指輪の理由
執務室の窓から差し込む光は、数日前よりも幾分柔らかくなっていた。
書類仕事の合間に差し込んだ短い休息の中、ハオランが淡々とした口調で伝えてきたのは、メイファの処分がすでに執行されたという知らせだった。
護送の手配、船の出港、その一切が滞りなく進んだという。
あれほどの騒動を起こした本人が、今は遠い海の向こうで新しい生活を強いられている──そう思うと、胸の奥に何とも言えない複雑な感情が渦を巻いた。
安堵とも、後味の悪さとも呼べない、その両方が混ざり合ったような気分だった。
「はぁ……やっと終わったのね」
椅子の背もたれに体を預け、ルイナは深く息を吐き出す。張り詰めていた肩の力が、ようやく緩んでいくのがわかった。
窓の外では、いつもと変わらぬ午後の日差しが庭の木々を照らしている。
あれだけの騒ぎがあったことなど、まるで嘘のような穏やかさだった。
「悪かったな。変なことに巻き込んで」
ハオランが向かいの椅子に腰を下ろしながら、ぽつりと呟く。その声には、拭いきれない自責の色が滲んでいた。
「いいえ、私も油断してたわ。団長として情けない」
ルイナは静かに首を振る。
自らの落ち度を認める声には、卑下ではなく、事実を淡々と受け止める冷静さが宿っていた。
護衛の配置一つ、周囲への警戒一つを取っても、団を預かる者として詰めが甘かった──その自覚だけは、今も胸の底に重く沈んでいる。
「お前はよくやってたって」
ハオランの声には慰めというよりも、確信を込めた響きがあり、その表情はどこか晴れきらないまま、視線が窓の外へと逸れていく。
何かを反芻するように、瞼が一度、深く伏せられた。
「……川で溺れてたあいつを助けただけなのに、まさかこんな事になるとはな」
低く落とされた声には、割り切れなさが滲んでいた。
その一言で、ルイナの脳裏にジンロンから聞いた話が蘇る。
幼い頃、川で溺れかけていた幼いメイファをハオランが助けたことがあった──それがすべての始まりだったのだと、豪快な義父は珍しく静かな声で語っていた。
純粋な善意から始まった行為が、長い時間をかけて歪んだ執着へと形を変えていったのだ。
「あなたのやったことは間違ってない。相手が勝手に運命の人だと決めつけて付き纏っていただけ」
ルイナの声には、迷いも曖昧さもなかった。事実を一つ一つ整理して伝えるような、静かな断定だった。
「わかっちゃいるんだがな……」
言葉とは裏腹に、ハオランの表情には晴れない翳りが残ったままだった。
頭では理解していても、心のどこかで消化しきれない澱のようなものが、まだくすぶっているのだろう。
ルイナはその横顔をしばらく見つめてから、ゆっくりと言葉を継いだ。
「父親があんな感じだから、きっとメイファはあなたに執着してしまったんでしょうね」
「親父が何か関係あるのか?」
意外そうに眉を寄せるハオランに、ルイナは静かに視線を落とす。あの応接間で見た光景が、まだ鮮明に脳裏へ焼き付いていた。
「見てたでしょ。娘よりも仕事を優先する姿」
「あぁ……でも自分の商会を荒らされた訳だしな……」
ハオランが低く呟く。
コウレンの態度の底にあったものを完全に否定しきれないのか、その声には迷いが混じっていた。
「島流しの決定も、なんの躊躇もなかった。父からの愛情を受けられなかったから、あなたからの愛が欲しかったんだと思う」
淡々と紡がれた分析に、ハオランの喉から短い息が漏れる。
「親父の代わりかよ、俺は……」
自嘲めいた響きだった。誰かの欠落を埋めるための存在にされていた──そう考えるだけで、割り切れない苦さが胸に広がるのだろう。
「代わりかどうかはわからないけど、愛情不足なのは確かね」
言葉を選びながらも、ルイナは核心から目を逸らさなかった。慰めのための曖昧さよりも、事実に基づいた明快さの方が、今のハオランには必要だと感じたからだった。
ハオランはしばらくの間、窓の外の空虚な一点を見つめ続けていた。木々の葉が風に揺れる音だけが、静かな室内に流れ込んでくる。
長い沈黙の末、ふと表情を緩めると、視線をルイナへと戻す。
椅子から立ち上がり、机を回り込むようにして彼女の傍らへと歩み寄った。
「ルイナ、怪我の具合はどうだ?」
問いかける声には、先ほどまでの重苦しさが薄れ、代わりに柔らかな気遣いが滲んでいた。
「なんともないわ。もうほぼ治ってるもの」
ルイナは軽く手首を回して見せる。以前は擦り傷の赤みが残っていた場所も、今ではすっかり元の肌色を取り戻していた。
頬の腫れも引き、鏡を見ても不自然さはほとんど感じられない。
「そっか」
短く応じたハオランの声に、安堵の色が滲む。だが、それだけでは終わらせないというような間を置いてから、彼はやや照れくさそうに続けた。
「……じゃあさ、指輪、買いに行かね?」
「えっ?」
不意打ちのような提案に、ルイナは目を丸くしてハオランを見上げた。
書類仕事の話から怪我の具合、そして唐突な指輪の話へ──脈絡のなさに、思考が一瞬追いつかなくなる。
「そういえば、結婚指輪買ってなかったと思ってさ」
ハオランは頬の辺りを指先で軽く掻きながら、視線を微妙に泳がせた。柄にもなく照れているのが、その仕草からありありと伝わってくる。
「落としそうで怖い」
ルイナは咄嗟に、思いついたままの理由を口にした。剣を振るうことこそないが、鞭を扱う手には常に力が入る。
装飾品を身につける習慣そのものが、これまでの人生にほとんどなかった。
「普段は仕舞っておけばいいだろ」
ハオランがあっさりと切り返す。予想していた反論だったのか、その口調に迷いはなかった。
「でも……どうして急に結婚指輪なんて」
問い返すルイナの声には、単なる疑問以上の何かが滲んでいた。今この時期に、わざわざそれを持ち出す理由が知りたかった。
「夫婦らしいこと何もしてないから、せめて指輪だけはと思ってな。まあ……虫除けの意味もあるけど」
最後の一言を、ハオランはやや早口に付け加えた。冗談めかした響きの奥に、隠しきれない真剣さが透けて見える。
その言葉に、ルイナの脳裏に先日の光景が蘇った。
柔和な笑みの裏に昏い執着を滲ませていたヴァレリウスの姿。
指輪程度で諦めるような男でないことは、あの一件だけで十分に察していた。
それでも、何も持たないよりは、多少なりとも牽制になるのかもしれない──そう思い直す。
「……そうね」
短く頷いたルイナの声には、拒む理由を探すよりも先に、静かな納得が滲んでいた。
「じゃあ、買いに行こうぜ」
ハオランの表情が、ようやく普段通りの明るさを取り戻す。差し出された手に、ルイナは一瞬だけ視線を落としてから、そっと自分の手を重ねた。
砦を出て向かった先は、辺境の街の中心部にある宝飾店だった。
間口はさほど広くないものの、店内には磨き上げられた宝石や金細工が整然と並べられ、控えめながらも上質な品揃えを窺わせている。
扉を開けると、涼やかな鈴の音が店内に響いた。奥から出てきた初老の店主が、二人の姿を見て柔らかく目を細める。
辺境ではそれなりに名の知れた騎士団長夫妻だ、その来訪に驚きつつも歓迎の色を隠さなかった。
「結婚指輪を、と考えてるんだが」
ハオランが切り出すと、店主は心得たように奥へと引っ込み、幾つもの木箱を丁寧な手つきで運んできた。
天鵞絨張りの内側に収められた指輪の数々が、窓から差し込む夕暮れ前の光を受けて、それぞれ異なる輝きを放っている。
「ゆっくりご覧くださいませ」
そう言い残し、店主は一歩下がって二人の様子を見守る姿勢を取った。
ルイナは並んだ指輪を一つ一つ見つめながら、これまでの人生で装飾品を選んだ経験の乏しさを改めて自覚する。
剣を、いや鞭を握るための手に、細やかな装飾は縁遠いものだと思い込んでいた。
指先を近づけても、どれをどう選べばいいのか、その基準すら思い浮かばない。
「こういうのは、正直よくわからないのだけれど」
素直な戸惑いを口にすると、ハオランが横から覗き込みながら小さく笑った。
「俺だってわかんねぇよ。二人でわかんねぇなら、それはそれでいいだろ」
肩の力が抜けるような一言に、ルイナの口元も僅かに緩む。気負う必要はないのだと、その軽さに救われる思いがした。
まず目に留まったのは、複数の小粒の石が連なった華やかな一本だった。光を受けるたびに細かな輝きが弾け、いかにも人目を引く華やぎがある。
「これは……ちょっと派手すぎるかしら」
指先で軽く持ち上げてみるが、日頃鞭を握り、剣呑な現場を渡り歩く自分の生活とは、あまりに縁遠い印象だった。
「団長がこんなキラキラしたのつけてたら、逆に威圧感すごそうだな」
ハオランが真顔でそう零すと、ルイナは思わず眉を寄せた。
「それ、褒めてるの?」
「褒めてる褒めてる。でも部下がびびって書類の提出が早くなるかもな」
軽口に付き合ってやる気はなかったが、口の端がひとりでに緩んでしまうのを止められなかった。
指輪を箱へ戻すと、次に手に取ったのは無骨な太さの一本だった。
装飾らしい装飾もなく、質実剛健な印象を放っている。
「これなんかどうだ、頑丈そうだぜ」
ハオランが試しにと自分の指へ通してみせると、なるほど確かに丈夫そうではあったが、繊細さの欠片もない無粋な代物だった。
「まるで軍馬の蹄鉄ね」
「言い方」
心外だとばかりに眉を寄せるハオランに、ルイナは珍しく声に出して小さく笑った。日頃の緊張が緩んでいるせいか、いつもより言葉が滑らかに出てくる。
幾つかの指輪を見比べていくうちに、やがてルイナの視線は棚の隅に置かれた、控えめな一本へと吸い寄せられた。
細身の台座に、小さな石が一粒だけ静かに収まっている。派手さはないが、丁寧な作りの中に確かな品の良さが滲んでいた。
「これ……素敵ね」
思わず零した呟きに、ハオランがすぐさま反応する。
「お、いいじゃねぇか。俺もそれ、さっきから気になってた」
店主に断りを入れて手に取ると、思いのほか軽く、指先に馴染むような感触があった。装飾が控えめな分、日々の任務の中でも邪魔にならなそうだという実用面での安心感もある。
「悪くないわね」
素直な感想を口にすると、ハオランの表情がぱっと明るくなる。
店主に頼んで実際に指へ通してみると、思いのほかしっくりと馴染んだ。冷たい金属の感触が、指先から静かに体温を吸い上げていく。
「似合ってるぜ」
飾らない一言に、ルイナは僅かに視線を逸らした。
面と向かって褒められることに、未だに慣れない自分がいる。頬の辺りに、じんわりとした熱が滲むのを感じながら、それを悟られまいと表情を引き締めた。
「あなたも、選ばないといけないでしょう」
話を逸らすように告げると、ハオランは少し面食らったように瞬きをした。
「俺の分も?」
「当然でしょう。結婚指輪なのだから、お揃いにしないと意味がないわ」
言われて初めて気づいたとばかりに、ハオランは自分の武骨な指先を眺め下ろす。
店主が心得た様子で、同じ意匠の男性向けの品を持ってくる。
台座の細さこそ違うものの、収まった石の形も輝きも、ルイナが選んだものと寸分違わぬ意匠だった。
「こういうのでいいんだよな?」
指へ通しながら問いかけてくる様は、どこか落ち着かない子供のようで、ルイナは思わず目を細めた。
「ええ、よく似合ってる」
素直な言葉を返すと、ハオランは照れ隠しのように鼻の頭を軽く掻いた。
並んだ二つの指輪は、大きさこそ違えど、同じ光を纏って静かに輝いている。
店主が丁寧に包んだ二つの小箱を、ハオランが大切そうに懐へ収める頃には、窓の外は茜色に染まり始めていた。
会計を済ませ、礼を告げて店を出ると、涼やかな鈴の音が背後で小さく鳴った。
「ようやく、夫婦らしいことができた気がするな」
隣を歩くハオランがぽつりと零す。
政略から始まった関係の中で、これまで積み重ねてきた信頼や絆はすでに確かなものだったが、指輪という形あるものを分かち合えたことに、また一つ違う種類の実感が加わったような、そんな声だった。
「ええ。今度こそ」
静かな声で答えながら、ルイナは懐にしまわれた小さな箱の重みを、確かめるように意識した。
まだ指に馴染んでいないその存在が、これから先の日々に、少しずつ寄り添っていくのだろう。
夕焼けに染まる街並みを歩きながら、ルイナはそんな予感を胸の奥にそっと抱いていた。




