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縁談

ランカスター邸の書斎には、いつも同じ匂いが漂っている。


古い革張りの椅子と、父が長年愛用している葉巻の残り香。それに、壁一面の書棚に収められた夥しい数の書物が放つ、乾いた紙の匂い。


ルイナは幼い頃から、この部屋の匂いを知っていた。


父に呼び出され、剣術や学問について叱責されたこともある。騎士団への入団を決めた時にも、この部屋で長い話をした。


決して居心地のいい思い出ばかりではない。


それでも、この匂いを嗅ぐと不思議と気持ちが落ち着いた。


自分が帰る場所の匂いだった。


出立を三日後に控えたその夜、ルイナは父に呼ばれて書斎を訪れていた。


暖炉の炎が壁に長い影を落としている。薪が燃えるたび、その輪郭はゆらりと揺れ、天井の高い部屋の隅へ溶けていった。


窓の外では、庭木の梢が夜風に擦れ合っている。


その音に重なるように、羽根ペンが紙を走る。


ルイナは机を挟んだ向かい側へ腰掛け、黙って待っていた。


グレゴールは先ほどから一度も顔を上げていない。


何かを書いている。


急ぎの仕事だろう。


三日後には彼自身も王都を離れることになっている。その間の指示や、家令へ任せる仕事を整理しているらしく、机の上には普段以上の書類が積み上がっていた。


ルイナは急かさなかった。


父が自分を呼んでおきながら、仕事を終えるまで話を始めないことなど珍しくない。


──やがて羽根ペンが止まった。


グレゴールは最後の一文字を書き終えると、ペンを置いた。


「待たせたな」


「いえ」


短いやり取りを終え、グレゴールは書類を脇へ退けた。


その下から、一通の書状が現れる。

ルイナはそちらへ目を向けた。


見覚えのない封蝋だった。


王都の貴族が好んで使う紋章とは意匠が違う。獣でも植物でもない。流れる雲のようにも、絡み合う龍のようにも見える。


東方のものだろうか。


グレゴールが、その書状を手元へ引き寄せた。


「辺境の話だが」


声はいつもと変わらない。


低く、必要以上の感情を含まない。


「俺がお前と共にあちらで暮らすことはできん。当主として、いつまでも領地を空けるわけにはいかんからな」


「承知しています。もとより、そのつもりでおりません」


グレゴールの眉がわずかに動いた。


「分かっている」


そこで言葉を切る。


暖炉の中で薪が崩れた。


赤い火の粉が一瞬だけ舞い上がり、すぐに炎の中へ消えていく。


「だからといって、お前一人を何の備えもなく辺境へ放り出すつもりもない」


ルイナは黙って父を見る。


やはり、ただ左遷について話すために呼ばれたのではない。


グレゴールが机の上の書状へ指を置いた。


「覚えているか。先日、お前から手紙が届いた後、俺が東方にいる古い知人へ連絡を取ったことを」


「ジンロンという方ですね」


「ああ。ジンロン・ホンだ」


グレゴールが封筒を軽く叩く。


「返事が来た」


それで、机に置かれた見慣れない封蝋の正体が分かった。


グレゴールは書状を開いた。


中身を読み上げることはしない。


すでに何度も読んだのだろう。紙の折り目には、わずかな癖がついている。


「東方の武人でな。若い頃、共に戦場を渡り歩いた仲だ」


ルイナは少しだけ目を細めた。


父が自分から昔の話をすることは珍しい。


「強いのですか」


「俺が背中を預けたことのある男だ」


それだけだった。

グレゴールが誰かを評する言葉として、それ以上は必要なかった。


この父が他人を簡単に信用しないことを、ルイナはよく知っている。


まして、戦場で背中を預けたという。


「腕も人柄も、俺が保証する」


グレゴールは続ける。


「ホン家はカルディア周辺に古くから根を張っている。土地にも人にも詳しい。お前が向こうで騎士団を預かることになれば、頼ることもあるだろう」


なるほど。


ルイナはそこまで聞いて、父の意図を半分ほど理解した。


だが、半分だけだ。


それならば、旧友を紹介するだけで済む。

わざわざ夜に呼び出し、返書まで用意して話すほどのことではない。


ルイナは何も言わず、続きを待った。

グレゴールも娘が気づいていることを察したらしい。


「その男に、息子がいる」


……やはり。


「ハオランという。二十五歳だ」


ルイナは初めて聞く名を、頭の中で一度反芻した。


ハオラン・ホン。


「騎士ではない。父親と同じ武術家だ。腕は確かだと聞いている。責任感も強い。少々、生真面目すぎるところがあるらしいがな」


「会ったことは?」


「ない」


グレゴールは即答した。


「生まれたという知らせを受けた頃には、俺とジンロンも別々の土地で暮らしていた。手紙では何度か話を聞いているが、本人を見るのは俺も今回が初めてだ」


ルイナは何かを察した。

グレゴールが三日後、自分と共に王都を発つ理由。

単に娘を辺境まで送り届けるためだけではない。


グレゴールは続けた。


「いまだに独り身だそうだ」


「……そうですか」


「お前も二十三になって、浮いた話の一つも聞かん」


今度はルイナの眉が僅かに動いた。


「父上」


「事実だろう」


否定はできない。


そもそも恋愛そのものに、これまで大した関心を持ったことがなかった。


騎士として働き、訓練して、任務をこなし、帰宅すれば翌日の準備をする。


その生活に不満もなかった。


「俺とジンロンとで話した」


グレゴールが返書を机へ置く。


「両家の縁を結ぶ」


その言葉だけで、次に何を言われるのか分かった。


「お前とハオランを結婚させる」


暖炉の薪が、小さく爆ぜた。


ルイナは動かなかった。


驚かなかったわけではない。

ただ表情へ出すほど、感情が追いついていなかった。


──結婚。


──自分が。


──会ったこともない男と。


頭の中へいくつもの事実が浮かび上がる。


ハオラン・ホン。


二十五歳。


武術家。


ジンロンの息子。


責任感が強い。


生真面目。


そして──。


三日後、自分が向かう土地にいる。


それらを一つずつ整理してから、ルイナは父を見る。


「私に、拒否権は?」


グレゴールは娘を見返した。

しばらく何も言わない。


「無いとは言わん」


やがて答えた。


「嫌なら断れ」


ルイナは僅かに目を瞬いた。


「ですが」


「俺が勝手に話を持ち込んだのは事実だ。だからといって、嫌がるお前を縛りつけるつもりはない」


そこまで言ってグレゴールの目が僅かに細くなる。


「もっとも、聞く前から答えを決めている顔に見えるがな」


ルイナは小さく息を吐いた。


よく見ている。


自分も父の表情を読むことには慣れているが、向こうも同じらしい。


拒絶する理由を探してみる。


相手の素性が分からない。


それは事実。


しかし父が人柄を保証するジンロンの息子。


ホン家は赴任先に根を張っている。


自分は結婚そのものを嫌悪しているわけではない。


王都へ戻れる時期も分からない以上、こちらで縁談を探す意味も薄い。


何より父がここまで動いた理由。


それが気になった。


「父上」


「何だ」


「私をホン家の庇護下に置くおつもりですか」


グレゴールの眉間に皺が寄った。


「馬鹿を言え」


即答だった。


「お前が男の庇護がなければ生きられんような娘なら、最初から騎士などやらせていない」


ルイナは黙る。


「守ってもらえと言っているわけではない。使える縁は使えと言っている」


低い声が書斎に響く。


「辺境は王都の目が届きにくい。お前がどれだけ腕を立てようが、一人でできることには限界がある。土地勘も、人脈も、お前にはない」


その指摘は正しい。


ルイナ自身、それを否定するほど自惚れてはいなかった。


「ホン家にはそれがある。ジンロンもいる。息子も、聞いている通りの男なら使える」


「それで結婚を?」


「それだけなら、紹介だけで済ませる」


ルイナの視線が父へ戻る。

グレゴールは一度口を閉じた。


暖炉へ目を向ける。


炎が灰色の瞳へ映っている。


その横顔は、いつもと同じように険しい。

なのに次の言葉だけは、なかなか出てこなかった。


「俺は」


ようやくグレゴールが口を開く。


「お前をカルディアまで送る」


「はい」


「ジンロンにも会う」


「はい」


「ハオランという男も、この目で見る」


ルイナは何も言わなかった。


「ジンロンの息子だからといって、それだけで娘を任せるほど俺は呑気ではない」


そこで初めて、ルイナは父が同行を決めた本当の理由を理解した。


三日後から長く屋敷を空ける。


そのために、今夜も大量の仕事を片づけていた。


家令へ指示を残し、当主不在の間にも領地運営が滞らないよう準備を整え、それでも自分で来るという。


「本人を見て、駄目だと思えば?」


ルイナが尋ねる。


「破談だ」


またしても即答だった。


「ジンロンが何と言おうとな」


ルイナは目を伏せた。


胸の奥に……ほんの僅かに、温かなものが落ちる。


グレゴールは娘を甘やかさない。


幼い頃からそうだった。


転べば自分で立てと言われた。


剣を握れば男と同じ稽古を課された。


騎士になると言った時にも、特別扱いなど一度もされなかった。


何故男として生まれなかった。


そう惜しまれたことすらある。


それでも、娘をどうでもいいと思っていたわけではない。


ルイナは昔から知っていた。

ただこの父親は、それを口にするのが恐ろしく下手なのだ。


「……心配なのですか」


聞いてから、少し意地が悪かったかもしれないと思った。


グレゴールの眉間の皺が深くなる。


「悪いか」


「いいえ」


「お前を一人で行かせるのが心配だ。それだけだ」


ぶっきらぼうな声だった。

ルイナはしばらく父を見つめた。


そして、ほんの僅かに目元を和らげる。


「分かりました」


「何がだ」


「縁談です」


ルイナは机の上に置かれた返書を見る。


ハオラン・ホン。


まだ名前しか知らない男。


好きでもない。


嫌いでもない。


顔すら知らないのだから、当然だ。


それでも。


少なくとも現時点で、拒むべき理由は見つからなかった。


父が信用する男の息子で。


自分の赴任先に暮らし。


自分より二つ年上。


武術を修めているという。


実際の人柄は、会って確かめればいい。


「お受けします」


グレゴールはすぐには返事をしなかった。


娘の顔を見ている。

本当に無理をしていないか確かめているのだろう。


やがて、小さく頷いた。


「ああ」


それ以上の言葉はなかった。


互いに、必要としなかった。


暖炉の炎だけが、静かに揺れていた。





出立の朝は、深い霧に包まれていた。


ランカスター邸の前に停められた馬車の車輪には、夜露がびっしりと張りついている。


使用人たちが最後の荷物を積み込んでいた。


衣類。


旅用品。


騎士として必要な装備。


そして、ルイナが長年使ってきた鞭。


専用の革製ケースへ収められたそれを自分の手で確認してから、ルイナは荷台の奥へ固定した。


長い旅になる。

王都からカルディアまでは半月近くかかる。

グレゴールが屋敷をそれほど長く空けることなど滅多にない。


往復を考えれば、一月以上。


そのため、数日前から家令や信頼できる者たちへ仕事を振り分け、緊急時の判断についても細かな指示を残していた。


昨夜遅くまで書斎に灯りがついていた理由も、それだった。


ルイナは馬車の前に立つ父を見る。


グレゴールはすでに旅装を整えていた。


「本当に来るのですね」


「今さら何を言っている」


「確認しただけです」


「お前を送り届ける。それと」


グレゴールが一度言葉を切る。


「ハオランを見る」


やはり、そちらも大きな目的らしい。


ルイナは何も言わず、馬車へ乗り込んだ。


グレゴールも続く。


御者が合図を出した。


馬が歩き始める。


車輪が軋む。


長年暮らしてきた屋敷が、ゆっくりと遠ざかっていく。


王都の門を抜ける頃には、霧が少しずつ薄れ始めていた。


石造りの建物。


大聖堂の尖塔。


毎朝通った道。


騎士団本部の方向。


一度だけ、ルイナは窓越しにそれらを見た。


やがて前へ向き直る。


膝の上で手を組む。


不思議なものだった。


数日前まで、自分は王都騎士団の隊長だった。

それが今は左遷され、見知らぬ辺境へ向かう。

そのうえ、見知らぬ男と結婚することまで決まっている。


普通なら人生が狂ったと思うのかもしれない。

ルイナには、まだそういう実感すらなかった。


ただ……一つだけ確かなことがある。


ハオラン・ホン。


東方武術を修める男。


父が信頼する旧友の息子。

その男が、これから自分の夫になる。


ルイナは窓の外へ目を向けた。


霧の切れ間から、朝日が差し込む。


まだその名に特別な感情は何一つなかった。


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