それぞれの決意
診療所の廊下には、消毒液の匂いが薄く漂っていた。
白く塗られた壁と、時折すれ違う看護人の足音だけが響く静かな空間は、先ほどまでの炎と怒号の記憶とはあまりにもかけ離れていて、ノアはどこか現実感の薄い気分でその場に立っていた。
ルイナとリンナはそれぞれ別の部屋へ運び込まれ、初老の医師が交代で診察に当たった。
煤を拭い、火傷や打撲の程度を確かめ、必要な処置を施していく間、ノアは扉の外で待つことしかできなかった。
時間の流れがやけに遅く感じられ、扉の向こうから漏れる器具の音一つにさえ、神経が反応してしまう。
やがて診察室の戸が開き、医師が疲れた表情で顔を出した。
「命に別状はありません。ただ、体力の消耗と煙を吸った影響がありますので、三日ほどは入院していただきます」
淡々とした告知に、ノアは詰めていた息をようやく吐き出した。
三日という数字の重さよりも、命に別状がないという一言の方が、今は何倍も重く胸に響いた。
しばらくして、隣の診察室からハオランが出てくる。
左腕には真新しい包帯が幾重にも巻かれ、火傷の跡を覆っていた。
崩れ落ちる寸前の柱を素手で支え、リンナとルイナが逃げる時間を稼いだ際に負ったものだろう。
痛みを堪えるように顔をしかめながらも、その足取りは自らの怪我よりも他のことに気を取られているように見えた。
壁に背を預けて立っていたノアの姿を見つけると、ハオランは一瞬だけ表情を緩めた。
「男五人とガレスを投獄した。詳細はまた後日報告する」
淡々とした報告に、ハオランは短く頷く。その拍子に、包帯を巻いた腕がわずかに疼いたのか、眉根がぴくりと動いた。
「ああ。ありがとう……ノア」
短い言葉の中に、様々な感情が押し込められているのがわかった。
安堵、疲労、そしてまだ処理しきれない怒りのようなもの。それらが綯い交ぜになった声だった。
ノアはその様子をしばらく黙って見つめた後、壁から体を起こす。
「話がある。場所を変えるぞ」
有無を言わさぬ口調に、ハオランは僅かに眉を寄せながらも従った。
二人は診療所の裏手、人の行き来がほとんどない渡り廊下の先まで歩く。
夕暮れが近づいた空はうっすらと橙色に染まり始め、遠くの空にはまだ細く煙の名残が漂っていた。
「話って?」
足を止めたハオランが、探るような視線をノアへ向ける。
「シャオ家の娘がお前に執着してるのは知ってたが……まさか、お前余計なこと言ってないよな?」
問いかけの中に、確かめるような、それでいてどこか答えを予感しているような響きがあった。
「……別に、何も」
ハオランの視線が微かに逸れる。その一瞬の間が、言葉以上に何かを物語っていた。
「まぁそもそもシャオ家の娘が関わってるとも言い切れないが……主犯はガレスじゃねぇだろうな」
「根拠は?」
ハオランの声には、わずかな苛立ちが滲んでいた。
今はまだ何もかもが曖昧な段階だと分かっていても、はっきりとした標的を求める気持ちが抑えきれないのだろう。
「あいつぶん殴って気絶させた時、懐から大量の硬貨が出てきた。おそらくあいつも金で雇われただけの下っ端だ」
告げられた事実に、ハオランは口をつぐんだ。何かを噛み締めるように奥歯を軽く食いしばる音が、静かな廊下に微かに響いた気がした。
「シャオ家の娘を疑ってるわけじゃねぇ。ただ、あいつ以外にルイナへ私怨を持ってて、これだけの金を動かせそうな奴が、俺には思いつかねぇんだよ」
その名を出された瞬間、ハオランの表情に初めて明確な陰りが差した。
夕暮れの光が横顔に落ち、彫りの深い輪郭に濃い影を刻んでいく。
しばらくの間、ハオランは何も答えなかった。視線を地面に落とし、言うべきかどうかを測っているような沈黙が続く。
夕風が吹き抜け、遠くの木々の葉擦れだけが間を埋めていった。
隠したところで、いずれ知れることだ。そう腹を括ったのか、ハオランはゆっくりと息を吸い込んだ。
「数日前に……あいつの家に乗り込んで、もう関わるなって言った」
低く落とされた声には、後悔とも、開き直りともつかない複雑な色が混じっていた。
「なんでそんなこと言ったんだ?」
ノアの声には責める色はなかったが、事実を確かめる冷静さがあった。
「ルイナが誘われた茶会で、頭から茶をぶっかけられて帰って来たんだ」
その一言に、ノアの片眉がぴくりと上がる。
「……それでキレて乗り込んだ、と?」
ハオランが黙って頷くと、ノアは長く息を吐き出しながら片手で額を押さえた。呆れとも同情ともつかない、複雑な仕草だった。
「あのなぁ……それは逆効果だぜ」
その言葉に、ハオランの中で抑えていた何かが弾けた。
「じゃあ、どうしろってんだ!? ルイナが汚されて帰ってきたのに、黙ってろって言うのかよ!?」
声が渡り廊下に響き渡る。
普段の落ち着いた物腰からは想像もつかないほどの激情が、その一言に凝縮されていた。
拳が固く握り締められ、包帯の巻かれた腕にも力が入ったのか、微かに顔がしかめられる。
ノアはその剣幕を受けても、表情を変えなかった。ただ静かに、諭すような口調で言葉を継ぐ。
「そうは言ってない。相手が逆上する可能性は考えなかったのか?」
「考えなかった訳じゃねーけど……でもルイナを傷つけられて大人しくしてられるほど、出来た人間じゃねーんだよ……ッ!」
叫びに近いその声には、抑えきれない苦しさが滲んでいた。
誰よりもルイナを守りたいという想いが、逆に事態を悪化させてしまったかもしれない──その可能性に、本人自身が一番気づいているのだろう。
ノアはしばらく黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「もう何も失うものがない人間ほど、何を仕出かすかわかんねーもんだぜ。心が手に入らないのなら、お前の大事なものを殺してしまおう、と考えてもおかしくないな」
冷静な分析だからこそ、その言葉は容赦なくハオランの胸に突き刺さった。
「俺のせいで……」
絞り出すような呟きが、夕暮れの空気に溶けていく。拳を握った手の甲に、うっすらと血管が浮き上がっていた。
ノアはその横顔をしばらく見つめてから、ぶっきらぼうに言葉を吐き出した。
「お前が悪かったんだとしても、今さら落ち込んで何になる」
突き放すような響きに、ハオランが顔を上げる。
「反省は後だ。まずは嫁と妹守れ。それが先だろうが」
らしくない真面目な台詞を吐いた自分に居心地の悪さを覚えたのか、ノアは困ったように頬を掻いた。
いつもの飄々とした調子を取り戻そうとするその仕草が、逆にこの助言が本心からのものだと物語っていた。
「とにかく、自分を責める癖があるなら直せ。ルイナを想うなら尚更だ」
「……ああ」
短く答えたハオランの脳裏に、数日前ルイナから言われた言葉が蘇る。静かで、けれど確かな響きを持った声だった。
──あなたが自分を責めることで、私が救われることは一つもないの。むしろ、そんな顔をされる方が、よほど辛いわ。
あの時は頭でわかったつもりでいたが、実際に事が起きてみれば、結局同じ轍を踏みかけている。
そのことに気づき、ハオランは奥歯を噛み締めた。
「嫁と妹が狙われて、平常心でいられないのはわかるが、今二人を守ってやれるのはお前だけだ。しっかりしろよ」
「ああ、わかってる」
先ほどまでの激情が幾分収まったのか、ハオランの声には少しだけ落ち着きが戻っていた。
夕暮れの風が二人の間を通り抜け、遠くの木々の葉を微かに揺らす。
「じゃ、俺はこれで」
用件は終わったとばかりに、ノアはハオランに背を向けて歩き出した。その足取りは来た時と変わらず、どこか気だるげで軽い。
「ノア、ありがとう」
背中に向けて放たれた礼の言葉に、ノアは一瞬だけ足を止めた。振り返ることはせず、ただ片手を軽く上げて応える。
夕闇が濃くなり始めた渡り廊下に、その後ろ姿がゆっくりと溶けていった。




