命令違反
王都の朝は、鐘の音から始まる。
大聖堂の鐘楼が七つ目の音を響かせる頃には、騎士団本部の訓練場はすでに熱を帯びていた。
夜露の残る石畳を革靴が踏み鳴らし、木剣同士がぶつかる乾いた音が幾度も重なる。まだ冷たい朝の空気には汗と革、それから刃を手入れする油の匂いが混じっていた。
その一角だけ、不自然なほど広く空いている場所がある。
中央に立つのは、一人の女騎士だった。
ルイナ・ランカスター。
淡い風が、後ろでまとめた髪を揺らす。
右手に握られているのは剣ではない。
細く長い、黒革の鞭。
向かいに立つ若い騎士は、それを警戒するように木剣を構えていた。
肩に力が入りすぎている。
右足が半歩前。
視線は鞭の先端ばかりを追っている。
ルイナは無言でそれを見ていた。
青年が息を吸う。
踏み込んだ。
「はっ!」
木剣が斜め上から振り下ろされる。
速さは悪くないのだが、予備動作が大きい。
ルイナの手首が返った。
ぱしん、と空気が弾ける。
鞭の先端が木剣を打ったのではない。
柄を握る青年の手首へ巻きついた。
「え──」
気づいた時には遅かった。
ルイナが半歩だけ後ろへ下がる。
張った革が青年の腕を引き、その姿勢を崩す。
力任せではない。
相手の踏み込みと、自分へ向かってくる勢いを利用しただけだ。
青年の手から木剣が抜ける。
石畳へ落ちるより早く、鞭がもう一度しなった。
今度は足首。
絡める。
引く。
青年の身体が傾いた。
「うわっ!」
倒れる寸前で、ルイナは鞭を緩めた。
青年は片膝をつき、咄嗟に地面へ手をつく。
静かになった。
周囲で訓練していた騎士たちの視線が、いつの間にかこちらへ集まっている。
ルイナは鞭を手元へ戻した。
黒革が音もなく幾重にも巻かれていく。
「相手の武器ばかり見ないこと」
若い騎士が顔を上げる。
「は、はい」
「鞭は先端だけで攻撃するものではないわ。腕も、足も、武器も取る。距離を詰めれば安全だと思った時点で、あなたの負けよ」
「……はい」
青年が悔しそうに唇を噛む。
ルイナはそれ以上叱らなかった。
立ち上がるよう顎で示す。
悔しいと思えるのなら、まだ伸びる。
問題なのは負けることではない。
何故負けたのかを考えないことだ。
青年が木剣を拾ったところで、訓練場の入口から靴音が近づいてきた。
急いでいる。
それでいて、走ることは許されない場所だと理解している足音。
ルイナはそちらへ目を向けた。
若い伝令兵が一人、肩で息をしながら立っていた。
「ランカスター隊長」
顔色がよくない。
何かあった。
それだけで十分だった。
「何?」
「団長がお呼びです。至急、団長室へ来るようにと」
ルイナは返事をせず、鞭を腰へ戻した。
伝令兵の目が一瞬、こちらを避ける。
その動きを、ルイナは見逃さなかった。
何を聞かされたのか。
あるいは、何を知っているのか。
尋ねることはしなかった。
いずれ分かる。
「訓練を続けて」
周囲へ告げる。
「私が戻るまで、基礎動作を反復。姿勢を崩した者は最初からやり直し」
騎士たちから一斉に返事が上がる。
ルイナはその声を背に、訓練場を後にした。
廊下へ入ると、空気が一気に冷たくなる。
石造りの壁。
細長い窓から差し込む朝日。
磨かれた床へ自分の靴音だけが一定の間隔で落ちていく。
その間も、頭の中では三日前の出来事が蘇っていた。
東門。
黒煙。
叫び声。
崩れかけた家屋。
あの日も、鐘が鳴っていた。
ただし朝を告げる鐘ではない。
撤退を告げる警鐘だった。
火の手が東側の居住区まで迫っている。
守備隊は門の外へ後退。
火勢が強まり、このままでは建物の倒壊に巻き込まれる。
判断そのものは間違っていなかった。
問題は。
まだ人が残っていたことだ。
『隊長、撤退命令です!』
煙の向こうで部下が叫んでいた。
ルイナも聞いていた。
聞き逃したわけではない。
理解した上で、従わなかった。
煤けた路地の奥。
倒れた荷車。
その向こうから子どもの泣き声がした。
一人ではない。
母親らしい女の叫び声も。
老人の呻き声も。
避難が終わっていない。
それだけだった。
『先に退避して』
『ですが隊長!』
『聞こえなかった?』
部下が言葉を失う。
ルイナは鞭を握り直した。
燃え落ちた梁が道を塞いでいる。
火の粉が外套へ降りかかる。
熱で頬が痛い。
『あそこにまだ人がいる』
それだけ告げて、煙の中へ戻った。
結局、取り残されていた民間人は三十七名。
死者なし。
重傷者二名。
騎士側にも死者はいなかった。
それでも、命令違反は命令違反。
そこまで考えたところで、団長室の前へ着いた。
普段はいない、扉の左右に騎士が立っている。
ルイナは一度だけ二人を見た。
どちらも視線を合わせない。
扉を叩く。
「ルイナ・ランカスターです」
中から許可が出た。
扉を開ける。
最初に感じたのは、香木の匂いだった。
騎士団の執務室には不釣り合いな甘い香り。
客がいる。
それも、騎士ではない。
部屋には団長グラハムのほかに四人の男がいた。
いずれも上等な衣服を纏っている。
王都でも名を知られた貴族たち。
軍務に口を出せるだけの地位を持った者もいる。
ルイナは一礼した。
その瞬間、机の上に置かれた一枚の書状が目に入った。
厚手の紙。
赤い封蝋。
王都騎士団の印章。
すでに署名まで入っている。
ルイナの視線が、その紙の上にほんの一瞬だけ止まった。
事情を聞くために呼ばれたのではない。
処分を伝えるためだ。
理解するのに、一秒もかからなかった。
「ランカスター隊長」
団長グラハムが腕を組んだまま口を開く。
「三日前の東門での件について確認する」
低い声。
形式だけの問い。
「貴殿は撤退命令を受けたにもかかわらず、独断で現場へ留まった。相違ないな」
「ありません」
「命令が出ていたことは?」
「認識していました」
部屋の隅で、誰かが小さく息を吐く。
呆れたような。
待っていた答えが出たことに満足したような。
グラハムの眉が寄った。
「ならば、なおさら問題だ。命令を理解した上で無視したことになる」
ルイナは団長の目を見る。
「避難が完了していませんでした」
「その判断をするのは貴殿ではない」
「現場指揮官として必要な判断でした」
「上官から撤退命令が出ている」
声が強くなる。
ルイナの声音は変わらない。
「三十七名の民間人が残っていました」
「結果論だ」
「結果ではありません。確認した上で戻りました」
「貴殿が生還できたからそう言える!」
机を叩く音が響いた。
窓硝子がわずかに震える。
ルイナは瞬きもしなかった。
怒鳴り声で事実が変わるわけではない。
それを知っている。
沈黙の中、一人の貴族が口を開いた。
灰色の髭を綺麗に整えた男だった。
「グラハム団長。まあ、それくらいに」
穏やかな声。
だからこそ、ルイナはそちらを見る。
男は微笑んでいた。
「ランカスター嬢が勇敢であることは、我々も承知していますよ」
嬢。
隊長ではなく、わざわざそう呼ぶ。
「これまでも随分と華々しい働きをなさった。若く、それも女性の身で隊長職まで任されたのです。大したものだと思います」
褒めているように聞こえる。
言葉だけなら。
「だからこそ、残念なのですよ」
男が指を組む。
「周囲の模範となる立場には、相応の慎重さが求められる。特例のように出世した者が規律を破れば、他の者まで『自分も許される』と思いかねない」
ルイナは黙って聞いていた。
反論する気にはならなかった。
女性だから。
若いから。
出世が早かったから。
結論は最初から用意されている。
そこへ都合のいい理由を貼りつけているだけだ。
「民間人を救った功績まで否定するつもりはありません」
別の男が言う。
「しかし、騎士団というものは個人の英雄的判断で動く組織ではない。今回は幸運にも被害が増えなかった。それだけのことでしょう」
幸運。
また、その言葉。
ルイナは初めて僅かに目を細めた。
「幸運ではありません」
室内が静かになる。
「東門内側の火勢、建物の状態、退路、取り残された人数を確認しました。その上で救出可能と判断しています」
「つまり、自分の判断は上官より正しかったと?」
「その場では」
答えた瞬間。
一人の男が鼻で笑った。
グラハムは額へ手を当てる。
「……貴殿には反省というものがないのか」
ルイナは考えた。
本当に一度だけ。
そして答える。
「命令系統を乱した点については反省しています」
グラハムが顔を上げる。
「ですが」
ルイナの視線は揺れなかった。
「あの場へ戻ったことは後悔していません」
完全な沈黙が落ちた。
誰も動かない。
窓の外から聞こえる訓練場の掛け声だけが、ひどく遠く感じられた。
やがてグラハムが目を閉じる。
短く息を吐いた。
「……そうか」
机の上の書状へ手を伸ばす。
ようやく最初からそこに置かれていた紙が、ルイナの前へ差し出された。
「本日付をもって、貴殿を王都騎士団から東北辺境カルディア砦守備隊へ転属とする」
……やはり。
驚きはなかった。
「役職は現地騎士団団長。現任者との交代手続きについては現地で行え」
左遷。
言葉にしなくても分かる。
王都から馬車で半月。
冬は長く、街道整備も十分ではない。
中央から見れば、ほとんど忘れられたような土地。
栄転であるはずがない。
「異論は認めない」
ルイナは書状を取った。
紙の重さは、思ったより軽かった。
「承知しました」
それだけ答える。
男たちの何人かが、微かに表情を緩めた。
満足したらしい。
ルイナは一礼する。
「失礼します」
背を向ける。
扉へ向かう途中。
先ほどの灰色髭の貴族が、聞こえるように言った。
「辺境なら、多少の気性の強さも重宝されるでしょう」
笑いを含んだ声。
ルイナは足を止めなかった。
扉を開ける。
廊下へ出る。
閉める。
音が遮断される。
そこで初めて、ほんの僅かに息を吐いた。
腹が立たないわけではない。
悔しくないわけでもない。
十年近く積み重ねてきたものを、一枚の紙で遠ざけられた。
王都騎士団で築いてきた立場。
部下。
訓練場。
慣れ親しんだ街。
すべて置いていく。
頭に浮かんだのは、自分を笑っていた貴族たちではなかった。
──三日前。
煤で顔を真っ黒にした少女。
母親へ抱きつきながら泣いていた。
腕には小さな火傷があった。
でも生きていた。
ルイナは歩き出す。
なら。
それでいい。
少なくとも。
あの場で命令に従い、あの子を見捨てていれば……今よりずっと後悔していただろう。
自室へ戻る頃には、鐘の音から随分と時間が経っていた。
扉を閉める。
壁へ背を預けることはしない。
机へ向かう。
椅子へ座る。
羽根ペンを取った。
父へ知らせなければならない。
グレゴール・ランカスター。
父の顔を思い浮かべる。
大柄な身体。
険しい顔。
滅多なことでは動じない。
ルイナが幼い頃から、剣でも馬術でも学問でも一切手加減をしなかった男。
何故男として生まれなかった。
そう惜しまれたことも、一度や二度ではない。
今回の処分を知れば、怒るだろう。間違いなく。
何をするかまでは分からない。
それが少しだけ不安だった。
ルイナは紙へペン先を落とす。
『父上へ』
一度止める。
何から書くべきか考える。
……結局、事実だけを書いた。
『本日付で、王都騎士団を離れ、東北辺境カルディア砦へ赴任するよう命じられました』
インクが紙へ染み込む。
『三日前の東門における命令違反への処分です』
そこまで書き、もう一度ペンが止まった。
自分が書かなくても、父なら事情を調べる。
いや──むしろ書けば余計に怒る。
ルイナは少し考え、最後に一行だけ付け足した。
『心配は不要です』
その手紙が王都を出たのは、その日の午後だった。
──数日後。
西方にあるランカスター家の屋敷。
グレゴール・ランカスターは、娘から届いた手紙を無言で読み終えた。
広い執務室。
暖炉の火が、ぱちりと薪を弾く。
家令は机の前でじっと立っていた。
グレゴールは動かない。
手紙を読む。
最初から。
もう一度。
そして。
紙を机へ置いた。
静かだった。
怒鳴りもしない。
机を叩きもしない。
その方が、長年仕えている家令には恐ろしかった。
やがてグレゴールが低く口を開く。
「……あいつは」
家令が待つ。
「心配するなと書けば、父親が心配しないとでも思っているのか」
返答できる言葉はなかった。
グレゴールは椅子へ深く座り直す。
視線が遠くなる。
カルディア。
東北。
あの土地なら、昔から知っている男がいる。
顔を合わせなくなって久しいが、信用できる男だ。
少なくとも王都で娘を笑っていた連中よりは。
グレゴールは机の端に置かれた新しい便箋へ目を向けた。
「紙を」
「は」
家令が用意する。
グレゴールは太い指で羽根ペンを取った。
インクをつける。
書き出す前に、ほんの一瞬だけ考える。
──そして。
「ジンロン・ホンへ手紙を出す」
炎がまた、ぱちりと鳴った。




