駆けつける影
夕暮れの道を、ハオランは一人歩いていた。
家路を辿る足取りは、いつもと変わらぬはずだった。
竹林に差し掛かった時、それまでの静けさを切り裂くように、荒々しい嘶きが響いてきた。
聞き覚えのある声だった。ハオランは反射的に足を止め、音のした方向へと駆け出す。
竹林の奥、折れた竹が幾本も転がる中に、縄で幾重にも縛り上げられたエルシオンの姿があった。
「エ、エルシオン!? どうしたんだ!?」
駆け寄ったハオランの目に、地面に散乱する荷袋と、投げ出されたままの鞭が飛び込んできた。
見慣れたその鞭は、間違いなくルイナの持ち物だ。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。ただ事ではない、と全身が悟った。
「待ってろ、今解いてやるからな」
急いで縄に手をかけるが、エルシオンは激しく身をよじり、抵抗する。
「おとなしくしろって!」
なだめる声も届かず、エルシオンは苛立ったように後ろ脚を跳ね上げた。危うく蹴られかけ、ハオランは咄嗟に飛び退く。
それでも根気強く縄と格闘を続けるうち、擦り切れかけていた縄の一本が、ぷつりと音を立てて切れた。
「エルシオン、何があったんだ!?」
問いかけた瞬間、遠くから轟くような爆発音が響いてきた。
「なんだ!? 爆発!?」
弾かれたように、エルシオンが音のした方角へ駆け出す。
「ちょ……おい! 乗せてけ!!」
置き去りにされかけたハオランは、慌ててその後を追いかけた。
息を切らしながら辿り着いた先には、赤々と炎を上げる廃墟が佇んでいた。
「火事……!?」
黒煙が渦を巻きながら空へと立ち昇り、割れた窓の隙間から炎が舌なめずりするように漏れ出している。
エルシオンは苛立たしげに嘶きながら、入り口へと突進しようとするが、燃え盛る瓦礫がそれを阻んでいた。
「まさか、ここにルイナが……」
どうしてこんな廃墟に、という疑問を持つ間もなく、エルシオンの必死な様子がその答えを物語っていた。
ハオランは奥歯を噛み締める。
「エルシオンはここで待ってろ!」
叫ぶと同時に、割れた窓の一つへ体を滑り込ませる。
熱気が肌を焼く。直接炎に触れているわけでもないのに、皮膚がちりちりと焦げつくような錯覚があった。煙が喉の奥に絡みつき、視界が霞んでいく。
「ルイナ! どこだ!?」
叫びながら階段を駆け上がる。
その途中、突然、足元の床板が抜け落ちた。
「うわっ!?」
体が宙に投げ出される感覚──持ち前の反射神経が、咄嗟に体を捻らせる。腕を伸ばし、辛うじて残っていた床の縁を掴み、勢いのまま隣の段へと飛び移った。
「あっぶね……」
冷や汗が背筋を伝う。あと一瞬遅れていたら、真っ逆さまに炎の中へ落ちていたはずだった。
もう後戻りする時間などない。ハオランは荒い呼吸のまま、再び前を向いて走り出した。
廊下に出たところで、数人の男たちが慌てふためいた様子で駆けてきた。
見覚えのない顔ぶれ、統率を欠いた足取り。
この状況で真っ先に頭を過ぎったのは、安否の心配などではなく、拭いきれない疑念だった。
「お前ら、ここで何してる」
低く問い詰めるようなハオランの声に、男たちの顔が瞬時に凍りつく。
「な、なんでお前がいるんだよ!?」
「は?」
ハオランは眉をひそめる。
「爆発音がして、見に来たんだよ」
「早く逃げろ! 焼けちまう!」
男の一人が横をすり抜けようとした瞬間、ハオランの手がその胸ぐらを掴んだ。そのまま壁に押し付ける。
「ここで、何してた」
「ひっ……」
他の男たちは、捕らわれた仲間を見捨てるように、我先にと逃げ去っていった。
「何をしてたんだ、って聞いてんだよ」
低く抑えた声。その奥には、これまでハオランが見せたことのない、底冷えするような怒気が滲んでいる。
「今、そんなことしてる場合じゃ……」
「答えろ」
首元を軽く締め上げると、男の顔からみるみる血の気が引いていった。
「し、仕事だよ!」
「こんな廃墟でか? 何の仕事だ」
「……ッ」
黙り込む男に、ハオランはさらに力を込める。喉を圧迫され、男の口から苦しげな呻きが漏れた。
「お、女を……連れて来いって……」
「連れて来て、何をするつもりだった」
「す、好きにしていいって、言われたから……ッ!」
その言葉に、ハオランの目の奥が一瞬、昏く翳った。握る手に、無意識のうちに更なる力が籠る。
「その女は!! どこにいる!?」
怒鳴りつけるような声だった。男は涙目になりながら、震える声で答えた。
「三階の……一番奥の部屋だ!」
聞き終えるなり、ハオランは舌打ちを一つ落とし、崩れかけた石壁へと男を引きずっていく。
「ちょ……ちょっと待ってくれ! 教えたじゃねぇか!!」
悲鳴じみた声を無視し、ハオランは無言のまま男を外へと放り投げた。落下の悲鳴が、燃え盛る建物の中に虚しく響き渡る。
「ルイナ……!」
呟くと同時に、ハオランは階段を駆け上がった。三階へ辿り着き、奥の部屋を目指して煙の中を進んでいく。視界が霞む中、微かに人影が見えた。
「ルイナ!!」
「ハオラン!?」
驚いたような声が返ってくる。近づくにつれ、その姿がはっきりと見えてきた瞬間、ハオランの息が止まった。
「リンナまで……!」
破かれた服の隙間から覗く痛々しい肌。それを目にした瞬間、頭の中が一瞬、真っ白に染まった。
ほんの数分、いや数十秒でも遅れていたら、この光景はどう変わっていたのか。
想像するだけで、腹の底から冷たいものがせり上がってくる。
間に合わなかったかもしれない──その可能性が、今更ながら現実味を帯びて胸を抉った。
安堵よりも先に、行き場のない怒りが全身を駆け巡る。
誰に向ければいいのかも定まらないまま、その感情は喉の奥で塊となって、声にならずに燻り続けていた。
意識を失ったリンナを抱きかかえるようにして支えるルイナの姿を見て、ようやく詰めていた息を吐き出す。
安堵と怒りが、同時に胸を突き上げてくる。
「どうして、ここに……」
ルイナが言いかけた、その時だった。
炎に炙られていた近くの柱が、軋みながら二人へ向かって倒れてくる。
ルイナが咄嗟に目を瞑ったが、覚悟していた衝撃は訪れなかった。
恐る恐る目を開けると、そこにはハオランが両腕で柱を支える姿があった。
「ハオラン……!」
「くっ……」
苦しげな呻きが漏れる。燃え盛る木材を素手で受け止めた腕から、焼ける皮膚の匂いが立ち上っていた。それでも構わず、ハオランは柱を力任せに横へと押しやる。
「急ぐぞ!」
火傷など気にも留めない様子で、ハオランはリンナを軽々と抱え上げた。ルイナもよろめきながら、その後に続く。
一階に辿り着くと、行く手を阻むように、崩落した瓦礫が出口を塞いでいた。
先の爆発の衝撃で、石壁のあちこちに深いひびが走り、モルタルの継ぎ目が既に緩んでいる。
ハオランは狙いを定め、最も亀裂の深い一角へ、渾身の蹴りを叩き込んだ。
鈍い音とともに、脆くなっていた石材が音を立てて崩れ落ち、外の光が差し込んでくる。
崩れた壁の隙間を抜け、二人はようやく外へと転がり出た。
夜気を含んだ空気が、焼けつくような肺に染み渡っていく。
「大丈夫か? ルイナ」
振り返りながら呼びかける。返事はなかった。
「……ルイナ!?」
呼びかける声が、次第に遠のいていく。
張り詰めていた気力の糸が切れたのか、ルイナの体はふらりと傾ぎ、そのまま意識を手放していった。




