見舞いの毒
目を覚ますと、真っ白な天井が視界いっぱいに広がっていた。
慣れない木目のない天井板を、ぼんやりとした意識のまま見つめる。頭の奥に鈍い痛みが居座り、体の輪郭さえ曖昧に感じられた。
瞼を開けたばかりの視界は白く霞み、そこに映るものが現実なのか夢の続きなのか、しばらく判断がつかなかった。
やがて、腕を組んで枕元に座る人影がゆっくりと像を結んでいく。ハオランだった。
「……ルイナ? 起きたのか?」
声には隠しきれない安堵と緊張が同居していた。丸一日、意識を失ったままだったらしい。
それだけの時間が流れていたという事実に、ルイナは自分の身に起きたことの重さを、今更ながら実感する。
「気分はどうだ? どこか痛むか?」
矢継ぎ早に投げかけられる問いに、ルイナは軽く目を瞬かせた。
普段の落ち着いた口調が嘘のように、言葉が次から次へと溢れ出てくる。
水を飲めるか、頭は痛くないか、目眩はしないか──一つ答える間もなく次の質問が重なっていく様は、世話焼きの彼らしい光景だ。
ルイナは、ふっと口元が綻んだ。
「大丈夫よ」
短く答えると、ハオランはようやく詰めていた息を吐き出したように、肩の力を僅かに緩めた。
それでも視線だけは、確かめるようにルイナの顔から離れようとしない。
「リンナは?」
真っ先に浮かんだ問いを口にすると、ハオランの表情が幾分和らいだ。
「隣の部屋にいる。もうピンピンしてる。腹が減ったってうるさいくらいだ」
その返事に、ルイナの胸の奥が僅かに緩む。
あの華奢な体を必死に支えながら歩いた記憶が、まだ生々しく残っていた。無事だと聞いても、実際にこの目で確かめるまでは安心しきれない自分がいる。
ゆっくりと体を起こそうとすると、頬にひりつくような痛みが走った。
指先でそっと触れてみれば、皮膚の表面が熱を持って腫れているのがわかる。
手首にも視線を落とすと、擦れたような赤い痕が輪になって残っていた。拘束されていた時の名残だろう。
医師の見立てでは、それ以外に目立った外傷はないという。煙を吸ったことによる喉の違和感も、一晩眠ったことでだいぶ和らいでいた。
命に関わるような傷を負わずに済んだのは、幸運としか言いようがない。
(義父上が留守で良かった、というべきなのかしら)
ジンロンは他国の要人の護衛任務で不在にしている。
今この状態を見られずに済んだことに安堵する一方で、帰還した時にはこれまでの経緯を一から説明しなくてはならないという現実が、じわりと胃の底に重くのしかかった。
あの豪快な彼のことだ、事の顛末を知れば黙ってはいないだろう。想像するだけで、気分が幾分沈んでいく。
「明日には退院できるそうだ。今日はゆっくり休め」
ハオランの声に、ルイナは小さく頷いた。窓の外はすでに傾いた陽が差し込み、白い病室の壁を淡く橙色に染めている。
ハオランはしばらく傍にいたが、医師に呼ばれて席を外すと告げ、後ろ髪を引かれるような表情を残しながら部屋を出て行った。
一人になった部屋の中、ルイナは窓辺に視線を移す。
ガラス越しに見える庭は静かで、風に揺れる木々の影だけが緩やかに動いていた。何もかもが元通りの日常に戻っていくような、そんな錯覚を覚える。
その静けさを破るように、扉が軽く叩かれた。ハオランが部屋を出てから、まださほど時間は経っていない。
医師との話が長引いているのだろうかと、ルイナは何気なく思いながら応じる。
「どうぞ」
短く応じると、扉が音もなく開く。まるで廊下の向こうでずっと待ち構えていたかのような、間を置かない開き方だった。
現れた人物の姿に、ルイナは思わず息を呑んだ。
金糸のような髪を持つ、見紛うことのない美丈夫だった。仕立ての良い外套を纏い、口元には常に張り付いたような柔らかな笑みを浮かべている。
「クロイツ侯爵……!?」
声が掠れた。何故彼がここにいるのか、頭が状況を追いつかせるまでに一拍の間が必要だった。
「やあ、ルイナ。大変な目に遭ったようだな」
穏やかな声音だった。まるで旧友の見舞いに立ち寄っただけのような、屈託のない笑顔を浮かべている。
ヴァレリウス・クロイツ。王都の騎士団に所属していた頃からの知り合いだ。整った容姿と柔和な物腰の裏に、底知れぬ何かを隠している──そんな印象を、ルイナは初対面の頃から拭えずにいた。
表向きは礼儀正しく紳士的でありながら、その瞳の奥に浮かぶ色だけは、いつも本心を悟らせない深い闇を湛えている。
「きみの噂を聞いて、いても立ってもいられなくてね」
そう言いながら、ヴァレリウスはゆっくりと室内へ足を踏み入れる。
靴音一つ立てない歩き方に、育ちの良さと同時に、どこか捕食者めいた静けさを感じ取ってしまうのは、気のせいだろうか。
「……遠路遥々お越し頂き、ありがとうございます」
社交辞令の言葉を選びながらも、ルイナの声には自然と硬さが滲んだ。
上体を起こしたまま、姿勢を崩さないよう意識する。
この男の前で隙を見せてはいけないという警戒心が、体の奥底から静かに立ち上ってくる。
「見舞いの品だ。受け取ってくれ」
そう言って、傍らに置かれた小卓へ持参の籠を置く。中には艶やかな果実が丁寧に盛り付けられており、王都でしか手に入らないような珍しい品種も混じっている。
「わざわざありがとうございます」
礼を述べながらも、視線は籠よりも男の表情の方に向けられていた。
「風の噂で聞いたのだが」
ヴァレリウスは寝台の傍らに置かれた椅子に、優雅な動作で腰を下ろす。まるで自分の部屋であるかのような、遠慮のない自然さだった。
「結婚したそうじゃないか」
「……ええ」
短く答えたルイナの声に、感情の色は極力乗せなかった。
この男に、自分の心の内側を覗かせるつもりは毛頭ない。
「しかし、幸せそうには見えないな」
言葉の刃が、静かに突き刺さる。
頬の腫れと手首の擦り傷、それに包帯の下に隠れた打撲──そういったものを、ヴァレリウスの視線は一つ一つ丁寧に確かめているようだった。
「この傷は、夫にやられたものではありません」
きっぱりと言い切る声には、微かな苛立ちが滲んでいた。
誰にどう思われようと構わないが、この傷とハオランを結びつけて語られることだけは、看過できない。
「わかっているさ。夫に付き纏っている女が原因だろう?」
その一言に、ルイナの背筋が凍りついた。
「……貴方、どこまで」
問いかけの語尾が、自分でも気づかぬうちに掠れていた。
この男が、なぜそこまで詳しい事情を把握しているのか。まだ表沙汰にもなっていない出来事のはずだった。
「きみの事ならなんでも知ってるさ」
平然と答える様に、背筋を這い上がるような悪寒が走った。冗談めかした口調でありながら、その瞳には冗談とは思えない確信の色が宿っている。
まるで、ルイナの周囲で起きたすべての出来事を、遠くから眺めていたかのような不気味さだった。
「美しいきみを傷つけるなど言語道断。私ならきみをそんな目に遭わせない」
椅子から身を乗り出したヴァレリウスの指先が、ためらいもなくルイナの頬へと伸びる。
触れられる寸前、ルイナは素早く顔を背け、伸びてきた手を静かに、断固とした動作で払いのけた。
指先が空を切る乾いた気配だけが、二人の間に残る。
「もし困ったことがあれば、私を頼るといい。きみにはもっと相応しい居場所があるはずだ」
囁くような声だった。甘さの奥に、有無を言わせぬ圧力が滲んでいる。
直接的な言葉は一つも使われていないのに、その意図だけは十分すぎるほど伝わってきた。
「お断りよ」
一切の迷いもなく、ルイナは即座に言い切った。何が言外に含まれていたとしても、答えは変わらない。
瞳には嫌悪も動揺も見せず、ただ真っ直ぐにヴァレリウスの目を見返した。
「やれやれ。強情な人だ」
払われた手を軽く振りながら、ヴァレリウスは呆れたようにため息をついた。
その表情に本当の落胆の色は見当たらない。むしろ、拒まれたことすら予期していたかのような、余裕を崩さない微笑が唇の端に浮かんでいた。
「本気にしていただかなくて結構です。私には夫がおります」
ルイナの声は静かだったが、有無を言わせぬ響きを帯びていた。感情を昂らせることなく、それでいて一切の曖昧さを残さない拒絶だった。
「その夫とやらが、きみをこんな目に遭わせているのに?」
ヴァレリウスの声には、僅かに苛立ちに似た色が滲んだ。今までの余裕ある笑みの下から、初めて本音めいたものが覗いた瞬間だった。
「彼のせいではありません。守ろうとしてくれた結果です」
即座に返された言葉に、ヴァレリウスは一瞬、探るような眼差しをルイナへ向けた。
まるで、その言葉の真偽を見定めようとするかのように。だが、ルイナの表情には一片の揺らぎもなかった。
「……なるほど。存外、情が深いようだ」
呟くように零された言葉には、皮肉とも興味とも取れる響きがあった。
椅子の背にゆったりと身を預け直しながら、ヴァレリウスは窓の外へと視線を流す。
橙色に染まった空を眺める横顔には、これまでの柔和な仮面とはまた違う、冷たい思案の色が一瞬だけ差し込んだ。
「まあいい。今日のところは退散するとしよう」
そう言って立ち上がると、ヴァレリウスは籠の位置を軽く整えながら、名残惜しむような視線を寝台の上のルイナへ向けた。
「果物は毒見の必要もない、正真正銘の見舞いの品だ。安心して口にするといい」
冗談めかした言葉の裏に、微かな含みが感じられる。ルイナはその言葉に何も返さず、ただ静かに視線を返すだけだった。
扉に向かって歩き出したヴァレリウスは、把手に手をかけたところで一度だけ振り返った。
「また会おう、ルイナ。きみのような人は、そうそういないものでね」
言い残すと、優雅な足取りのまま部屋を出て行く。扉が静かに閉まった後も、その残り香のような不穏な気配だけが、しばらく部屋の中に漂っていた。
ルイナは詰めていた息を、ゆっくりと吐き出す。
窓の外では陽が完全に沈みかけ、橙色の光が藍色の闇に呑み込まれていくところだった。
籠に盛られた果実の艶やかな色さえ、今はどこか不気味に映る。
(あの男、これからも何かを仕掛けてくるつもりね)
胸の内で呟きながら、ルイナは静かに寝台へ体を沈めた。
疲労した体が休息を求めているのは確かだったが、頭の芯だけは冷えたまま冴え渡っている。
ヴァレリウスの瞳の奥に見た昏い光が、瞼を閉じてもなお、しばらく脳裏から離れなかった。




