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視察団来訪 微笑みの奥

王都から視察団が来るという報せが届いたのは、朝の空気がまだ冷たさを残す時期のことだった。


書状には視察と交易交渉という表向きの目的が並べられていたが、ルイナはその文面を三度読み返しても、行間に滲む何かを拭い去ることができなかった。


紙は上質で、封蝋の紋章は丁寧に押されている。それだけに、余計に胡散臭さが際立って見えた。


「クロイツ侯爵家、ね」


執務室で書状を机に置きながら、ルイナは低く呟いた。指先が紙の端をわずかに撫で、そのまま止まる。


王都騎士団にいた頃、社交の場で幾度か顔を合わせたことのある相手だ。……とはいえ、親しく言葉を交わした記憶はほとんどない。


儀礼的な挨拶を交わし、当たり障りのない会話をした程度の、遠い知人という位置づけでしかなかった。


窓の外では、辺境の乾いた風が旗を揺らしていた。


視察団を迎えるための準備が、朝から騎士団の面々によって進められている。


誰もが表向きは平静を装っていたが、ルイナには彼らの肩の強張りが手に取るように分かった。


王都から来る者たちに対する緊張は、辺境に赴任した誰もが多かれ少なかれ抱えているものだ。


(知人程度の相手なら、身構える必要もない)


そう自分に言い聞かせながらも、記憶の底で何かが微かに引っかかっていた。


当時の彼が向けてきた視線の粘つくような感触──言葉にできぬ違和感を、ルイナは長らく気にも留めずにいたことを、今になって思い出していた。





視察団の馬車が門をくぐったのは、正午を少し過ぎた頃だった。


先頭の馬車から降り立った男を見た瞬間、ルイナの記憶が一気に像を結ぶ。


柔らかな金の髪が陽光を弾き、仕立ての良い衣装は皺ひとつない。


整った顔立ちに浮かぶ笑みは、絵に描いたように完璧で、それゆえにどこか作り物めいて見えた。


当時と変わらぬ、いや、当時よりも一層磨きのかかった笑みだった。


「お久しぶりです、ルイナ団長。まさかこの地でお会いできるとは、思ってもみませんでした」


男は胸に手を当て、優雅に一礼した。声には棘がなく、むしろ耳に心地よいほど滑らかだ。


しかし、その滑らかさこそがルイナの警戒心を逆撫でした。


久しぶりの再会だというのに、彼の口ぶりにはまるで昨日別れたばかりのような親密さが滲んでいる。


人は本来、これほど時を隔てた知人に対して淀みなく振る舞えるものではない。


ルイナは表情を変えぬまま、儀礼の礼を返す。


「お久しぶりです、閣下。よくこの地へお越しくださいました」


声音は平坦で、感情の起伏を欠片も滲ませないが、胸の奥では、視線をそらさぬまま男の一挙手一投足を観察し続けていた。


笑みの角度、瞬きの間隔、指先の動き──そのどれもが計算されているように思えてならなかった。


長年の騎士としての勘が、この男は何かを隠していると告げている。


隣に立つハオランは、まだ状況を測りかねているようだった。

腕を組み、視察団の一行を見渡す横顔には、警戒というよりも単純な戸惑いが浮かんでいる。


彼にとってヴァレリウスは今日が初対面であり、王都時代の噂を知っているわけでもない。


それでも、剣呑な気配だけは肌で感じ取っているのか、ヴァレリウスとルイナの間に立つように、半歩だけ身体をずらしていた。


「団長のご夫君ですね。お噂はかねがね」


ヴァレリウスが視線をハオランへ流す。


その一瞬、笑みの奥に何か冷たいものが過ぎった気がしたが、それはあまりに一瞬のことで、ルイナ自身も見間違いだったのかと疑うほどだった。





応接の間に通されてからも、ヴァレリウスの笑みは崩れなかった。


茶が運ばれ、儀礼的な会話が交わされる。


辺境の気候について、道中の街道の状態について、当たり障りのない話題が続いた。


ルイナは相槌を打ちながらも、警戒を緩めることはなかった。


手元の茶器を持ち上げる仕草すら、無防備に見せぬよう最小限に留める。


会話がふとした拍子に方向を変えた瞬間、ルイナの背筋に冷たいものが走った。


「団長は蜂蜜漬けの林檎がお好きでしたね。酸味を抑えた、少し柔らかめの林檎を選ばれるとか。相変わらずですか」


その一言に、部屋の空気がわずかに凝った気がした。


ルイナは瞬きひとつせず、内心だけで大きく揺れる。


蜂蜜漬けの林檎は、王都にいた頃、忙しさに追われる合間に厨房でこっそり摘まんでいた慰めのような一品だ。


社交の場で顔を合わせた程度の相手に語った覚えなど、記憶を辿ってもない。

それを、目の前の男は当然のように、しかも「相変わらず」という言葉まで添えて口にしている。


(どこで知った。それに──ずっと、覚えていたというの)


胸の内で疑問が渦を巻くが、表情には一切出さずに、テーブルの下で握った指先にわずかな力がこもる。


長年培ってきた無表情という鎧が、今この瞬間、これほど役立ったことはないと思うほどだった。


ヴァレリウスは、こちらの反応など気にも留めぬ様子で言葉を継いだ。


「花もお好きでしたね。白い小花の──たしか、鈴蘭でしたか。王都の庭園にも咲いておりましたが、あの頃から変わらずお好きだとは、嬉しく思います」


──鈴蘭。


その単語が耳を通り過ぎた瞬間、ルイナの記憶の奥底で、幼い頃に母と歩いた庭の光景が微かに揺らいだ。


社交の場で誰かに語った覚えなど、本当にない。


父にすら明かしたことのない些細な好みだ。それを、この男は数年越しに、微笑みひとつでさらりと言ってのける。


沈黙が一拍分だけ落ちた。


その静寂を破ったのは、隣に座るハオランの、わずかに強張った吐息だった。


ルイナは視線を動かさなかったが、傍らの気配が変わったことは肌で分かる。


腕を組んだままのハオランの指先が、袖の内側で微かに動いていた。


表には出さぬよう堪えているものの、目の奥に灯った疑いの色までは隠しきれていない。





「団長は、王都騎士団時代──東門の防衛演習で、単騎で三名を相手取ったことがおありでしたね。あの一件は、当時の若手の間で語り草になっていたとか。私も、遠くから拝見していました」


ヴァレリウスは茶器を口元に運びながら、まるで昨日の出来事を語るような気安さでそう続けた。事実、それは実際にあった出来事だ。


しかしながら、記録として公にされたことも、社交の場で語られたこともない。ごく限られた者たちの間だけで交わされた、内々の逸話のはずだった。


「遠くから拝見していた」という言葉に、ルイナは静かに茶器を置いた。カチリ、と磁器の触れ合う音が、やけに大きく響く。


「閣下は随分と、私の些事にお詳しいのですね。知人と呼べるほどの間柄でもなかったはずですが」


声には抑揚がなく、ただ事実を確認するような響きだけがあった。しかし言葉の裏には、明確な警告が滲んでいる。


それを察したのか、あるいは意にも介さぬのか、ヴァレリウスは口の端を持ち上げ、笑みをさらに深くした。


「団長ほどの方であれば、王都でも評判になるのは自然なことです。関心を寄せるのに、理由など必要でしょうか」


答えになっていない答えだった。それでいて、こちらの追及を柔らかく受け流す術には長けている。


ルイナは内心で舌打ちをこらえながら、これ以上の追及を一旦引いた。


今この場で問い詰めたところで、尻尾を出す相手ではないと直感していたからだ。


視線をわずかに横へ流すと、ハオランの表情がそこにあった。彼はもう笑みを取り繕う努力すら忘れているように見えた。


眉間には薄く皺が寄り、視線はヴァレリウスの口元と目元を交互に往復している。


まるで、その笑顔の奥にあるものを見透かそうとするかのように。


その様子に気づいたヴァレリウスが、初めてハオランへと視線を向けた。


「妬いておられますか、ホン殿。ご安心を、私と団長はただの古い知人ですよ。もっとも──」


言葉を切り、ヴァレリウスは茶器の縁を指先でなぞる。その仕草は優雅でありながら、どこか猟犬が獲物の匂いを確かめるような不穏さを孕んでいた。


「知人という言葉では、括りきれぬ想いもあるものです」


「……そうですか」


ハオランの返答は短かった。


普段の彼であれば、社交辞令のひとつも交わす余裕があるはずだが、今の声には、明らかな硬さが滲んでいる。


腕を組む力が強まり、袖の布地がわずかに皺を刻んだ。


ルイナはその横顔を一瞬だけ盗み見た。夫が初対面の相手に対してこれほど警戒を露わにするのは、珍しいことだった。


普段の彼は、多少の無礼を受けても懐深く受け流す。それが今、目に見えて張り詰めている。


(あなたも、感じたのね)


言葉にせずとも、隣り合う沈黙がそれを伝えていた。


やがてヴァレリウスが茶器を置き、暇乞いの姿勢を取った。


従者が扉の前で控え、日が傾きはじめたことを目で告げている。


ルイナは内心で安堵を覚える。これ以上この男と同じ空気を吸い続けるのは、精神的な消耗が大きすぎるのだ。


「本日は貴重な時間をいただき、感謝いたします。交易の詳細については、明日改めて」


ヴァレリウスは立ち上がり、優雅に一礼した。ルイナも儀礼として腰を上げかけた、その時だった。


扉へ向かいかけていた男の足が、不意に止まる。


振り返った顔には、変わらぬ笑みが浮かんでいた──が、その笑みの質が、ほんのわずかに違って見えた。


今までの当たり障りのない微笑みとは異なる、もっと粘度のある、獲物の反応を確かめるような色がその奥に潜んでいる。


「そういえば団長。左の肩の傷は、もう痛みませんか」


一瞬、部屋の空気が凍りついた。


ルイナの喉の奥で、息が止まる。


上げかけていた腰が、中途半端な位置で固まったまま動かない。


左肩──服の下に隠れたその古傷は、エルシオンが毒蛇に驚いて棹立ちになり、ルイナを地面へ振り落とした際に負ったものだ。


事故の直後こそ騎士団内で噂になったが、時と共に忘れ去られ、今では傷跡そのものも、厚手の服の下に隠れて誰の目にも触れない。


王都にいた頃の知人が知り得るはずのない、あまりに個人的な傷だった。


(なぜ)


心臓が、どく、と重く跳ねた。表情筋を制御する術を、これほど強く意識したことは久しくなかった。


指先の先まで冷たくなっていくのを感じながら、それでもルイナは唇の端を微動だにさせず、辛うじて平静を装う。


「──ご心配なく。とうに治りました」


声は思いのほか平静に響いた。

その平静さを作り出すために、どれほどの意志の力を要したか、隣に座るハオラン以外の誰にも分からなかっただろう。


「それは何よりです。あの傷は、見た目以上に深かったと聞きましたので」


ヴァレリウスはそう言い残すと、満足そうに目を細め、今度こそ扉へと歩き出した。従者を伴い、応接の間を去っていくその後ろ姿を、ルイナは凍りついたまま見送ることしかできなかった。


扉が閉まる音が響いた瞬間、ハオランが弾かれたように立ち上がった。


「今の、なんだよ」


声には、これまでとは明らかに違う響きがあった。

戸惑いや違和感を通り越し、はっきりとした怒気に近いものが滲んでいる。


彼はルイナの肩──正確には、その下に隠された古傷のある位置──へと視線を落とし、それからルイナの顔を覗き込んだ。


「その傷のこと、なんであいつが知ってんだ」


ルイナは答えられなかった。答えを持っていなかったからだ。


ただ、心臓の奥で警鐘が鳴り響いていることだけは確かだった。


あの男が語った「見た目以上に深かった」という言葉は、まるでその場に居合わせたかのような、あるいは詳細な報告書でも読んだかのような、生々しい実感を伴っていた。


(見ていた、というの? それとも……誰かに調べさせた?)


どちらであっても、答えは等しく薄気味悪い。


ルイナは自分の左肩へ、無意識のうちに右手を添えていた。


布地の下の古傷が、まるで今初めて開いたかのような疼きを訴えている気がした。





視察団が案内された宿舎へと引き上げていったあと、応接の間にはルイナとハオランだけが残された。


窓の外は、いつの間にか橙色に染まりはじめている。


長い影が床に伸び、先ほどまでの張り詰めた空気を柔らかく溶かしていくようだった。


ハオランは組んでいた腕をようやく解き、深く息を吐いた。


その息には、抑え込んでいた緊張の残滓がまだ絡みついている。


「なあ、ルイナ」


名を呼ぶ声に、いつもの温かさはあったが、その奥にわずかな険しさが滲んでいた。ルイナは黙って続きを待つ。


「あの男、おかしいだろ。ただの知人だって言うわりに、お前の好きな食い物も、花も、昔の話まで、しかも何年も前のことを覚えてやがった。普通じゃない」


ルイナは窓の外へ視線を投げたまま、静かに頷いた。


夕陽が輪郭を橙に縁取り、その横顔からは、先ほどまでの警戒とは違う、もっと深い疲労の色が滲み出ている。


長年培った無表情という鎧を保ち続けることにも、それなりの代償があるのだと知っている者は少ない。


「正直に言うと、私自身も驚いている。あの人とは、社交の場で数回顔を合わせた程度の間柄でしかなかったはずなのに」


「それなのに、あそこまで覚えてるってことは」


「ずっと、見られていたのかもしれない」


その一言を口にした瞬間、ルイナの声にわずかな翳りが差した。


普段は決して表に出さない類の感情──薄気味悪さと呼ぶには生々しく、恐怖と呼ぶにはまだ形になりきらない、名付けようのない不快感だった。


ハオランの声には、単なる疑念以上のものが混じっていた。


妻の過去を、見知らぬ男が我が物のように語る──その事実に対する、名付けようのない苛立ちだ。


ルイナはその感情の揺らぎを、隣に立つ気配だけで感じ取っていた。


「どこまで知っているのか、何のために調べたのか。今はまだ分からない」


ルイナは静かにそう告げると、視線をハオランへと戻した。


夕陽を背にした彼の瞳には、まだ拭いきれない不穏の色が揺れている。


それは、彼女自身の胸の奥にも同じように渦巻いているものだった。


「だから、油断はしないで。あの笑顔の裏に何があるのか、私たちはまだ何も知らないのだから」


窓の外で、旗が乾いた風にひとつ大きく揺れた。


視察団という名の来訪者が、この地に何をもたらすのか──その答えはまだ、誰の手にも握られていない。


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