、思い通りにいかなかった苛立ちが、静かに渦を巻いているのが分かる。
それでもヴァレリウスは何事もなかったかのように話題を変え、当たり障りのない会話へと戻していった。
晩餐が進むにつれ、広間の喧騒は次第に和やかなものへと変わっていった。
視察団の従者たちと騎士団員たちが酒を酌み交わし、笑い声があちこちで上がる。
ノアは相変わらずの飄々とした態度で人々の間を渡り歩いていたが、その目だけは油断なく周囲を見渡していた。
演習の情報が漏れていた一件以来、彼は視察団の関係者一人一人の言動を注意深く観察し続けている。
しかし、これといった尻尾は最後まで掴めそうになかった。
誰もが、あまりにも自然に振る舞っている。
兵士たちは酒を酌み交わしながら、グレゴールやジンロンの武勇伝に花を咲かせていた。
その一団を横目に、ルイナは束の間の休息を得ていた。
長机の端で杯を傾けながら、ようやく肩の力を抜きかけたその時だった。
「そういえば、ランカスター卿ですが」
再び近づいてきたヴァレリウスが、思い出したかのような軽い口調でそう切り出した。ルイナは手にした杯を持ったまま、視線だけを相手へ向ける。
「ランカスター卿は、少し無理をなさっているようですね」
その一言に、ルイナの手の中で杯がわずかに揺れた。
驚きが、遅れて胸の奥から湧き上がってくる。父からそのような知らせは一切届いていない。
そもそも、王都の近況を知る手立て自体が限られている今のルイナにとって、父の様子を耳にする機会など、ほとんどないはずだった。
何より、あの父が──規律と体面を重んじ、娘に弱みを見せることを何よりも嫌うグレゴールが、体調のことなど自ら知らせて寄越すはずがない。
だからこそ、この情報自体がルイナにとっては初耳であり、同時に、なぜこの男がそれを知っているのかという新たな疑問を呼び起こした。
「父上が?」
声は努めて平静を装ったが、僅かな震えまでは抑えきれなかったかもしれない。
ヴァレリウスは変わらぬ笑みのまま、軽く言葉を継いだ。
「ええ。最近は執務を減らしておられるとか」
具体的なことは何一つ語らない。
病名も、原因も、深刻さの度合いも、すべてが曖昧なまま宙に浮いている。
それでいて、確かに何かがあったのだと思わせるには十分な言い回しだった。
嘘ではない、けれど核心には決して触れない──そういう匙加減に長けた男なのだと、ルイナは改めて思い知らされる。
(何故、それを知っているの)
問い詰めたい衝動が喉元まで込み上げたが、それを口にしたところで、この男が本当のことを話すとは思えなかった。
杯の中の酒を見つめながら、ルイナはその違和感を、ひとまず胸の奥深くに沈めるほかなかった。
翌朝、視察団の馬車が列を成して門を出ていく光景を、ルイナはハオランと共に見送っていた。
朝靄の中を進む馬車の隊列は、来た時と同じように整然としていた。
最後尾の馬車の窓から、ヴァレリウスがこちらへ向けて軽く一礼する仕草が見える。
ルイナは儀礼として頭を下げ返したが、その馬車が完全に見えなくなるまで、視線を外すことはしなかった。
門の閉まる重い音が響き渡ると、ようやく詰所全体に、張り詰めていた空気が緩んでいくのが分かった。
「嫌な男だったな」
隣に立つハオランが、腕を組んだままぼそりと呟いた。感情の多くを削ぎ落とした、短い一言だった。
それでいて、この数日間の澱のようなものが、その一言に凝縮されているようにも聞こえる。
「まったくだよ」
近づいてきたノアが、後頭部を掻きながら大きく息を吐いた。
「結局、尻尾は掴めなかったな。演習の件も、他の細かい情報も、どこから漏れてたのか、最後まで分からずじまいだ」
悔しさの滲む声だった。
副団長として団の情報を守る立場でありながら、その穴の在り処を突き止められなかったことが、彼の矜持を静かに苛んでいるのだろう。
ルイナは静かに首を振った。
「あれだけ用意周到な相手よ。一朝一夕で尻尾を出すとは、最初から思っていなかったわ」
門の外に広がる朝靄を見つめながら、ルイナは胸の奥で今回の視察を静かに振り返っていた。
……不気味だった。
得体の知れない執着も、異様なほどの情報網も、間違いなく薄気味悪いものだった。
それでも──実害と呼べるようなものは、結局何も起きなかった。
彼女はそう自分に言い聞かせるように結論づけると、詰めていた息をひとつ吐き、踵を返した。
朝の陽射しが、開け放たれた門の向こうから差し込んでくる。
何事もなく終わった、その事実にひとまずの安堵を覚えながらも、ルイナの脳裏には、父の体調の一件だけが小さな棘のように残り続けていた。




