牙を隠す男
午後の光が馬房の隙間から斜めに差し込み、藁の匂いと土埃を淡く照らし出していた。
ルイナは袖を軽くまくり上げ、いつものように黙々と馬房の掃除に手を動かしていた。
柄の長い箒で床を掃く音、藁を束ねて運ぶ音──単調な作業の繰り返しは、思考を鎮めるにはちょうどよい。
エルシオンの世話だけは、どれほど公務が立て込んでいても他人に任せることをしなかった。
この黒鹿毛の相棒との時間だけは、誰にも譲りたくない領域だ。
その静けさを破るように、足音が近づいてきた。
軽くて、妙に間隔の正しい歩調。
振り返るより先に、隣に繋がれていたエルシオンが低く鼻を鳴らし、前足で地面を強く踏み鳴らした。
耳が後ろへ倒れ、瞳の奥に鋭い威嚇の色が灯る。
長年この馬と共にあったルイナには、その仕草の意味がすぐに分かった──近づくな、という明確な警告だった。
「相変わらずの暴れ馬みたいですね」
声の主は、案の定ヴァレリウスだった。
馬房の入り口に立ち、崩れることのない笑みを湛えている。従者も護衛も連れず、たった一人でここまで足を運んできたらしい。
その事実だけでも、ルイナの警戒心は静かに引き締まった。
箒を握る手を止め、ルイナは短く相手へ視線をやる。
「ええ……そうですね」
必要以上の言葉は返さない。それが、この男に対する最も安全な距離の取り方だと、これまでの数日間で嫌というほど学んでいた。
ヴァレリウスはそんな素っ気なさすら楽しんでいるかのように、口元の笑みを深めた。
「本当に処分されなくてよかったですね。貴女の大事な相棒でしょう」
その一言に、ルイナの喉の奥が微かに詰まった。
処分、という単語が持つ意味を、この男が知っているはずがない──そう思いたかったが、この男に限ってそんな都合の良い期待は通用しないと、これまでの経験がすでに教えている。
ルイナは箒を壁に立てかけ、居住まいを正した。
「その件は……本当にありがとうございました」
声に滲んだのは、素直な礼だった。
同時に、その礼を口にすること自体への、拭いきれない苦さも混じっている。
ルイナが王都を去った後、残されたエルシオンは誰の言うことも聞かなかった。
厩務員が近づけば威嚇し、無理に手綱を取ろうとした騎士は蹴り飛ばされ、まともに世話をすることすら叶わなくなっていったという。
手に負えない軍馬をいつまでも遊ばせておくほど、王都騎士団の懐は寛容ではない。
やがて上層部の間で、処分──つまりは売却、繁殖用、荷馬転用として処理するという話が現実味を帯びて浮上した。
それを聞きつけたのが、ヴァレリウスだった。
彼は私財を投じ、船を手配し、陸路よりも遥かに早い海路を使ってエルシオンを辺境まで急がせた。
処分の決定が正式に下される前に、間一髪で連れ出したのだという。
その顛末を、ルイナは後になって騎士団関係者から伝え聞いていた。
理由も、目的も分からぬまま。
ただ結果として、大切な相棒が今こうして自分の隣にいることだけは、紛れもない事実だった。
「あと少し遅ければ、エルシオンは処分されていた。間に合ってよかったですよ、本当に」
ヴァレリウスは笑みを崩さぬまま、まるで世間話でもするような気安さでそう言った。
その軽さが、かえってルイナの神経を逆撫でする。
「気高い団長に、気高い馬……とても、お似合いだ」
その言葉と共に、ヴァレリウスの目がスッと細められた。
笑みの形はそのままなのに、瞳の奥にある光の質だけが、明らかに変わる。
獲物を値踏みするような、粘り気を帯びた視線だった。
ルイナは背筋にひやりとしたものを感じながらも、表情を微塵も動かさずにその視線を受け止める。
「私が思うに──エルシオンは待っていたんだろう」
「……待っていた?」
「自分を乗りこなせる、気高い人物を、だ」
ヴァレリウスはそう言うと、視線をエルシオンへと移した。
馬房の柵越しに見つめられたエルシオンは、耳を伏せたまま一歩も動かない。
まるでその視線の圧に応えるかのように、鼻先から荒い息を吐き出した。
「貴女以外の人間が彼に乗っているのを、私は見たことがない。当然だ。彼は貴女しか乗せていない。乗せる相手を選んでいる。まるで──中に人間が入っているかのようだ」
その言葉が終わるより早く、エルシオンが前足で二度、地面を強く叩いた。いつでも後ろ足を跳ね上げられるよう、重心をわずかに落とした姿勢。
長年の付き合いで、その気配がどれほど剣呑なものか、ルイナには手に取るように分かった。
「何が言いたいのですか」
声に、僅かながら苛立ちが滲んだ。
回りくどい物言いを続けるこの男の真意が、まるで見えてこない。
ヴァレリウスはその苛立ちすら愉しむように、にっこりと笑みを深めるだけだった。
「エルシオンは、とても賢いということですよ……それにしても、意外でした」
話題を変えるように、ヴァレリウスがふと呟いた。ルイナは警戒を緩めぬまま、短く問い返す。
「……何がでしょうか」
「左遷先に、エルシオンを連れて行かなかったんですね」
その一言に、ルイナの胸の奥がちくりと痛んだ。当時のことを思い出さぬ日はなかったが、それを他人の口から蒸し返されるのは、また別の種類の痛みを伴う。
「エルシオンは騎士団の馬です。私が勝手に連れて行くなんて、できません」
「それでも、グラハム団長に相談すれば、譲ってくれたんじゃないか? 元々エルシオンは貴女しか乗せなかったし、言うことを聞かない暴れ馬で手がつけられない。向こうからしたら、貴女もろとも消えてくれるなら、一石二鳥だったでしょう」
淡々と、しかし的確に急所を突いてくる。ルイナはしばし沈黙し、それから静かに目を伏せた。
「ええ、そうでしょうね」
言葉は認めていたが、その声色にはどこか諦観にも似た響きが混じっていた。
まくり上げた袖の先で、指先が僅かに固く握られる。
「左遷された私が、騎士団の財産を譲ってほしいと願い出るなんて──厚かましいにも程があるわ」
「……残されたエルシオンが、その後どうなるか考えなかったのかい?」
「考えなかった訳じゃないけど……どうしようもないわ。エルシオンは騎士団の軍馬よ。私が口を出すことではないわ」
その口調は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
当時の自分に選べる道など、本当になかったのか──今になって蒸し返されると、その問いが胸の奥で鈍い疼きとなって蘇る。
ルイナは唇を薄く結び、それ以上の言葉を呑み込んだ。
ヴァレリウスは、その反応をじっと観察していた。獲物の急所を見つけた猟師のような、静かな満足の色が瞳の奥に揺れる。
「『頼めば譲ってくれる』と『自分から頼む』は、別問題ということか」
言い当てられた図星に、ルイナは何も返せなかった。
その沈黙を埋めるように、ヴァレリウスが一歩、ルイナの方へと踏み出した。
途端に、エルシオンの後ろ足が唸りを上げて飛んだ。
空気を切り裂く鋭い音に、ヴァレリウスは慌てず優雅に半歩下がり、蹄の届かぬ位置で難なく躱してみせる。
最初からこの反応を見越していたのか、その身のこなしにはまるで焦りが見えなかった。
「主人と再会できたのは、私のおかげだというのにね」
軽い口調でそう漏らすヴァレリウスに、ルイナは冷めた目を向けた。
「馬はそんなこと、わかりませんよ」
そう言いながら、ルイナはエルシオンの首筋にそっと手を這わせた。
緊張で強張っていた筋肉が、飼い主の掌の温もりを受けて、少しずつ緩んでいくのが分かる。
低く囁くような声で二言三言なだめると、エルシオンの荒い鼻息も次第に収まっていった。
その一連の仕草を、ヴァレリウスは黙って眺めていた。
「まあ、いいさ。エルシオンの無事を確認できたのでね。今日はこの辺で帰るとしよう」
そう言って踵を返しかけたヴァレリウスの足が、扉の手前でふと止まった。
振り返った横顔に、これまでとは違う、どこか静かな翳りが差している。
「不思議なものですね。王都にいた頃、貴女に一番長く触れていた男は誰かと、考えたことがあります」
唐突な問いかけに、ルイナは眉をひそめた。答えを求められているとは思えない、独り言に近い響きがその声にはあった。
「結果は騎士でも、貴族でもなく──この馬でした」
視線がエルシオンへと流れ、それからまたルイナへと戻ってくる。
笑みは崩れていないというのに、その目の奥に宿る光だけが、明らかに温度を失っていた。
「少し、嫉妬したものですよ」
「……意味が分からないわ」
ルイナは短く切り捨てるようにそう答えたが、内心では拭いきれない気味の悪さが胸の底に澱のように溜まっていくのを感じていた。
馬を相手に嫉妬するという発想そのものが、常人の理解の埒外にある。
この男の執着の根がどれほど深く、どれほど歪んだ形をしているのか──その一端を、今初めて直接覗き見た気がした。
ヴァレリウスは意味ありげに口角を持ち上げると、それ以上は何も言わず、今度こそ背を向けて去っていった。
足音が扉の向こうへと消えていく。
ルイナはしばらくその場に立ち尽くしたまま、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。強張っていた肩から、目に見えて力が抜けていく。
ようやく一人になれた──そんな安堵が、こわばった身体の隅々にまで染み渡っていくようだ。
──その安堵は長くは続かなかった。
エルシオンが、入口へ向かって低く鼻を鳴らした。
姿はもう見えないはずなのに、その黒い瞳は扉の向こうを見据えたまま動かない。
耳は依然として後ろへ倒れ、警戒の色を解いてはいなかった。
まるで、あの男がいつか戻ってくることを、身体の奥底で予感しているかのようだった。
「今日は随分と機嫌が悪いのね」
ルイナは苦笑混じりにそう呟き、いつものように首筋を撫でてやる。
しかしエルシオンは、その手の温もりを受けてもなお、視線を入口から離そうとはしなかった。
何かを嗅ぎ分けているような、あるいは何かを聞き取ろうとしているような、張り詰めた気配がその佇まいから拭えない。
言葉を持たぬ獣が、時に人よりも遥かに鋭く危うさを嗅ぎ取ることを、ルイナは長年の付き合いの中で幾度となく思い知らされてきた。
今、この馬が示している落ち着かなさは、単なる気まぐれでは片付けられない何かを孕んでいるのかもしれない──そう思いながらも、ルイナはその予感の正体を、まだ言葉にすることができずにいた。




