演習の日 見えざる目
拉致の一件から数日が経ち、辺境騎士団の詰所には、以前とは違う緊張感が漂い始めていた。
朝の点呼を終えたばかりの広場で、ノアは報告書の束を小脇に抱えたまま、いつになく神妙な顔でルイナの前に立っていた。
褐色の肌に朝陽が差し、垂れ目がちの瞳がいつもの気だるさを僅かに潜め、鋭さを帯びている。
「なあルイナ、この際だから言っとくけどよ。拉致の件、正直言って警備体制がザルだった。次に同じ手を使われたら、今度こそ間に合わねえかもしれねえ」
言葉こそ軽い口調だったが、その奥には本気の色が滲んでいた。
副団長として日々の見回りや配置を差配してきた立場だからこそ、あの一件で露呈した穴の大きさを、誰よりも重く受け止めているのだろう。
ルイナは書類を捲る手を止め、静かに視線を上げた。
「提案があるのね」
「ああ。演習をやろう。実戦形式でな。配置の見直しと、あわよくば団員の実力も洗い出せる。一石二鳥だろ」
その言葉に、ルイナは短く頷いた。異論はなかった。
むしろ、こういう時こそ動くべきだという判断は、指揮官としての直感が即座に肯定している。
窓の外に広がる演習場へ視線を移すと、朝の乾いた風が土埃を薄く巻き上げていた。
「いいわ。今日の午後、全員を集めて」
午後の陽射しが演習場の土を白く照らす頃、辺境騎士団の面々は緊張した面持ちで整列していた。
実戦形式の演習──それも団長自らが指揮を執るとなれば、誰もが気を抜けるはずもない。
古参兵のアンダルでさえ、腕を組んだまま珍しく口数少なく立っている。
ノアが全体の流れを説明し終えると、広場の空気はぴりりと張り詰めた。
「じゃ、まずは団長との模擬戦から始めるぞ。多対一、実戦を想定して本気で来い。手加減した奴は後で覚えとけよ」
ノアの号令に合わせ、選抜された五名の団員が武器を構えて円を作った。
剣を持つ者、槍を持つ者、それぞれの得物を握る指先には、緊張のあまり薄く汗が滲んでいる。
対するルイナは、いつもの鞭を片手に、円の中央でただ静かに佇んでいた。
構えというほどの構えすらなく、力の抜けた自然体──それがかえって、周囲の緊張を煽る。
「──始め」
ノアの合図と同時に、最初の一人が地を蹴った。
踏み込みの速さは並の兵士のそれではない。
その剣先がルイナへ届くことはなかった。
革の鞭が空気を裂く音とともに、しなやかな軌跡が男の足首に絡みつく。
強く引かれた瞬間、男の体勢は無様に崩れ、地面へと叩きつけられた。
息を整える間もなく、次の攻撃が左右から同時に放たれる。
ルイナの動きに無駄はなかった。
半身を捻るだけで槍の穂先をかわし、返す動作で鞭を横に薙ぐ。
革の音と共に二人目の膝裏が刈られ、体勢を崩したところへ追撃はない。
必要以上の痛みを与えず、確実に戦闘不能へと追い込む──その徹底ぶりに、見守る団員たちの間からどよめきが漏れた。
残る三人が同時に距離を詰めるが、その判断こそが罠だった。
三方から挟撃されたはずのルイナの姿が、次の瞬間には円の外側へと滑るように抜けている。
目で追いきれるかどうかという速度で、鞭の先端が三人の得物を次々と弾き飛ばした。
金属音が三度連続して響き渡り、それを最後に、演習場には奇妙な静寂が落ちる。
誰も彼女に触れることすらできなかった。
「──以上」
ルイナは短くそう告げると、鞭を巻き取りながら息ひとつ乱さず元の場所へ戻った。
汗ひとつ滲んでいない横顔には、達成感も高揚もない。
ただ、当然のことをこなしたという淡白な表情があるだけだった。
地面に転がった団員たちが呻きながら身を起こす中、見物していた若手の一人が、隣の同僚へ小さく囁いた。
「……団長って、こんなに強かったのか」
「馬鹿、お前知らなかったのかよ。王都騎士団時代の団長は、伝説みたいに語られてたって話だぞ」
その囁きは、ルイナの耳にも届いていたはずなのだが、彼女は表情ひとつ動かさず、鞭を腰の帯に戻すと、次の組の準備を促すようにノアへ視線を送った。
日々の書類仕事や騎士団の運営に忙殺されるあまり、団員たちの記憶からすら薄れかけていた「戦う団長」の姿が、この日、改めて焼き付けられた瞬間だった。
離れた場所から見守っていたアンダルが、感嘆混じりに呟いた。
「相変わらず、化け物じみてますね……」
演習が滞りなく終わり、団員たちが装備の手入れに散っていく頃、ノアが人払いをした執務室の中で、ルイナと向かい合っていた。
手にした報告書には、演習の結果と、洗い出された配置の不備が細かく記されている。
「今日の演習、記録上は非公開扱いだったよな」
ノアの声に、ふと真剣みが増した。ルイナは書類から顔を上げ、小さく頷く。
「ええ。時間も場所も、団内でしか共有していないはず」
「だよな。なのに──さっき視察団の従者の一人と話す機会があったんだが、そいつがさらっと言ったんだよ。今日の午後、団長が模擬戦をやってたんでしょう、ってな」
その一言だけなら、まだ偶然で片付けられたかもしれない。
演習場は屋外にある。
団員の家族が遠目に見物することもあれば、通り沿いの住民や、視察団が街道を移動する道すがら偶然目にすることだって、あり得ない話ではなかった。
ルイナは内心でそう自分に言い聞かせながら、ノアの続きを待った。
「それだけならまだ良かったんだが……そいつ、団長が五人相手にして無傷だったことまで知ってやがった。しかも、最初に足首を取られたのが誰だったかまで、な」
その一言に、ルイナの指先が書類の端で止まった。
乾いた紙の感触が、やけに冷たく感じられる。
演習場が屋外であることを差し引いても、遠目に眺めただけの見物人が、誰の足首が最初に刈られたかという細部まで把握できるはずがない。
何合打ち合ったか、誰が最初に崩れたか──そこまでの精度で語れるのは、双眼鏡か何かを使い、始まりから終わりまでつぶさに観察していた者だけだ。
単に「演習があった」という事実が漏れたのではない。
演習の中身そのものが、逐一見られていた。
「どういう経緯で聞いたのか、探れる?」
「もう探ってる。だが、あの従者、笑って誤魔化すばかりで尻尾を出さねえ。まるで最初から口が堅くなるよう躾けられてるみたいだ」
ノアは苦い顔で頭を掻いた。
飄々とした普段の態度からは想像しづらい、真剣な眉間の皺がそこにはある。
ルイナは椅子の背にわずかに体重を預け、窓の外へと視線を投げた。
演習場の方角には、まだ土埃の名残がうっすらと漂っている。
(見られている)
その実感が、腹の底にゆっくりと沈んでいく。
演習の日程も、内容も、団内の限られた者しか知り得ないはずの情報が、外部──それもよりにもよってヴァレリウスの陣営に流れている。
誰かが見ている。あるいは、誰かに見させている。
監視の網は、想像していたよりもずっと近くまで、この辺境の地に忍び込んでいるのかもしれなかった。
「団の中に、内通者がいるかもしれない。あるいは──」
「あるいは、外から普通に見張られてる、か」
ノアが引き継ぐように言葉を継いだ。どちらであっても、答えは等しく不気味だった。
演習場を囲む林の奥、あるいは遠く離れた丘の上──どこか見えない場所から、双眼鏡越しにこちらの一挙手一投足を記録している誰かの姿を、ルイナは想像せずにはいられなかった。
夕暮れの光が執務室に長い影を落とし始める中、二人の間に沈黙が落ちる。
それは、この辺境の地に張り巡らされ始めた見えない糸の存在を、互いに実感し始めた者だけが持つ、重たい静けさだった。




