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馬の匂う記憶

祭りの余韻がまだ胸の奥にほんのりと残っていたある日、執務室を訪れたノアが、いつになく神妙な面持ちで報告書を差し出してきた。


「妙な問い合わせが来てるんだよな、最近」


前置きもなく切り出されたその言葉に、ルイナは書類から顔を上げる。


「妙な、とは?」


「街の商人や宿の主人辺りから、ルイナの動向を探るような聞き込みがあったらしい。買い物の頻度だとか、外出の時間帯だとか、そういう細かいことばかりだ」


淡々と語られる内容に、ルイナの眉間へ自然と皺が寄る。誰が、何のためにそんなことを──そう考えを巡らせる間もなく、ノアは言葉を継いだ。


「ついでに言うと、たまにお前の亭主のことも聞かれてるみたいでな。ホン家の武術家としての評判とか、腕の立ち具合とか」


その一言に、ルイナの胸の奥で小さな警戒が首をもたげる。単なる好奇心にしては、聞き込みの内容があまりにも具体的すぎる。


「誰の差し金かはわからないの?」


「今んとこはな。聞き込みをした奴の身元も曖昧でよ、雇われの調査屋かなにかだと思うが、はっきりしねぇ」


ノアは肩をすくめながら、もう一枚の紙をルイナの前に滑らせた。


「あと、こっちは別件だ。祭りの前日、街の高級宿に見慣れない旅人が泊まってたって話がある。身なりの良い、それなりの地位を思わせる男だったらしい」


紙に記された簡素な情報に目を通しながら、ルイナは僅かに視線を細めた。


祭りの前日という時期の一致に、拭いきれない引っかかりを覚える。

それが誰であるのか、この情報だけでは判じようがなかった。


「引き続き、調べておいて」


短く指示を出すと、ノアは軽く頷いて部屋を後にした。一人残された執務室で、ルイナはしばらく報告書を見つめたまま、動きを止めていた。





その日の夕刻、書類仕事に区切りをつけたルイナは、気分を変えようと厩舎へ足を運んだ。


薄暗い厩舎の中、藁を踏みしめる足音に反応して、奥の一角からエルシオンが低く鼻を鳴らす。


いつもならすぐさま駆け寄ってくるはずのその足取りが、今日はどこか落ち着かない様子だった。


「どうしたの?」


声をかけながら近づくと、エルシオンは大きな鼻先をひくつかせ、何かを探るように空気を嗅いでいる。


黒々とした瞳が、厩舎の入り口の方角を何度も往復するように動いていた。


普段は主人以外の誰にも心を許さない気位の高い馬が、こうして落ち着きなく周囲を警戒する姿を見せることは滅多にない。


まるで、記憶の奥底に引っかかる何かの匂いを、必死に手繰り寄せようとしているかのようだった。


「気のせいかしら」


呟きながら、ルイナはエルシオンの首筋をそっと撫でる。


温かな体温と規則正しい呼吸の感触に、少しずつその落ち着かない様子も和らいでいった。


それでも、時折思い出したように鼻先を空へ向けるエルシオンの仕草だけは、しばらく治まる気配を見せなかった。


厩舎を出て執務室へ戻る道すがら、ふと懐に忍ばせたままの小箱の存在を思い出す。


ホン家に届いた、あの銀細工の髪飾りだった。

あれから処分するでもなく、かといって身につける気にもなれず、行き場を失ったまま部屋の引き出しに仕舞い込んでいた。


(そうだ……エルシオンにつけてあげようかしら)


ふとした思いつきに、ルイナの口元へ小さな笑みが浮かぶ。


あの美しくも不気味な男の贈り物が、まさか馬の鬣を飾る品に成り下がるとは、想像するだけで妙な痛快さがあった。


脳裏に思い描いたヴァレリウスの顔は、呆れたような、それでいてどこか面白がっているような、複雑な表情を浮かべていた。


あの余裕綽々とした男が、初めて予想外の展開に眉を寄せる姿を想像すると、胸の奥にささやかな溜飲が下りるような感覚があった。


(今度、本当にそうしてみようかしらね)


そんな悪戯心を抱きながら、ルイナは静かに執務室へと足を向けた。





同じ頃、辺境から遠く離れたクロイツ侯爵邸の一室では、燭台の灯りが静かに揺れていた。


重厚な書き物机の上には、一枚の肖像画が丁寧に立てかけられている。


描かれているのは、凛とした佇まいの女──ルイナの姿だった。


王都の騎士団に所属していた頃の記録を基に、腕利きの画家へ密かに依頼して描かせたものらしい。


桃色の髪と、切れ長の瞳。筆致は精緻を極め、まるで今にも動き出しそうなほどの生々しさを湛えていた。


その傍らには、王都時代の騎士団記録が幾つも積み上げられている。


任務履歴、昇進の経緯、同僚からの評価──ルイナという人物を形作るあらゆる情報が、丹念に集められ、整理されていた。


指先でその一枚を軽くなぞりながら、ヴァレリウスの唇には満足げな笑みが浮かんでいる。


扉が控えめに叩かれた。


「失礼いたします」


入ってきたのは、初老の執事だった。恭しく一礼すると、静かに用件を切り出す。


「ご注文いただいておりました、ルイナ様のお好みに合わせて仕立てましたドレスが、本日届きましてございます」


その報告に、ヴァレリウスの瞳が僅かに輝きを増した。


「ああ、そうか」


短く応じながら、肖像画へと視線を戻す。描かれた女の凛とした横顔を、指先でそっとなぞるように撫でた。


「客間に届けておきなさい。丁重にな」


「かしこまりました」


執事が一礼して退室すると、部屋には再び静寂が満ちる。燭台の炎が揺れるたびに、肖像画の表情もまた微かに陰影を変えて見えた。


「ルイナ」


誰に聞かせるでもなく、ヴァレリウスは静かにその名を呟いた。


「早く、きみに着せてあげたいよ」


囁くような声には、狂気とも呼べる熱と、それを覆い隠す穏やかな笑みが同居していた。


窓の外では、辺境の方角へと続く夜空に、幾つもの星が静かに瞬いている。


その光の届かない部屋の奥で、男の執着だけが、確かな輪郭を持って育ち続けていた。


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