プロローグ
窓辺に置かれた長椅子には、指先が沈むほど柔らかな絹が張られている。
壁には金の縁取りを施した大鏡。天井から吊るされた硝子のシャンデリアは、夕暮れの淡い光を拾うたび、細かな虹色の欠片を床へ散らしていた。
花瓶の花は毎朝、新しいものへ取り替えられる。
今日は白百合だった。
むせ返るほど甘い香りが部屋を満たし、その隣には瑞々しい果実が銀の器から零れそうなほど盛られている。
葡萄も、林檎も、南方から運ばせたらしい珍しい果実も、一つとして欠けていない。
すべてが贅を尽くしていた。
王都の貴族ですら羨むであろう部屋だった。
ただ一つ。
自由を除いては。
ルイナ・ランカスターは長椅子に腰掛けたまま、窓の外を眺めていた。
庭の敷石を、二人の男が歩いている。
見張りだ。
左の男は歩幅が広い。薔薇の茂みの手前まで二十七歩。そこで一度止まり、腰に提げた剣の位置を直す癖がある。
右の男は反対に歩幅が狭く、壁際まで三十二歩。
そこで必ず一度、屋敷の二階を見上げる。
二人が互いに背を向ける瞬間がある。
七。
八。
九。
十。
それ以上にはならない。
昨日も、その前の日も同じだった。
ルイナは窓硝子へ映る二人の姿を追いながら、膝の上に置いた指をゆっくりと曲げた。
十秒。
十分だ。
少なくとも、窓から庭木の陰へ移るだけなら。
問題はその先だった。
庭を囲む外壁。その向こうにいる見張りの人数までは、まだ正確に把握できていない。
正門には常時四人。夜半に交代がある。厨房へ食材を運び込む荷車は朝に一度だけ。使用人用の通用口は西側。
そして、この部屋。
三階。
窓の下には張り出した装飾がある。
手を掛けられないことはない。
落ちれば、まず無事では済まない高さだが。
ルイナの視線が、ほんのわずかに細くなった。
部屋の隅には侍女が一人立っている。
薄灰色の衣装に白い前掛け。見た目だけなら、ごく普通の侍女だった。
けれど、腰の位置が違う。
重心がわずかに前へ寄っている。手も腹の前ではなく、いつでも動かせるよう身体の横へ置かれていた。
使用人の立ち方ではない。
初日に見た時点で分かっていた。
侍女という名目の監視役。
ルイナが窓へ近づけば視線を上げる。扉へ近づけば半歩だけ位置を変える。食事中ですら、こちらから完全に目を離すことはない。
よく教育されている。
だからこそ、癖も見つけやすかった。
ルイナは何事もなかったように視線を窓へ戻す。
腰が軽い。
そこにあるはずの重みがない。
愛用の鞭は、この屋敷へ連れてこられた日に奪われた。
革を握ったときの感触を思い出す。
手首を返す。
鞭が空気を裂く。
狙った場所へ先端を走らせ、相手の手首を絡め取る。足を払う。武器を弾く。距離を奪い、自由を奪う。
自分が長年扱ってきたものが、今は逆に自分へ向けられているようだった。
武器を奪われ。
外へ出る権利を奪われ。
扉には鍵。
窓の下には見張り。
それでも、ルイナの胸に絶望はなかった。
指先が無意識に左手へ触れる。
薬指。
そこにある指輪の輪郭をなぞった瞬間、胸の奥に別の感触が蘇った。
大きな手。
自分よりずっと温かな掌。
不器用なくせに、触れるときだけ妙に慎重な指先。
──夫の体温。
ルイナは目を伏せた。
ほんの一瞬だけ。
扉の向こうから、音がした。
金属同士が擦れ合う、低く湿った音。
鍵だ。
ルイナの指が止まる。
侍女が姿勢を正した。
一度。
二度。
錠が外れる。
厚い扉がゆっくりと開き、廊下の冷えた空気とともに、香を焚きしめた衣の匂いが部屋へ流れ込んできた。
ルイナは顔を上げる。
ヴァレリウス・クロイツが立っていた。
金の髪を後ろへ撫でつけ、皺一つない上質な外套を纏っている。指には宝石の嵌め込まれた指輪。靴の先に至るまで、何一つ乱れていない。
彼は部屋へ入ると、背後で扉が閉まるのを待った。
歩き出す。
一歩。
また一歩。
絨毯が足音を吸い込む。
迷いのない歩き方だった。
ここが自分の屋敷だから、というだけではない。
自分が望んだ場所へ行き、自分が望んだものへ手を伸ばす。
それを拒まれるという可能性そのものを、最初から考えていない人間の歩き方だった。
ルイナは黙って見ていた。
彼の右手。
左手。
外套の膨らみ。
武器らしきものはない。
背後の侍女との距離。
扉までは六歩。
ヴァレリウスがこちらへ近づくにつれ、香の匂いが濃くなる。
好きではなかった。
強すぎる香りは、周囲の匂いを消してしまう。
彼はルイナの前で足を止めた。
長椅子に座る彼女を見下ろす。
その視線は穏やかだった。
穏やかであるからこそ、ルイナには不快だった。
一人の人間を見る目ではない。
美術商が、ようやく手に入れた名画に傷がないか確かめるような目。
「君には、ここにいる方が相応しい」
静かな声だった。
ルイナはすぐには答えなかった。
ヴァレリウスの顔を見上げる。
相応しい。
また、その言葉だ。
彼は何度も使う。
どんな服が相応しい。
どんな場所が相応しい。
どんな暮らしが相応しい。
そして──誰が隣に立つのが相応しいのか。
まるで、それを決める権利が自分にあるとでもいうように。
「私はそう思わない」
ルイナは淡々と答えた。
ヴァレリウスの表情は変わらない。
だが、右手の人差し指が一度だけ動いた。
指輪の縁を親指でなぞる。
苛立ったときの癖。
これも、ここ数日で覚えた。
「いずれ分かる」
彼はそう言って、わずかに身を屈めた。
距離が近くなる。
ルイナは逃げなかった。
ただ、その瞳から温度だけが消えた。
あと半歩。
もし触れようとするなら、右腕を取れる。
武器がなくとも、関節は折れる。
ここでそれをする利点がないから、しないだけだ。
「分かるつもりもないわ」
短く告げる。
それ以上、説明する必要を感じなかった。
何を与えられようと同じだ。
この部屋が王宮より豪華でも。
毎日宝石を贈られても。
世界中の珍味を並べられても。
鍵が外から掛けられている限り、ここは部屋ではない。
檻だ。
沈黙が落ちる。
窓の外では、見張りの靴底が規則正しく敷石を叩いていた。
一。
二。
三。
ルイナは無意識に数えている。
ヴァレリウスが長椅子の傍らへ回り込んだ。
「……まだ、あの男のところへ戻るつもりなのか」
先ほどまでと同じ穏やかな声。
……わずかに低い。
ルイナはそこで初めて、彼の顔を正面から見た。
あの男。
彼は一度として、ハオランの名を口にしない。
まるで名前を呼べば、その存在を認めることになるとでも思っているようだった。
ルイナの脳裏に、夫の姿が浮かぶ。
不器用な男。
責任感ばかり強く、自分一人で何でも背負おうとする男。
時折、驚くほど空回りする。
──それでも。
誰かが危険に晒されれば、自分の身を顧みず前へ出る。
一度背中を預ければ、振り返る必要がない。
そんな男だった。
ルイナの目元から、ほんのわずかに硬さが消えた。
ヴァレリウスがそれを見た。
その瞬間。
彼の眉間に、初めて明確な皺が刻まれる。
「ええ」
ルイナは答えた。
声に迷いはなかった。
「私の夫だから」
それだけだったが、ヴァレリウスには十分だったらしい。
指輪を撫でていた指が止まる。
口元から笑みが消えた。
何かを言おうとして、唇がわずかに開くものの、言葉にはならない。
ルイナは静かに見上げていた。
やがてヴァレリウスは身を起こす。
外套の裾が翻った。
そのまま踵を返し、扉へ向かう。
入ってきたときよりも歩幅がわずかに大きい。
扉が開く。
閉じる。
そして。
がちゃり。
鍵が掛かった。
足音が遠ざかっていく。
一歩。
二歩。
三歩。
聞こえなくなるまで、ルイナは動かなかった。
侍女も動かない。
静寂が戻る。
ルイナは窓の外へ視線を向けた。
夕暮れが近い。
空の青が薄れ、庭木の影が少しずつ長く伸びていた。
左の見張りが薔薇の前で止まる。
右の見張りが壁際へ着く。
互いに背を向ける。
十。
やはり変わらない。
ルイナは長椅子から立ち上がった。
侍女の視線が動く。
気づいていないふりをして、窓辺へ歩く。
外を見るだけ。
ここ数日、何度も繰り返した行動だった。
窓枠へ手を置く。
冷たい金属が掌に触れた。
そのまま、指先を下へ滑らせる。
装飾に隠れた留め具。
親指を押し当てる。
ほんのわずかに……動いた。
ルイナの目が細くなる。
初日はびくともしなかった。
二日目も。
三日目も。
食事用の銀匙の柄を使い、監視の目が逸れた僅かな時間に少しずつ緩めてきた。
一日に動かせるのは、ごく僅か。
急げば気づかれる。
だから急がなかった。
あと一度。
いや。
二度。
それで外せる。
「……そろそろね」
声が零れた。
小さすぎて、自分にしか聞こえないと思っていた。
「何がだ?」
背後から声がした。
ルイナは振り返る。
侍女がこちらを見ている。
怪訝そうな顔。
警戒まではしていない。
ルイナは窓枠から手を離した。
指先に残った金属の冷たさを、ゆっくり握り込む。
そして──ここへ連れてこられてから初めて、ほんの少しだけ口角を上げた。
「夫が迎えに来る頃よ」
侍女の眉が寄る。
ルイナはそれ以上、何も言わなかった。
ハオランなら来る。
それを疑ったことは一度もない。
無茶をして飛び込んでくるほど愚かではない──と、言い切れるほど信用もしていないが。
きっと来る。
だから。
それまで大人しく待っているつもりもなかった。
ルイナは再び窓の外へ目を向けた。
夕闇が庭を呑み始めている。
見張りの足音は変わらない。
一。
二。
三。
規則正しく。
何も起きていないと思い込んだまま。
ルイナの指先が、もう一度だけ窓枠の留め具を撫でる。
あと二度。
檻が開くまで、あと少しだった。




