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夜店の灯り

その日の朝から、砦の周辺はどこか浮ついた空気に包まれていた。


村の広場には竹で組まれた櫓が組み上げられ、赤や黄色の提灯が軒先という軒先に吊るされていく。


子供たちが歓声を上げながら大人たちの作業を眺め、女たちは軒下で反物を広げて浴衣の仕立てに追われている。


年に一度の夏祭りが近いのだと、リンナが朝食の席で目を輝かせながら教えてくれた。


執務室の窓からもその賑わいが見て取れた。


書類仕事の合間、ふと目を上げたルイナは、広場で提灯を吊るす兵士たちの姿に気づく。

普段は規律正しい訓練の場である広場が、今日は祭りの支度で賑やかに染まっていた。


「今年も、ずいぶん賑やかだな」


書類を運んできたハオランが、窓の外を眺めながらそう零す。その口調には、幼い頃から見慣れた光景を懐かしむような柔らかさが滲んでいた。


「毎年、この時期に行われるものなの?」


問いかけると、ハオランは頷きながら傍らの椅子に腰を下ろした。


「ああ。豊作を祈願する祭りでな。子供の頃は、リンナと一緒に毎年出かけたもんだ」


懐かしそうに語る横顔には、束の間、幼い日々の記憶を辿るような穏やかさが浮かんでいる。


ルイナはその表情をしばらく見つめながら、自分にはそういった記憶がほとんど存在しないことに、今更ながら思い至った。


王都で過ごした日々の中に、こうした庶民の祭りに興じた記憶は一つもない。


夕刻、書類の整理を終えて席を立とうとしたところで、扉が控えめに叩かれた。

顔を覗かせたハオランは、いつもより幾分そわそわした様子を隠しきれずにいた。


「な、なあ。今夜、祭りがあるんだが」


言葉を選ぶような間があった後、ハオランは思い切ったように続けた。


「よかったら、一緒に行かねぇか」


不意打ちのような誘いに、ルイナは僅かに目を見開く。


これまで任務以外で二人きりの時間を過ごすことは、決して多くはなかった。

政略から始まった結婚生活の中で、こうした何気ない誘いを受けること自体が、まだ少し不慣れなことだった。


「……いいの? その、私が行っても」


自分でも意外なほど、声に躊躇いが滲んだ。祭りという浮かれた場に、団長という肩書きを背負ったまま足を踏み入れることに、微かな戸惑いがあったのかもしれない。


「当たり前だろ。夫婦なんだから」


あっさりと返された一言に、ルイナの胸の奥が小さく波打つ。深く考える様子もなく紡がれたその言葉には、飾らない自然さが宿っていた。


「……わかったわ」


短く頷くと、ハオランの表情がぱっと明るくなる。その素直な喜びように、ルイナもまた自分の頬が緩んでいくのを感じずにはいられなかった。


「じゃあ、支度しねぇとな。リンナに頼んで、浴衣を用意してもらったんだ」


「浴衣?」


聞き慣れない単語に、ルイナは首を傾げる。


「東方じゃ祭りの定番の衣装でな。西方育ちのお前は着たことないだろ」


得意げに語るハオランの様子に、ルイナはますます興味を惹かれずにはいられなかった。





部屋に運び込まれた反物を前に、ルイナは珍しく戸惑いを隠せずにいた。


薄桃色の生地に、白い花模様が控えめに散らされたそれは、普段身につけている騎士団の制服とはあまりにも質感が違う。


柔らかな布地が指先に触れるたびに、日常とはかけ離れた非現実感が胸の奥に広がっていった。


「浴衣、というのね」


呟きながら、ルイナは反物を軽く広げてみる。窓から差し込む夕陽の光を受けて、生地の白い花模様がほのかに輝いた。


着付けを手伝ってくれたのはリンナだった。慣れた手つきで帯を締めながら、鏡越しに映るルイナの姿を見て、満足げに目を細める。


「わあっ、お義姉ちゃんすっごく似合ってる!」


弾んだ声に、ルイナは鏡の中の自分をまじまじと見つめた。


普段は無造作に流している桃色の髪が、今日は緩やかに結い上げられ、後れ毛が首筋に柔らかく落ちている。


頬には自然と赤みが差し、鏡の中の女は、いつもの凛とした団長の顔つきとはまた違う、どこか年頃の娘らしい表情を浮かべていた。


(こんな私、初めて見るわ)


普段は意識することのない自分の姿に、僅かな戸惑いと、それを上回る奇妙な高揚感が込み上げてくる。


指先で軽く帯の結び目に触れながら、ルイナはしばらくその場に立ち尽くしていた。


支度を終えて部屋を出ると、廊下でハオランが待っていた。


水色の浴衣に袖を通した彼は、いつもの武術家然とした鋭さが幾分和らぎ、涼やかな夏の装いがよく似合っている。


ハオランの視線がルイナの姿を捉えた瞬間、その動きがぴたりと止まった。目を見開いたまま、しばらく言葉を失っている様子だった。


「……どう、変かしら」


沈黙に耐えかねて問いかけると、ハオランは慌てたように首を横に振る。


「いや、その……すげぇ似合ってる」


いつもの飾らない口調に、僅かな照れが混じっていた。


その素直な反応に、ルイナの胸の奥が小さく跳ねる。


理由のわからない気恥ずかしさを誤魔化すように、ルイナは軽く咳払いをして視線を逸らした。





祭の会場に近づくにつれ、賑やかな喧騒と、香ばしい匂いが夜風に乗って流れてくる。


提灯の灯りが等間隔に連なり、夕闇の中に温かな光の道を作り出していた。


人々の笑い声、太鼓の音、屋台の呼び込みの声──そのすべてが混ざり合い、非日常の熱気を作り上げている。


「すごい人ね」


思わず零したルイナの声には、隠しきれない好奇心が滲んでいた。


王都にいた頃も祭りはあったはずだが、貴族社会の一員として、あるいは騎士団の一員として過ごす日々の中で、こうした庶民の熱気に身を浸す機会はほとんどなかった。


屋台の前を通りかかると、香ばしい醤油の匂いが漂ってくる。串に刺さった団子が、炭火で丁寧に焼かれていた。


「あれ、食べてみたいわ」


自分でも意外なほど素直に零れた言葉に、ハオランが目を丸くする。


「ルイナがそんな風に言うの、珍しいな」


からかうような口調に、ルイナは僅かに頬を膨らませながらも、屋台の店主に代金を渡す。


手渡された団子に齧りつくと、香ばしい醤油だれの甘辛さが口いっぱいに広がった。


「美味しい」


素直な感想に、ハオランの表情が緩む。それを見て、自分がどれだけ普段と違う顔をしているのか、ルイナ自身も薄々気づき始めていた。


その後も、二人は屋台を巡り歩いた。


真っ赤な飴が艶やかに光るりんご飴を手に取ったルイナは、齧った瞬間の硬質な甘さに目を丸くし、隣でハオランが声を上げて笑う。


金魚すくいの屋台では、意外にも器用な手つきで次々と金魚をすくい上げるハオランの姿に、ルイナが感嘆の声を漏らした。


「こっちだ、はぐれるなよ」


人波が一段と厚くなる区画に差し掛かると、ハオランが自然な仕草でルイナの手を取った。


武術で鍛えられた大きな手のひらに包まれると、それだけで人混みへの不安がすっと薄れていく。


普段は誰の手も借りずに自分の足で道を切り開いてきたルイナにとって、こうして誰かに導かれる感覚は、慣れないながらも不思議と心地よいものだった。


「祭りって、こんなに人が多いものなのね」


押し寄せる人波に軽く目を白黒させながら零すと、ハオランが振り返って笑う。


「昔はもっと大変だったぜ。リンナの奴、すぐ迷子になるから目が離せなくてよ」


懐かしそうに語るその横顔には、幼い妹の手を引いていた頃の記憶がまだ色濃く残っているのだろう。


ルイナはその話に耳を傾けながら、自分もまた今、その手に引かれているのだという事実に、じんわりとした温かさを覚えていた。


──その安心も長くは続かなかった。


太鼓の音に合わせて人々が一斉に移動を始めた瞬間、ルイナとハオランの間に、見知らぬ集団がどっと割り込んできた。


繋いでいた手が、あっという間に人の波に引き剥がされる。


「ハオラン……?」


振り返った時にはもう、水色の浴衣の背中はどこにも見当たらなかった。


押し寄せる人の群れの中、ルイナは一瞬だけ体が強張るのを感じた。

剣呑な現場であれば冷静に対処できるはずのこの状況も、勝手の違う祭りの雑踏の中では、勝手が違う。


(落ち着いて。すぐに見つかるはず)


自分に言い聞かせながら、ひとまず人通りの少ない路地の端へと身を寄せる。


深呼吸を一つして、辺りを見回した先──ふと、視界の端に小さな屋台の灯りが目に留まった。


飾り気のない木の台の上に、幾つもの髪飾りが並べられている。


銀細工で花弁を象った一本に、ルイナの視線は思わず吸い寄せられた。


控えめな輝きを放つその品は、普段の自分とはあまりにも縁遠いものの、見ているだけで心が浮き立つような愛らしさを湛えていた。


(こんなもの、今まで欲しいと思ったこともなかったのに)


指先を伸ばしかけたその時、横合いから馴れ馴れしい声が割り込んできた。


「よぉ、姉ちゃん一人か? 良かったら一緒に回らねぇか」


振り向くと、酒の匂いを漂わせた若い男が二人、にやついた笑みを浮かべて立っていた。


祭りの浮ついた空気に当てられたのか、遠慮のない馴れ馴れしさで距離を詰めてくる。


「結構よ」


短く、断固とした声で告げるが、男たちは怯む様子もなく、むしろ面白がるように顔を見合わせた。


「そう言わずによぉ。その浴衣、よく似合ってるぜ」


伸びてきた手が肩に触れようとした瞬間、ルイナは反射的に身を引いた。


剣呑な相手であれば躊躇なく叩き伏せてきたはずのその手も、祭りという場の空気と、周囲の目を気にする理性が、僅かに反応を鈍らせる。


「離れなさい」


低く警告するように告げるが、男たちの一人が笑いながらさらに間合いを詰めてきた。


「そう怖い顔すんなって、なあ」


その時だった。


「──何やってんだ、お前ら」


低く、地を這うような声が割り込む。振り向いた男たちの表情から、瞬時に笑みが消え去った。


人混みをかき分けて現れたハオランの目には、これまで見せたことのないほど鋭い光が宿っていた。


ルイナと男たちの間に体を割り込ませると、そのまま男の一人の胸ぐらを軽く小突く。


ただそれだけの動作だったが、込められた力の質だけで、素人目にも明らかな実力差が伝わったのだろう。


「い、いや、別に何も……」


「もう一回言ってみろ。何やってた?」


静かな声だからこそ、その底に滲む怒気が余計に恐ろしく響いた。


男たちは互いに顔を見合わせると、逃げるように人混みの中へと消えていった。


その背中を見送ったハオランが、すぐさまルイナへと向き直る。


「大丈夫か? 怪我は」


矢継ぎ早に問いかけてくる様子に、ルイナは小さく首を振った。


「平気よ。少し驚いただけ」


そう答えながらも、繋いでいた手を離してしまった自分への僅かな悔しさが胸を掠める。

あれほどの手練れとして名を馳せた自分が、こんな些細な出来事一つで動揺してしまうとは、思ってもみなかった。


「悪い、目を離した俺のせいだ」


自責の色を滲ませるハオランに、ルイナは静かに首を振る。


「あなたのせいじゃないわ。むしろ、来てくれてありがとう」


素直な礼の言葉に、ハオランは僅かに目を見開いた後、照れくさそうに頬を掻いた。


「まあ……お前が無事なら、それでいい」


そう言うと、ハオランは今度こそ離すまいというように、そっとルイナの手を握り直す。


先ほどよりも幾分強く、しかし優しさを伴った力加減だった。


「そういえば、何を見てたんだ?」


ふと問われて、ルイナは屋台の方へ視線を戻す。


あれほど心惹かれていた髪飾りへの興味は、先ほどの騒動ですっかり掻き消えていた。


「別に。何でもないわ」


小さく首を振りながら答えると、ハオランはそれ以上追及することなく、繋いだ手に軽く力を込めた。


夜が更けていくにつれ、ルイナの口数は普段よりも明らかに増えていった。


屋台の匂い一つ、通りすがりの子供たちの笑い声一つにも、素直な感想が次々と零れ落ちてくる。


そんな彼女の様子を、ハオランは終始嬉しそうに見つめていた。


「そんなに祭が好きなのか?」


ふと問いかけられた言葉に、ルイナは少し考え込むように視線を宙へ泳がせた。


「王都の貴族社会や騎士団で生きてきたから、庶民の祭をゆっくり楽しむ機会はあまりなかったの」


淡々とした口調の中に、僅かな寂しさが滲んでいた。


幼い頃から求められ続けた完璧さ、規律、そして剣の腕。


そういったものに応え続けてきた日々の中で、こうした何気ない喧騒に身を委ねる時間は、確かに縁遠いものだった。


その言葉に、ハオランは一瞬だけ真剣な眼差しを向けたが、すぐに表情を崩して快活に笑った。


「じゃあ今日はたーんと楽しもうぜ!」


その屈託のない笑顔に、ルイナの胸の奥がじんわりと温かくなる。


誰かにこんな風に、自分の欠けていた時間を埋めようとしてもらえることが、これほど心地よいものだとは知らなかった。





夜が完全に更けた頃、二人は花火が見えるという川辺の高台へと足を運んだ。

すでに大勢の人々が集まり、思い思いの場所に腰を下ろして開始の時を待っている。


ハオランが人混みの合間を縫うようにして、見晴らしの良い場所を確保してくれた。


やがて、乾いた発射音とともに、夜空に大輪の光が咲いた。


「わあ……」


ルイナの唇から、思わずといった様子で感嘆の声が漏れる。


赤、青、金色──色とりどりの光が次々と夜空を彩り、大気を震わせるような重低音が腹の底まで響いてくる。


眩い光に照らされたルイナの横顔には、これまで見たことのないほど無防備な笑みが浮かんでいた。


「綺麗……」


呟きながら、ルイナは夜空を見上げ続けている。瞳の中に、幾つもの光の残像が煌めいていた。


その隣で、ハオランは花火を見ていなかった。


夜空を彩る光よりも、それを見上げる横顔の方に、視線は釘付けになっていた。


普段は感情を面に出すことの少ない女団長が、今この瞬間だけは年相応の少女のような表情を浮かべている。


その事実が、花火のどんな輝きよりも眩しく映っていた。


視線を感じたのか、ルイナがふと隣を振り向く。


「どうしたの?」


不思議そうに首を傾げる仕草に、ハオランは慌てて視線を夜空へと戻した。頬の辺りに、じんわりとした熱が滲んでいくのを感じる。


「いや。本当に綺麗だと思ってな」


誤魔化すような口調だったが、嘘はついていなかった。


「ええ、そうね」


ルイナは素直に頷きながら、再び夜空へと視線を戻す。その言葉に何が込められていたのか、彼女はまるで気づいていない様子だった。


無邪気に花火を見上げる横顔を見つめながら、ハオランは小さく息を吐き出し、その鈍さに苦笑を浮かべる他なかった。





その光景を、雑踏から離れた場所で静かに見つめる人影があった。


木立の陰に佇むヴァレリウスは、腕を組んだまま、遠くの高台で花火を見上げる二人の姿を見つめ続けていた。


その瞳には、普段の柔和な笑みの奥に潜む昏さが、いつもよりも色濃く滲んでいる。


傍らに控えていた部下が、囁くような声で問いかけた。


「本当に、接触なさらないのですか」


ヴァレリウスは視線を動かさぬまま、静かに口を開く。


「今はいい」


夜空に咲いた大輪の光が、ヴァレリウスの整った横顔を一瞬だけ照らし出す。


「彼女が笑っている姿を見られただけで、十分だ」


その声には、焦りも苛立ちも滲んでいなかった。ただ、獲物を見定める狩人のような、静かな執着だけが淀んでいる。


花火の音が響き渡る中、ヴァレリウスの唇の端に浮かんだ笑みは、誰にも気づかれることなく、闇の中へ溶けていった。





祭の余韻がまだ残る数日後、ホン家に一つの荷物が届いた。


差出人の名はどこにも記されていなかったが、丁寧に包まれた箱を開けた瞬間、ルイナの表情が僅かに強張った。


中に収められていたのは、繊細な細工が施された髪飾りだった。控えめな輝きを放つ小さな石が、銀細工の花弁に囲まれている。


それは、祭の夜、屋台の片隅でルイナが一瞬だけ視線を留めていた品によく似ていた。


添えられた手紙を開くと、流麗な筆致でこう記されていた。


『祭で身につけていた浴衣姿も、大変お美しかったですよ』


その一文を読んだ瞬間、ルイナの背筋を冷たいものが這い上がる。


あの賑やかな夜、確かに楽しい時間を過ごしていたはずだった──のに、その一瞬一瞬までも、見えない場所から見つめられていたのだという事実が、今更ながら重く圧し掛かってくる。


手紙を握る指先に、無意識のうちに力がこもった。


窓の外には、何事もなかったかのような穏やかな午後の光が差し込んでいる。


その静けさとは裏腹に、ルイナの胸の内には、拭いきれない不穏な影が静かに広がり続けていた。


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