ジンロンの帰還
他国の要人を護衛する任から、ジンロンが戻ってきたのは翌日の昼のことだった。
長旅の埃をまとったまま、それでも足取りには疲労の欠片も見えない。
門をくぐるなり、その巨躯から放たれる存在感だけで、周囲の空気がわずかに引き締まるのが分かる。
ルイナは知らせを聞いてすぐに屋敷の玄関先まで迎えに出たが、事の顛末をどこから切り出すべきか、道中ずっと考えあぐねていた。
ジンロンは大股で歩み寄ると、ルイナの顔をひと目見ただけで、何かを察したように片眉を上げた。
長年の武人としての勘は、伊達ではないらしい。
「まさかワシがいない間に、そんなことがあったとは……」
低く唸るような声だった。すでに屋敷の者から概要を聞いていたのか、その口ぶりには驚きよりも呆れに近いものが滲んでいる。
ルイナは一瞬だけ視線を伏せ、それから居住まいを正して口を開いた。
「義父上に知らせようかと迷ったのですが……心配をかけたくなくて。すみません」
声には、珍しく詫びの色が濃く滲んでいた。
任地を離れているジンロンの耳に、火急の知らせを飛ばすべきかどうか、ルイナ自身も何度も逡巡していたのだ。
要人護衛という大役の最中に、余計な不安を抱えさせるわけにはいかない──そう判断した結果だったが、こうして本人を目の前にすると、その判断が果たして正しかったのか、急に自信が持てなくなる。
ジンロンは太い腕を組み、しばし黙ってルイナを見下ろしていた。やがて、その厳めしい顔がふっと緩む。
「いいんじゃよ。ハオランも少しは役に立ったみたいで、安心したわい」
言葉とは裏腹に、その声には確かな温かさが滲んでいた。息子の成長を喜ぶ父親の顔が、一瞬だけ武人の顔の下から覗く。
ルイナはその変化に、胸の奥がわずかに緩むのを感じた。
しかし、詫びるべきことはまだ残っている。
「リンナも巻き込んでしまい……本当に、どうお詫びすればよいか」
「ルイナ殿が気にすることでもなかろう」
ジンロンは即座にそう返し、豪快に鼻を鳴らした。
「今度こそ、メイファはもう二度とカルディアには戻って来ないじゃろうしな」
その一言には、どこか満足げな響きがあった。
可愛い盛りの実の娘を危険に晒した相手への怒りは当然あるはずなのに、事がすでに決着した以上、それを引きずるよりも前を向く方を選ぶ──そういう男なのだと、ルイナは改めて思い知らされる。
厳しさと豪快さが同居するその在り方は、どこか夫であるハオランとも重なって見えた。
一通りの報告が済み、二人の間に短い沈黙が落ちた頃、ルイナは意を決したように口を開いた。
「その……言いにくいのですが……一難去ってまた一難といいましょうか……」
歯切れの悪い言葉に、ジンロンが眉間に皺を寄せる。
「ん?」
「実は、昨日から王都にいるヴァレリウス・クロイツ侯爵が、視察に来ています」
「ほう……」
ジンロンの声が、わずかに低くなった。武人特有の、獲物の気配を探るような静けさがその瞳の奥に灯る。
ルイナはその変化を見逃さず、言葉を続けた。
「その者は、私のあらゆることを調べ尽くしているようです」
「ルイナ殿とは、どのような関係じゃ」
問いは短く、しかし核心を突いていた。ルイナは一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく息を吐く。
「ただの知人です。……ですが、向こうはどうやら、よからぬ想いを寄せているようで」
「ふむ……」
ジンロンは顎に手をやり、しばし考え込むような沈黙を挟んだ。太い指先が顎髭をゆっくりと撫でる仕草には、これまでの豪快さとは違う、老練な武術家としての思案の色が滲んでいる。
「ならば、無論ホン家についても調べておるじゃろうな」
その一言に、ルイナの胸の奥がひやりとした。
言われてみれば当然のことだった。
ルイナが結婚した事実を知った時点で、王都の情報網を持つ者であれば、その相手の素性を調べ上げないはずがない。
ホン家はカルディアに古くから根を張る武術の名家であり、生半可な調査では底が見えぬ相手だ。
だからこそ逆に、正攻法では通用しないと踏んだヴァレリウスが、何か別の手を打ってくる可能性は十分にあった。
その懸念を裏付けるように、ジンロンが続けた。
「武道一家じゃからな。真正面からの正攻法が通用せんことくらい、あの手の輩ならすぐに見抜くじゃろう。となれば、何かしら搦め手を仕掛けてくるはずじゃ」
言葉の内容自体は不穏だというのに、ジンロンの口調にはさほどの緊張が見当たらなかった。
むしろ、久々に手強い相手が現れたとでも言いたげな、どこか楽しげな気配すら漂っている。
「モテるのも大変じゃな! わーっはっはっは!」
豪快な笑い声が、屋敷の廊下に響き渡った。
ルイナは呆気に取られ、思わず瞬きを繰り返す。
命の危険すら孕みかねない相手の話をしているというのに、この余裕はどこから来るのか──そう思う一方で、その笑い声にどこか救われている自分にも気づいていた。
「何故、彼が私に執着するのかわからないので、尚更不気味なんです」
ルイナは腕を軽く組み、視線を庭先へと逃がしながら呟いた。理由の分からぬ執着ほど、対処のしようがないものはない。
相手の思考の筋道が見えなければ、次にどう動くかを読むこともできない。
その不透明さこそが、ヴァレリウスという男の最も厄介な部分だった。
ジンロンはそんなルイナを、値踏みするようにじっと眺めた。しばしの間があって、やがてその口元がにやりと持ち上がる。
「ルイナ殿はもう少し、自身の魅力に気づいた方がいいと思うぞ」
不意打ちのような一言に、ルイナは思わず視線を戻した。
長く伸ばした桃色の髪は陽光を受けてさらさらと風になびき、赤い瞳はルビーのように濡れた光を宿している。
武術に長け、指揮官としての才覚にも恵まれ、それでいて本人はその美しさを武器として自覚したことがない──その無自覚さこそが、周囲の目にはかえって魅力的に映るのだと、ジンロンは知っていた。
「ハオランがあっさりと結婚を承諾したのも、お主の美しさもあるんじゃろうな」
「そんなことは……」
ルイナは言葉を濁し、わずかに視線を落とした。
政略結婚の始まりを思い返せば、容姿がどれほど関係していたのか、自分自身では判じかねる。
ただ、面と向かってそう言われると、慣れない気恥ずかしさが胸の奥にじわりと広がるのを止められなかった。
「もっとごねるかと思っとったのに、意外にも早くに話がついて驚いたくらいじゃ」
ジンロンはからからと笑いながらそう付け加えた。息子の性格を知り尽くした父親だからこそ言える一言だった。
人に頼るのが苦手で、女性に慣れているとも言い難いハオランが、縁談をあれほどすんなりと受け入れたことに、当時のジンロン自身も内心では驚いていたのだろう。
ルイナは頬にわずかな熱を感じながら、口元を緩めた。
恥ずかしさと、どこかくすぐったいような気恥ずかしさが入り混じった、年頃の娘らしいささやかな笑みだった。
普段の無表情からは想像もつかないその表情に、ジンロンは満足げに目を細める。
「まあ、笑って済ませられるうちが華じゃ。ヴァレリウスとやらの件は、ワシも一枚噛ませてもらうとしよう」
窓の外では、午後の陽射しが庭木の葉を透かし、淡い影を地面に落としていた。
ひとつの不安が形を変えて薄れていく一方で、新たな影が音もなく足元に忍び寄っている──そのことに、ルイナはまだ気づいていなかった。




