焼け落ちる鎖
隣の空き部屋に運び込まれたリンナは、床に乱暴に投げ出された。
固い木の床に肩を強く打ちつけ、息が詰まる。咳き込みながら顔を上げると、リンナを運んできた男が、埃を払うように手をはたいていた。
「終わるまで、ここで待ってな」
にべもない口調だった。リンナは縛られた両手をもがくように動かしながら、声を張り上げる。
「お義姉ちゃんに何する気!?」
「いくら馬鹿でも、そのくらいわかるだろ」
男は肩をすくめ、懐から煙草を取り出しながら、口の端で笑った。
「悪く思うなよ。これも『仕事』だからな」
その一言に、リンナの中で何かが引っかかった。仕事。
まるで、最初からルイナだけが標的だったかのような口ぶりだ。
だとすれば、自分が巻き込まれたのは偶然ではなく、あくまで手段の一つに過ぎなかったということになる。
腹の底に、じわりと怒りが滲んでいく。
火をつけた煙草を一口吸い、男はそれを興味なさげに床へ投げ捨てた。
「気の強い女ほど、屈服させた時の快感は最高だからねぇ」
にやりと嗤いながら、男は続けた。
「大人しくしてろよ」
「最っっっ低……!!」
叫んだ声は、しかし男の背中を追いかけることしかできなかった。笑いを含んだ足音が遠ざかり、扉の閉まる音が響く。
一人残されたリンナは、荒い呼吸を整えながら、辺りを見渡した。
早く助けに行かなければ、取り返しのつかないことになる。
焦燥感が胸を締め付けるが、手首を縛る縄は、力任せに引っ張ったところでびくともしなかった。
皮膚が擦れ、じんわりとした痛みだけが広がっていく。
視線を巡らせた先に、床に落ちたままの煙草が目に入った。細く立ち上る煙が、まだ僅かに赤い火種を保っている。
(火……)
思考が閃く。縄を焼き切るには、この小さな火だけでは足りない。もっと大きな炎が必要だ。
見回した部屋の隅、古びた卓の上に、油の入ったランプが置かれているのが目に留まった。
「こ、の……!」
唯一自由の利く両足を使い、リンナは体を捻りながら卓へと近づく。
渾身の力を込めて蹴りつけると、ランプは大きく傾ぎ、床へと転がり落ちた。
ガラス製のホヤが甲高い音を立てて砕け散る。
中の油がこぼれ、燻っていた煙草の火種の上へと流れ込んだ。
ぼう、と一瞬、炎が膨れ上がる。
熱を孕んだ空気が頬を撫でる中、リンナは縛られた手首を、その炎へと寄せていった。
縄の繊維が焦げる焦げ臭い匂いが鼻を突く。
皮膚に伝わる熱さに顔を歪めながらも、リンナは歯を食いしばって耐え続けた。
冷え切った石壁に囲まれた空間に、突如として短く重い不協和音が弾けた。
固く結ばれた拳ではなく、開いた掌が皮膚を強く打つ、湿り気を帯んだ生々しい音が静寂を切り裂く。
「う……っ」
頬に走った痛みに、ルイナは呻き声を漏らす。張られた頬が熱く痺れ、口の中に鉄の味が滲んだ。周囲を取り囲む男たちから、下卑た笑い声が上がる。
先日の落馬で負った肩の傷が、動くたびに鈍く疼いていた。手錠に固定された手首も、擦れて皮膚が裂けているのか、じんじんとした痛みが絶え間なく続いている。
それでも、屈するつもりは微塵もなかった。睨みつける瞳には、いまだ確かな光が宿っている。
「往生際が悪いねぇ、団長サマは」
「まだそんな目ができるんだな」
先頭の男がにやつきながらしゃがみ込みルイナの脚に手をかけた。
ぞくりとした嫌悪が背筋を走り抜ける。必死に脚を閉じようとするが、別の男が後ろから肩を押さえつけてくる。
「おとなしくしな」
男の手が、ゆっくりとルイナの膝に触れる。
その指先が太腿をなぞるように這い上がってくる感触に全身の肌が粟立った。
服の裾が乱暴にたくし上げられ、素足が露わになっていく。
「やめろ……!」
声を絞り出して抗うルイナに、男は愉悦をたたえた目を向けるだけだった。
固く閉じた脚の間に男の手が無理やり割って入ろうとする。
ルイナは渾身の力で抵抗を続けた。
それでも複数の手に押さえつけられ少しずつ自由を奪われていく。
男の顔が、ゆっくりとルイナの膝のあたりに近づいていく。荒い息遣いが肌に触れる距離まで迫ったとき別の男がげらげらと笑いながら声を上げた。
「おい、あんまり焦らすなよ。早いとこ済ませようぜ」
「うるせぇな、楽しみはゆっくり味わうもんだろ」
嘲るような口調で返す男の吐息が露わになった太腿にかかる。
ルイナは奥歯を強く噛み締め、せめて涙だけは見せるまいと両目を固く閉じた。
──その瞬間だった。
ドアが、けたたましい音を立てて勢いよく開け放たれる。
「お義姉ちゃん!!」
飛び込んできたのは、両手首から焦げた縄の残骸を垂らしたリンナだった。
「な、なんでこいつ……っ」
驚愕に固まった男が、言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
踏み込んだリンナの蹴りが、男の顔面を鋭く捉える。
骨の軋む鈍い音とともに、男の体が吹き飛び、壁に叩きつけられて崩れ落ちた。
「取り押さえろ!!」
怒号が飛び、残りの男たちが一斉にリンナへと殺到する。
誘拐を成功させただけあって、その動きに素人じみた粗さはなかった。
二人がかりで左右から挟み込むように迫り、もう一人は懐から短剣を抜き放つ。
リンナの体が沈み込むように低く構える。
飛びかかってきた一人の腕を掴み、体重を利用して弧を描くように投げ飛ばした。
着地と同時に、もう一人の拳が脇腹を捉える。
「っ……!」
鈍い痛みに息が詰まり、リンナの体勢が僅かに崩れた。
その隙を逃さず、短剣を構えた男が斬りかかってくる。
紙一重で身を捩り躱すが、頬に鋭い痛みが走った。浅く切れた皮膚から、じわりと血が滲む。
それでもなお、足は止まらなかった。
痛みを噛み殺しながら、リンナは短剣を持つ男の腕を掴むと同時に、体重を乗せた肘打ちを鳩尾へ叩き込む。
呻き声とともに崩れ落ちる男の手から、短剣が滑り落ちた。
「くそ、このガキ……!」
残る二人が、今度は同時に飛びかかってきた。片方の拳を掌で受け流し、もう片方の脚を払う。
しかし体勢を崩した男の手が、咄嗟にリンナの髪を掴んだ。
「痛っ……」
引っ張られる痛みに顔を歪めながらも、リンナは怯まず相手の腕に爪を立て、渾身の力で振り解く。
よろめいた隙を突き、掌底を顎へ突き上げた。
最後の一人が背後から掴みかかろうとするのを、振り返りざまの回し蹴りで迎え撃つ。
踵が顎を捉える鈍い感触とともに、男の体が崩れ落ちた。
肩で大きく息をしながら、リンナはようやく辺りを見渡す。
頬の傷がひりつき、脇腹には鈍い痛みが残っていたが、五人の男たちは折り重なるようにして床に沈んでいた。
さすが武道一家の娘、とルイナは痛みに顔をしかめながらも、内心で舌を巻いていた。
決して楽な戦いではなかったはずだ。それでも一歩も退かず、最後まで食らいついたその姿に、普段の無邪気な様子からは想像もつかない芯の強さを見た気がした。
「お義姉ちゃん、大丈夫!?」
肩で息をしながら、リンナが駆け寄ろうとするが、その足が床につく寸前、轟音とともに部屋の一角が弾け飛んだ。
爆風が吹き荒れ、砕けた木片と土埃が視界を覆う。壁の一部が崩れ落ち、剥き出しになった隙間から、赤い炎が勢いよく噴き出してきた。
爆心は、リンナが縄を焼いていた隣の空き部屋の方角だった。
割れたランプからこぼれた油が床板の隙間を伝い、かつて薬品庫として使われていたこの建物に染み付いていた古い薬品の残滓へと流れ込んでいたのだろう。
誰かが仕掛けたものではない。
リンナ自身が縄を焼くために起こした小さな火が、知らぬ間に燃え広がり、この建物に眠っていた危険な燃料へと引火してしまった結果だった。
「なんで火事になってんだ!?」
「くそ! 逃げるぞ!!」
先ほどまで威勢を張っていた男たちが、我先にと部屋を飛び出していく。捕らえていた二人を置き去りにしたまま、その足音は瞬く間に遠ざかっていった。
炎が壁を舐め始め、黒い煙が天井付近に渦を巻いて広がっていく。
「リンナ、貴女も逃げなさい!!」
咄嗟に叫んだルイナの声に、リンナは強く首を振った。
「お義姉ちゃんを置いてけないよ!」
視線を巡らせたリンナは、瓦礫の中に転がっていた鉄棒を見つけ、駆け寄って拾い上げる。
手錠に繋がる鎖そのものへ目をやり、一瞬迷った後、狙いを壁側の鉄環へと定めた。
「鎖より、こっちの方が狙い目だよ!」
鎖そのものは重ねられた鉄の輪だ。力任せに打ち付けたところで、そう容易く千切れるものではない。
それよりも、壁に打ち込まれた鉄環の方が、崩れかけたこの建物ではよほど脆いはずだった。
判断は一瞬だった。
リンナは鉄棒の先端を、壁と鉄環の継ぎ目へと差し込む。
「せーの……っ!」
てこの原理を使い、全体重をかけて鉄棒を押し込んだ。
軋むような音とともに、壁の一部にひびが走る。
──だが、根元まではまだ食い込みきらず、僅かに緩んだだけで、鉄環は壁にしがみついたままだった。
「もう少し……!」
苛立ちを滲ませながら、リンナは鉄棒を打ち込む位置を変え、今度は真上から叩きつけるようにして力を込める。
金属同士がぶつかる甲高い音が響く。
何度目かの一撃で、ひびの入った壁の一角がぼろりと崩れ、鉄環がぐらりと傾いだ。
「よし……!」
叫びながら、何度も何度も打ち付ける。額に汗が滲み、腕の筋肉が悲鳴を上げても、その勢いは緩まなかった。
煙が次第に濃さを増し、部屋全体を覆い始めている。
喉の奥がひりつくような刺激に、ルイナは咳き込みながらも声を絞り出した。
「私のことはいいから、早く逃げて!! 貴女まで死ぬことはない!!」
「死なないよ!! 一緒に逃げるんだもん!!」
即座に返された声に、迷いは欠片もなかった。
だが、体は正直で、吸い込んだ煙にリンナの視界がぐらりと揺れる。
それにも関わらず、彼女は鉄環を打つ手を止めようとはしなかった。
「リンナ! 言うことを聞きなさい!」
「やだ! やだったらやだ!!」
涙の滲んだ目で、リンナは叫び返す。
「お義姉ちゃんのご飯、食べられなくなるなんて絶対やだ!!」
「ご飯!?」
思わず聞き返すルイナに、リンナは荒い息の合間、震える声で続けた。
「お兄ちゃんには、お義姉ちゃんが必要なんだよ……」
弱々しい、けれど芯の通った声だった。
「ずっとずっと、お兄ちゃん、あたしのために無茶ばっかしてあたしを支えてくれたけど……じゃあ、お兄ちゃんを支えてくれる人は誰なの?」
ルイナは息を呑み、俯いた。
……あの夜、ハオランが打ち明けた自責の念が、脳裏に鮮明に蘇る。
まさか、リンナがそのことにまで気づいていたとは、思いもしなかった。
「ここであたし達が死んじゃったら、お兄ちゃん、また自分を責めちゃうよ! だから、二人で逃げるの!!」
叫びながら、リンナは渾身の力を鉄環へと叩きつけた。
甲高く、これまでで最も派手な音が響き渡る。
次の瞬間、崩れかけていた壁ごと、鉄環が根元から弾け飛んだ。
「リンナ……! ありがとう」
自由になった手首をさすりながら、ルイナは掠れた声で礼を告げる。
──その視界の端で、リンナの体が大きく傾いた。
「リンナ!?」
荒い呼吸を繰り返していたリンナの瞼が、ふっと落ちる。煙を吸いすぎたのだろう、糸が切れたようにくずおれるその体を、ルイナは間一髪で抱き留めた。
小さく上下する胸元を確かめ、安堵の息を漏らす。気を失っているだけで、命に別状はなさそうだった。
「逃げるわよ……一緒に」
呟くように言うと、ルイナはリンナの腕を自分の肩に回し、脱出口を目指して立ち上がった。
煙の充満する部屋の中、崩れた壁の隙間から漏れる僅かな光を頼りに、一歩、また一歩と、重い足取りで歩き出していく。




