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初対面

馬車の車輪が石畳を離れ、踏み固められた土の道を進むようになってから、もう随分と経った。


窓の外を流れる景色は、王都を出た頃とはまるで違う。


整然と並んでいた石造りの街並みはとうに消え、代わりに深い緑を湛えた山々が幾重にも連なっている。

その稜線には白い雲が低く垂れ込め、時折、山肌そのものを覆い隠していた。


空気も違った。


窓を細く開けると、湿った土の匂いが入り込んでくる。


針葉樹の青い香り。


遠くで流れているらしい川の湿気。


石と鉄、それから人の密集した王都の匂いに慣れていたルイナには、そのどれもが新鮮だった。


半月に及ぶ旅。

父グレゴールとの会話は、決して多くなかった。


もともと二人とも、沈黙を苦痛に感じる性格ではない。


必要な時だけ話し、それ以外はそれぞれの時間を過ごす。


グレゴールは持参した書類へ目を通し、ルイナは赴任先について渡された資料を読む。時折どちらかが窓の外を見る。


それだけだった。


それでも、馬車の揺れに身を任せながら父と過ごす時間を、ルイナは不思議と心地よく感じていた。


この旅が終われば、父は王都へ戻り、自分は残る。


それが分かっているからなのかもしれない。


「見えてきたぞ」


不意にグレゴールが言った。

ルイナは資料から顔を上げ、窓の外へ目を向けた。


山裾に、小さな集落が広がっている。

その向こう、木々に囲まれた一角に、大きな屋敷が見えた。


王都の貴族邸とは、明らかに造りが違う。


石ではなく木を主体とした重厚な建物。


大きく張り出した軒。


両端が緩やかに反り上がった屋根。


庭を囲う塀に至るまで、ルイナが見慣れてきた西方の建築様式とは異なっている。


「あれがホン家ですか」


「ああ」


グレゴールの返事は短い。

その視線は屋敷へ向けられたままだった。


久しく会っていない旧友。

そして、娘の結婚相手になるかもしれない男。


これから、その両方に会う。


普段と変わらぬ横顔からは何も読み取れなかったが、ルイナには父がいつも以上に周囲を注意深く見ているように感じられた。


馬車が門をくぐる。


庭へ入った瞬間──さわさわと、涼やかな音が聞こえた。


竹林だった。


細く真っ直ぐ伸びた竹が何十本も並び、風が抜けるたび、細長い葉が互いに触れ合う。


その音に迎えられるように、馬車がゆっくりと止まった。


御者が扉を開ける。


ルイナは先に降りたグレゴールに続き、地面へ足を下ろした。


長旅で固まっていた身体へ、山間の冷たい空気が触れる。


息を吸う。


王都より少し冷たい。


顔を上げる。


玄関先に二人の姿があった。


最初に目へ入ったのは、中央に立つ壮年の男だった。


深い藍青から群青へ移ろう髪。


そこへ白髪が混じっている。


体格そのものはグレゴールほど大きくないが、立っているだけで分かる。


──強い。


ルイナの視線が自然と男の足元へ落ちる。


力んでいない。


肩にも余計な力は入っていないのに、どこにも隙がない。

長年武術を修めた人間だけが持つ立ち姿だった。


ジンロン・ホン。


父がかつて戦場で背中を預けたという男。


その隣に、一人の青年が立っている。


ルイナの視線が移った。


青みを帯びた濃い髪。


父親よりも若々しく鮮やかな色合いで、山から吹き下ろす風に前髪が僅かに揺れている。


背丈はルイナより明らかに高い。


百八十ほど。


無駄な肉のない引き締まった身体は、服の上からでも日常的に鍛錬を積んでいることが分かった。


手も目についた。指が長い。

掌には武器を握り続けた者特有の硬い皮膚がある。


騎士ではないが、武人。


それは疑いようがなかった。


立ち姿にも大きな崩れはない。


視線は真っ直ぐこちらへ向けられている。


父から聞いていた名が、頭の中に浮かぶ。


ハオラン・ホン。


二十五歳。


この男が、自分の結婚相手。


ルイナは無意識に観察していた。


姿勢。


体格。


手。


視線。


呼吸。


少なくとも武人として見れば、第一印象は悪くない。


その時、ハオランと目が合った。


ほんの一瞬、彼の視線が止まった。


ルイナは見返す。


すると何故か、ハオランの方が先に目を逸らした。


(……?)


僅かな疑問が浮かぶ。


その直後。


「グレゴール!」


大きな声が庭へ響いた。


ジンロンが歩み出る。


先ほどまでの静かな武人としての佇まいが嘘のように、顔には豪快な笑みが浮かんでいた。


「よう来たな。何年ぶりじゃ?」


「数える気もない」


「相変わらず堅苦しい面をしとるのう。久しぶりに会った友へ言うことがそれか」


「お前は相変わらずうるさいな」


そう言いながら、グレゴールの口元が、ほんの僅かに緩んだ。


ルイナは目を瞬いた。


……珍しい。


父が他人を前にして、あのような表情を見せるところなど滅多に見ない。


二人の大きな手が固く握られる。


長い説明など必要ないのだろう。


別々の土地で暮らし、長く顔を合わせていなくとも、共に死線を越えた時間までは消えない。


そんなものが、短い握手だけで伝わってきた。


やがてジンロンの視線がルイナへ向いた。


「それで」


楽しげに目を細める。


「こちらが、お主の自慢の娘か」


ルイナは一歩前へ出た。


背筋を伸ばす。


「初めまして。ルイナ・ランカスターと申します」


丁寧に一礼する。


「このたびは突然お世話になることとなり、申し訳ありません」


「おお、堅い堅い」


ジンロンが笑う。


「ルイナ殿じゃな。ワシはジンロン・ホン。話はグレゴールから嫌というほど聞いとる」


ルイナが僅かに父を見る。


グレゴールは無表情だった。


何を話したのか。


少し気になる。


「聞いていた以上の器量じゃ。それに」


ジンロンの目が細くなる。


一瞬だけ。


先ほどまでの気さくな老人とは違う、武人の目になった。


ルイナの立ち方。


腰。


手。


重心。


こちらを見ている。値踏みされている。


そう気づいた。


ルイナも動かなかった。


数秒後、ジンロンの顔へ笑みが戻る。


「なるほど。グレゴールの娘じゃ」


それだけで満足したらしい。


「堅苦しい挨拶はこのくらいでよかろう。ここは王都の社交場ではないからの」


「では、お言葉に甘えます」


ルイナは僅かに肩の力を抜いた。


ジンロンの視線が、今度は隣へ動く。


「ほれ。お前も挨拶せんか」


声を掛けられ、ハオランが一歩前へ出た。


「ハオラン・ホンです」


先ほどまでとは違う。


落ち着いた声。


ルイナを見る。


今度は目を逸らさなかった。


「長旅、お疲れさまでした」


「ルイナ・ランカスターです。よろしくお願いします」


ルイナが右手を差し出す。


ハオランが一瞬、その手を見る。


それから握った。


温かい。


そして。


硬い。


やはり武人の手だった。


必要以上に力を入れてこないが、弱くもない。


ルイナが手を離す。


悪くない。


少なくとも、父から聞いていた「責任感の強い武術家」という人物像から、大きく外れてはいないように思える。


一方、少し離れた場所から、グレゴールが無言で二人を見ていた。


特に、ハオランを。頭の先から足元まで。


ゆっくりとハオランがその視線に気づく。


二人の目が合った。


グレゴールは何も言わない。


ただ見る。


ハオランの背筋が、ほんの僅かに伸びた。


「……」


「……」


何かを感じ取ったらしい。


ルイナは父の顔を見る。


なるほど。


これが、本人を見るということか。


ハオランにとっては気の毒だが、止めるつもりもなかった。


──その時。


屋敷の奥から軽い足音が響いた。


「父さん、来た!?」


明るい声。


一人の少女が駆けてくる。


水色の髪が、走るたびにふわりと揺れる。

まだ幼さを残した顔立ちだけれど、表情は驚くほど豊かで、こちらを見つけた瞬間、大きな瞳がさらに輝いた。


「リンナ」


ジンロンが呼ぶ。

少女は父親の隣まで来ると、ルイナを見上げた。


「この人?」


「そうじゃ」


何のことだろう。


ルイナが疑問に思う。


その横でジンロンの顔に、妙に楽しげな笑みが浮かんだ。


グレゴールは無表情。


リンナは何かを知っているらしい。


そして、ハオランだけが明らかに何も分かっていない顔をしている。

ルイナは、そこでようやく気づいた。


……まさか。


「さて」


ジンロンが腕を組む。


「ハオラン」


「何だよ、親父」


「お前に一つ、大事な話がある」


ハオランの眉が寄る。


「今?」


「今じゃ」


ジンロンがルイナを見る。


そして、あまりにもあっさりと告げた。


「こちらのルイナ殿がお前の結婚相手じゃ」


風が、竹林を抜けた。


さわさわと葉が揺れる。


ハオランは動かなかった。


瞬きもしない。


表情も変わらない。


数秒、完全に止まった。


「……結婚」


ようやく口が動いた。


「そうじゃ」


「誰が」


「お前が」


また──沈黙。


ハオランの視線が、ゆっくりとルイナへ向く。ルイナは見返す。


緑の瞳が、僅かに見開かれた。


それから、父親へ戻る。


「……俺が?」


「他に誰がおる」


「この人と?」


「そう言っとるじゃろうが」


理解するまで、さらに数秒。


そして、


「聞いてないぞ!?」


ついに声が裏返った。

竹林から数羽の鳥が飛び立つ。


先ほどまでの落ち着いた武人の姿は、綺麗に消えていた。


ハオランがジンロンへ詰め寄る。


「何だ結婚って! いつ決まった!? 何で俺だけ知らないんだ!」


「前もって言えば、お前はあれこれ考えすぎるじゃろうが」


「考えるに決まってるだろ! 俺の結婚だぞ!」


「じゃから、まず会わせた」


ジンロンはまったく悪びれない。


「ワシとグレゴールで縁談の話をした。だが、会ってみて嫌なら断ればよい。お前にもルイナ殿にも、そのつもりで話しておる」


その言葉にハオランの動きが止まった。


勢いのまま何か言い返そうとして、できなかったらしい。


視線が、ちらりとルイナへ向く。


目が合う。


……また逸らされた。


今度は、耳が少し赤い。


ルイナはその変化をじっと見た。


(……なるほど)


父から聞いていた、責任感が強い。生真面目。武術の腕も確か。

そこまでは、おそらく間違っていない。


ただし、女性には慣れていない。


その情報は聞いていなかった。


「そういうことなら、最初から言ってくれ……」


ハオランが額へ手を当てる。


「大事な客が来るとしか聞いてないぞ、俺は」


「嘘は言っとらん」


「肝心なところを全部言ってないだろ!」


ジンロンが豪快に笑う。


その横でグレゴールは笑っていなかった。


ハオランを見ている。

先ほどよりも、さらにじっくりと。


ハオランも気づいたらしい。

彼の顔が固まる。


「……あの」


初めて、グレゴールへ声を掛けた。


「グレゴール・ランカスターだ」


「はい」


「ルイナの父だ」


「……はい」


知っていたはずなのに。


改めて告げられると重みが違うらしい。


ハオランの姿勢が正される。


グレゴールはそれ以上何も言わなかった。


ただ、見る。


娘の隣に立つ男を。


ルイナには分かった。

父は今、武術の腕など見ていない。


突然結婚を告げられた時、ハオランがどう反応するのか。

ルイナへどのような視線を向けるのか。

自分の父親へどう意見するのか。


そういうものを見ている。


まだ合格でも、不合格でもない。


それだけは確かだった。


「ねえ」


明るい声が割って入った。


リンナだった。


先ほどから兄と父のやり取りを眺めていた少女は、もう我慢できないとでもいうように笑っている。


そしてルイナの前へ来た。


近い。


人見知りという言葉とは無縁らしい。


水色の髪が風に揺れる。


「ってことは」


リンナが胸の前で両手を合わせた。


「この人が、あたしのお義姉ちゃんになるんだよね?」


ルイナはすぐに答えられなかった。


お義姉ちゃん。


その言葉だけが妙に耳に残った。


これまで、何度も名前を呼ばれてきた。


ランカスター。


隊長。


ルイナ。


娘。



──お義姉ちゃん。


その呼ばれ方は初めてだった。


知らない土地。


初めて訪れた屋敷。


会ったばかりの人々。


まだ、ここに自分の居場所など何一つない。


そう思っていたのに……目の前の少女は。


まるで最初からそう決まっていたかのように、自分を家族の名で呼んだ。


胸の奥に。


何かが小さく触れる。


戸惑い。


それから。


それとは少し違う。


温かなもの。


ルイナ自身にも、まだ名前をつけられない感覚だった。


「まだ決まったわけじゃ──」


ハオランが慌てて口を挟む。


「お兄ちゃんは黙ってて」


「何でだよ!?」


リンナは兄を無視した。

期待に満ちた目で、ルイナだけを見ている。


「あたし、リンナ・ホン。十七歳」


そして、満面の笑みを浮かべた。


「よろしく、お義姉ちゃん!」


また、その呼び方。


ルイナは少女を見つめた。


ほんの僅かに目元から力が抜ける。


「ええ」


頷く。


「よろしく、リンナ」


リンナの顔が、さらに明るくなった。


その隣では、ハオランがまだ何か言いたそうな顔をしている。

ルイナはそちらを見る。


目が合った。


今度こそハオランは逃げなかった。


ただ、耳はまだ赤い。


「……」


「……」


先に口を開いたのは、ルイナだった。


「何か?」


「いや」


ハオランが一度だけ言葉に詰まる。


「……何でもない」


そう言いながら、また少しだけ視線が逸れた。


ルイナは彼を見つめる。


精悍な体格。


鍛えられた手。


武人としては、悪くない。


責任感も強いという。


父がわざわざ半月をかけて見に来た男。


そして、このまま互いに拒まなければ……自分の夫になる男。


ルイナは僅かに首を傾げた。

第一印象を訂正する必要がありそうだった。


少なくとも、父から聞いていたより──随分と騒がしい男だった。


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