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黒煙の向こうに

「ルイナ〜。これ……」


言いかけた言葉が、宙に浮いたまま行き場を失う。返事はどこからも返ってこない。


執務室の扉を開けたノア・ヴァレンティスは、思わず動きを止めた。


彼は扉に片手をかけたまま、しばらく室内を見回した。


いつもならこの時間、ルイナは机に向かって書類の山と格闘しているはずだった。


眉間に薄く皺を寄せ、ペン先で羊皮紙を叩きながら、報告書の矛盾を一行ずつ潰していく。


そういう姿を見慣れていたから、誰もいない室内の静けさが、やけに引っかかった。


机の上には書きかけの報告書が広げられたままだった。インクの乾き具合を見るに、そう長い時間が経っているわけではない。


椅子は少しだけ引かれ、まるで今しがた立ち上がったばかりのような形で残されている。


「あれ? どこ行ったんだ?」


独り言のように呟きながら、ノアは廊下へ戻る。


厩舎に行けば何かわかるかもしれないと思ったのは、ほとんど習慣のようなものだった。


ルイナがふらりといなくなるとき、大抵はエルシオンも一緒にいなくなる。

あの気位の高い黒鹿毛は、主人以外の誰にも心を許さない代わりに、ルイナがどこへ行くにも影のようについて回る。


案の定、厩舎の一角は空になっていた。


藁の上には蹄の跡が新しく残り、水桶の水面がまだ微かに揺れている。つい先ほどまでそこにいた気配だけが、生温かい空気となって漂っていた。


(どうやら馬で出かけたか)


ノアは首の後ろを掻きながら、近くを通りかかった兵士を呼び止めた。


「ルイナどこに行ったか知らないか?」


兵士は少し驚いたように足を止め、記憶を辿るように視線を上に向けた。


「何やら慌てた様子でどこかへ行かれましたよ」


その一言に、ノアの中で小さな引っかかりが生まれる。


慌てた様子、というのが妙だった。


ルイナは滅多なことでは表情を崩さない。感情を面に出すことを嫌う──というより、出し方を知らないような女だ。そんな彼女が慌てるとなれば、余程のことがあったに違いない。


副官である自分に何の断りもなく飛び出していったことに、胸の奥で小さな棘が刺さったような違和感が残る。普段のルイナなら、たとえ緊急でも一言くらいは寄越すはずだった。


(まあ……そのうち戻ってくるだろ)


ノアは肩をすくめ、深く考えることをやめた。彼の悪い癖であり、同時に美点でもあった。

物事を必要以上に重く受け止めない代わりに、いざという時の判断は誰よりも早い。


今はまだ、いざという時ではないと、頭のどこかがそう告げていた。


日差しが傾き始めた午後の空気は緩やかで、どこかから兵士たちの笑い声が風に乗って流れてくる。


ノアは大きく伸びをしながら、詰め所の裏手にある木陰へと足を向けた。


あそこの木の根元は座り心地がいい。少し昼寝でもして、ルイナが戻ってきた頃合いを見計らって顔を出せばいい──そんな算段を立てていた矢先だった。


遠くで、腹の底に響くような重い音が鳴った。


「な、なんだ!?」


反射的に振り返った先、砦の東側の空に黒い煙が立ち上っているのが見えた。


太く、渦を巻きながら空へと伸びていくその煙は、ただの焚き火や炊事の煙とは明らかに違う。


木々の緑を突き破るように黒々と広がっていくそれは、何かが激しく燃えている証だった。


心臓が一つ、大きく跳ねる。


「全員、消化用道具を持って現場へ急げ! 俺は先に行く!」


普段の飄々とした声とは違う、鋭く張った声が喉から飛び出した。


周囲にいた兵士たちが弾かれたように動き出すのを背中で感じながら、ノアはすでに厩舎へと駆け出している。


近くに繋がれていた馬に飛び乗り、鐙に足をかける間も惜しんで手綱を握った。


「残業代は出るんだよな? ルイナ!」


軽口のような言葉を吐き出したのは、緊張を紛らわすための癖だった。声に出さなければ、指先が震えそうだった。


誰に言うでもない愚痴を風にさらいながら、ノアは馬の腹を蹴った。






現場に近づくにつれ、焦げた匂いが濃くなっていく。


木材が爆ぜる音、何かが崩れ落ちる轟音、そして肺の奥まで入り込むような煙の匂い。


目に染みるそれを堪えながら、ノアは馬を走らせた。


見えてきたのは、かつて薬品庫として使われていた廃墟だった。


今はもう使われていないはずのその建物が、赤黒い炎に包まれて崩れかけている。


屋根の一部はすでに焼け落ち、崩れた梁からは火の粉が絶え間なく噴き上がっていた。


「薬品が漏れたのか?」


呟きながら、ノアは馬から飛び降りる。


廃墟の周囲を素早く見渡した。周りには枯れ草も木立もほとんどなく、燃え移るような可燃物は見当たらない。


この様子なら、建物一棟が焼け落ちればそれで鎮まる火だろう。手をこまねいていても大きな延焼にはならない──そう判断しかけた視線が、ふと足元で止まった。


乾いた地面に、複数の足跡が乱れて残っている。土がまだ湿っている場所を選んで踏んだのか、輪郭ははっきりと刻まれていた。


数にして四、五人分はあるだろうか。一つ一つを目で追ううちに、ノアの眉間に薄い皺が寄る。


その中に一つ、見覚えのある靴底の紋様が混じっていた。踵の減り方まで含めて、団の兵士に支給される軍靴のものだ。しかも、この砦にいる人数はそれほど多くない。誰の癖のある歩き方かまで、ノアは大抵覚えている。


(こいつは……)


胸の奥で、何かがひたりと冷たく固まっていくのを感じながら、ノアはゆっくりと視線を上げた。


カサッ、と乾いた草を踏む音がした。


反射的に振り向くと、同じ騎士団に所属する男の姿があった。年嵩の、古参兵の一人。ガレスという名前だったと記憶している。


その顔は煤で汚れているわけでもなく、息一つ乱れていない。まるで、ずっとそこに立っていたかのように静かだった。


「ガレス? お前なんでここにいるんだ?」


ガレスの喉仏が一度、大きく上下する。


「い、いや、その……爆発音が聞こえて」


「俺は消火用道具を持って現場へ行くように言ったんだが……持ってないところを見ると、俺より先に来てたんだよな?」


淡々とした問いかけに、ガレスの視線が泳いだ。右へ、左へ、決して定まらない瞳の動きが、言葉よりも雄弁に何かを語っていた。


「い、いえ。自分も今来たところで……」


ノアは足元にちらりと目を落とした。乾いた土の上に残る足跡の一つを、爪先で軽く小突く。


「なら、この靴跡は誰のだ? ちょうどお前のと同じ幅に見えるんだが」


一瞬、ガレスの顔から血の気が引くのがわかった。それは言い訳の言葉よりも、余程雄弁な答えだった。


「消火用道具はどうした?」


その一言に、ガレスの口が何度か開きかけては閉じるのを繰り返した。喉の奥で言葉が詰まっているのか、それとも言うべき嘘が見つからないのか。額に浮いた脂汗が、傾いた日差しを受けて鈍く光っている。


ノアがさらに一歩詰め寄ろうとしたその瞬間、廃墟の出入り口から男たちが転がるように飛び出してきた。


四人、いずれも見覚えのない顔だ。全員が煙にやられたのか、激しく咳き込みながら地面に膝をついている。


「ごほっ……ごほっ……なんなんだ、一体……」


「仕事どころじゃねぇ。撤退するぞ」


「くっそー……あの女すっげー好みなのに……」


「イイところだったのにな」


聞き捨てならない単語が耳に届いた瞬間、ノアの中で何かが静かに、確実に切り替わった。


普段の緩んだ空気がすっと消え、視線が刃のように鋭くなる。


大股で距離を詰めながら、努めて軽い調子を保った声で問いかけた。


「よぉ、女がなんだって? ここで何しようとしてたんだ?」


男の一人がびくりと肩を震わせ、驚愕に見開いた目でノアを見上げた。


「ひっ……!?」


「この火事もお前らの仕業か? 少し話を聞かせてもらおうか」


言葉の終わりが空気に溶ける前に、男たちの表情が殺気立ったものへと変わる。


四人がほぼ同時に立ち上がり、それぞれの得物に手をかけた。


腰の曲刀、鉄の鉤爪、節くれ立った棍棒──統率された動きではないものの、四方から同時に距離を詰めてくるその圧は、並の兵士なら足がすくむ数だった。


普通なら、一対四という数字だけで怯みが生まれる。背中を取られる恐怖、死角から来る一撃への警戒、体力の消耗を計算する冷静さ──そういったものが、本来なら判断の速度を鈍らせるはずだった。


しかし、ノアの表情には欠片の焦りも浮かんでいなかった。


むしろ口の端に浮かんだのは、獲物を前にした獣に似た薄い笑みだった。


一人目が振りかぶった曲刀が、唸りを上げて肩口へと落ちてくる。並の反応速度なら躱すだけで精一杯の速さだったが、ノアの体はそれよりもさらに一拍早く動いていた。

半身で刃の軌道を外し、生まれた隙間へ体ごと滑り込む。肘が相手の顎を下から抉るように突き上げた瞬間、骨と骨がぶつかる鈍い音が響き渡り、男の体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


その動きが終わる前に、すでに視線は二人目を捉えている。横合いから振るわれた鉤爪が空を切る音のすぐ後、ノアの拳が鳩尾へと深くめり込んだ。呼吸を根こそぎ奪われた男が、声にならない呻きとともに白目を剥いて沈む。


三人目と四人目が同時に間合いを詰めてくるのを見ても、ノアの呼吸は乱れなかった。棍棒の一撃を最小限の動きで沈み込んでかわし、伸びきった相手の膝裏を軽く払う。均衡を崩した体が前のめりに傾いだところへ、崩れた首筋へ容赦のない手刀を落とした。


最後の一人だけが、これはまずいと悟ったのか、身を翻して逃げようとした。だが、その判断はあまりにも遅い。踏み出した足がまだ地面を離れきらないうちに、背後から伸びた腕が首元を絞め上げ、そのまま意識を刈り取っていった。


始まりから終わりまで、数えるほどの呼吸しかかかっていない。


まるで最初から結末が決まっていたかのような、あまりにも一方的な決着だった。


地面に転がる四人の男たちは、それぞれ苦悶の表情のまま気絶している。焦げた木材の爆ぜる音だけが、静けさを埋めるように響いていた。


(それにしても、随分と手慣れてやがる)


倒れた男たちの構え方や得物の扱いを一瞥しながら、ノアは内心で舌打ちする。


素人の寄せ集めではない。金で雇われた、それなりに場数を踏んだ手合いだ。ただの野盗にしては、動きに妙な統率が滲んでいた。


その一部始終を見ていたガレスが、じりじりと後ずさりを始める。足音を殺しながら、そのまま踵を返して逃げ出そうとした。


「待ちな」


低く発せられた一言に、ガレスの肩がびくりと跳ね上がる。まるで背中に矢が突き刺さったかのような反応だった。


ノアはゆっくりと、しかし逃がすつもりのない足取りでガレスへと近づいていく。まとわりつく煙の匂いの中、視線だけが真っ直ぐにガレスの顔へ据えられていた。


「ルイナを見かけねーんだ。何か知ってるだろ?」


「な、何も──」


言い終わる前に、ノアの拳がガレスの顔面を捉えていた。乾いた音とともにガレスの体が仰向けに吹き飛び、地面へ叩きつけられる。鼻から一筋、血が流れ落ちるのが見えた。


「逃げられると面倒だ。しばらく寝てろ」


「ひいっ……!」


情けない悲鳴を上げるガレスの鳩尾に、ノアは容赦なく蹴りを叩き込んだ。


ぐっ、と喉から空気が抜ける音がして、ガレスの体から力が抜けていく。白目を剥いたまま、ぴくりとも動かなくなった。


崩れ落ちた拍子に、腰帯から小さな革袋が転げ落ちる。中身が地面にこぼれ、鈍く光る硬貨が土の上に散らばった。


数にして、それなりの額だ。単なる見張りや使いっ走りに渡す金額ではない。


(──仕事の後始末の金、ってところか)


嫌な想像が頭を過る。賊たちが撤退した後、ここに残って何かを確かめるつもりだったのだとしたら。


火が完全に燃え広がるのを見届けるためか、あるいは──中にいる者たちが、本当に生きて出てこないかを確認するためか。


想像しただけで、腹の底が冷えていく感覚があった。


ノアは荒くなった息を整えながら、燃え盛る廃墟へと視線を戻す。胸の奥で焦燥が渦を巻き、じっとしていることが耐え難くなっていく。


「ルイナ……!」


名を呼びながら踏み出そうとした、その時だった。


炎に炙られた壁の一部が、内側から弾けるように崩れ落ちた。土埃と火の粉が舞い上がる中、その隙間から人影が現れる。


ハオランだった。片腕にリンナを抱え、煤にまみれた顔で歩み出てくる。そのすぐ後ろに続いていたのは、確かにルイナの姿だった。


安堵の息をつく間もなく、ノアの目はルイナの足取りに吸い寄せられた。踏み出す一歩一歩が覚束なく、まるで見えない糸で無理やり動かされているかのようだった。


数歩進んだところで、その体がふらりと大きく傾ぐ。


「……ルイナ!?」


ハオランの声が裏返る。片腕にリンナを抱えたまま、もう片方の手を伸ばそうとするが届かない。


ルイナの体は、そのまま力なく地面へと崩れ落ちていった。


ノアは考えるより先に地を蹴っていた。焦げた土を踏みしめ、崩れ落ちたルイナのもとへ最短距離で駆け寄る。


膝をつき、首筋に指を這わせる。その指先が、自分でも気づかないうちに微かに震えていた。

普段なら意識すらしない些細な動作が、今はやけに遠く感じられる。指の腹に神経を集めても、すぐには何も感じ取れない。


一秒、また一秒。永遠にも似た短い時間が、鼓膜の奥で心臓の音だけを大きく響かせていく。

頭の片隅で、最悪の想像が黒い染みのように広がりかけたその時──指先に、確かな拍動が触れた。


規則正しく、しかし弱々しい脈。続けて口元に耳を寄せると、浅いながらも一定のリズムを刻む呼吸が肌をかすめた。


その瞬間、全身から一気に力が抜けていくのがわかった。


今の今まで張り詰めていた何かが、糸が切れるようにほどけていく。詰めていた息を吐き出すと同時に、喉の奥が僅かに震えた。


「大丈夫だ。気絶しているだけだ」


告げる声には、自分でも隠しきれないほどの安堵が滲んでいた。普段なら軽口の一つでも挟むところを、今はそんな余裕すら浮かんでこない。


ハオランの肩から力が抜けるのがわかった。リンナを抱えたまま、その場に膝をつきそうになる。


「よ、よかった……」


震える声だった。普段の力強さが嘘のように掠れている。それだけ、心の底から張り詰めていたのだろう。


「診療所へ連れて行くぞ」


ノアは短く告げると、地面に横たわるルイナの体をそっと横抱きに抱え上げた。


想像していたよりもずっと軽く、その頼りなさが逆に胸を締めつける。


煤と汗の匂いに混じって、微かに血の匂いが鼻を掠めた気がしたが、今は確かめている余裕はなかった。


待たせていたエルシオンが甲高くヒヒンと鳴いた。まるで主人の異変を察したかのような、切迫した響きだった。


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