過保護
お茶会での一件に、毒蛇の騒動が重なってからというもの、ハオランの様子は明らかに変わっていた。
朝、井戸へ水を汲みに行くだけのはずが、いつの間にか隣を歩いている。
厩舎でエルシオンの世話をしていれば、扉の陰からそっと様子を窺う視線に気づく。
夜、書類仕事のために遅くまで灯りを点けていれば、様子を見に来たと称して、幾度となく部屋を覗きに来た。
「もう休んだ方がいいんじゃないか」
「まだ終わってないの。あなたこそ、先に休んで」
「いや、俺も起きとくよ」
そう言って、結局部屋の隅で腕を組んだまま居座るハオランに、ルイナは筆を止めて小さく息を吐いた。
心配してくれる気持ちは有り難いのだが、四六時中どこかしらから視線を感じる生活には、さすがに息が詰まりそうになっていた。
「あなた、最近ずっとこんな調子だけど」
「何がだよ」
「片時も目を離さないつもりなの」
「悪いか」
即座に返ってくる言葉に、迷いは一切なかった。ルイナは眉を僅かに寄せながら、筆を置く。
「執務にも支障が出るわ」
「お前が無事な方が大事だろ」
真剣な眼差しでそう言い切られると、ルイナはそれ以上言葉を継げなかった。
過保護だと窘めたい気持ちと、その根底にある想いを無下にはできない気持ちが、胸の中でせめぎ合っている。
結局、その日もハオランは部屋の隅に座り込んだまま、彼女が筆を置くまで動こうとはしなかった。
そんな日々が数日続いたある午後、ルイナは台所でリンナと共に夕餉の下拵えをしていた。
人参の皮を剥くリンナの手元は、いつになく危なっかしい。歳の割に不器用なその仕草を横目で見ながら、ルイナはふと切り出した。
「リンナ、最近のハオランなんだけど」
「ん〜? なにー?」
「四六時中、私のことを見張ってるみたいなの。井戸に行くにも、厩舎に行くにも、必ず誰かの目があるというか」
小さく苦笑しながら零すと、リンナは包丁を持つ手を止め、ああ、と得心したように頷いた。
「それ、お義姉ちゃんのためっていうより、お兄ちゃんがやりたいだけだよ」
あっけらかんとした答えだった。ルイナは思わず手を止め、リンナの顔を見つめる。
「……どういうこと」
「お兄ちゃんね、昔から心配性なの。あたしが小さい頃、木登りしただけで半泣きになって降りて来いって叫んでたし」
くすくすと笑いながら、リンナは人参の皮を今度は丁寧に剥き始めた。
「多分、自分が動いてないと落ち着かないんだと思う。お義姉ちゃんが心配なのは本当だろうけど、それ以上に、自分自身が安心したいんじゃないかな」
その言葉に、ルイナは暫く黙り込んだ。
台所に漂う出汁の匂いと、火にかけられた鍋のくつくつという音だけが、しばらくの間辺りを満たしていた。
そういう面も、確かにあるのかもしれない。
あの纏わりつくような視線の理由を、リンナの一言だけで測りきれるとは思わなかったが、少なくとも一つの見方として、心のどこかに留めておく価値はありそうだった。
その一言だけでは拭いきれない、別の懸念が胸の奥に残っていた。
もしかすると、ハオランは自分を責めているのではないか。
お茶会での嫌がらせも、毒蛇の一件も、元を辿ればメイファがハオランに執着していることに端を発している。
自分がこの地に嫁いで来なければ、あるいはハオランと夫婦にならなければ、こんな危険に晒されることもなかったはずだ。
もし彼が、それを自分のせいだと思い込んでいるのだとしたら──過保護なまでの心配の裏には、そんな罪悪感が潜んでいるのかもしれない。
「……ねえ、リンナ」
「なあに?」
「ハオランは、私が狙われているのは、自分のせいだと思っているのかしら」
思わず零れたその問いに、リンナは手を止め、少し困ったように眉尻を下げた。
「うーん……そこまでは、あたしにもわかんないけど」
言葉を選ぶように、彼女は続ける。
「でも、お兄ちゃんって、そういうところあるからなぁ。何かあると、すぐ自分のせいにしちゃうの。お母さんが死んだ時も、自分がもっと強かったらって、ずっと言ってたし」
さらりと零されたその一言に、ルイナの胸が僅かに痛んだ。
ホン家が抱える古い傷のことを、彼女はまだ全てを知っているわけではない。
しかしその断片に触れるたびに、ハオランという人間の輪郭が、また少しだけ明瞭になっていく気がした。
自分がしっかりせねばという強迫めいた思いが、この一家の根底に、静かに……確かに横たわっている。
母を守れなかった過去への悔恨。
それが今、形を変えて、目の前のルイナへの過保護として表れているのだとすれば。
「……そう」
短く相槌を打ちながら、ルイナは再び包丁を手に取った。
人参を切る単調な作業に集中しようとしても、思考はどうしても、あの纏わりつくような視線の意味へと戻っていってしまう。
守られることに甘んじているだけでは、きっと彼の中にある罪悪感を、いつまでも取り除けないままにしてしまう。
かといって、言葉一つで簡単に解けるほど、人の心の傷は単純にはできていないだろう。
俎板の上で、人参が規則正しい音を立てて切られていく。今はまだ、答えを急ぐべきではないのかもしれない。
「お義姉ちゃん?」
黙り込んでしまったルイナを、リンナが不思議そうに覗き込んでくる。
「なんでもないわ」
小さく笑みを返しながら、ルイナは手元の作業に意識を戻した。夕餉の支度を整える手つきはいつも通り淀みなかったが、その胸の内では、まだ言葉にならない想いが、静かに渦を巻き続けていた。
不意に、廊下の方から足音が響いてきた。振り返ると、いつの間にか戸口に、ハオランが立っていた。
「……何してんだ、二人で」
何の気なしに問いかけてくるその視線は、既にルイナの手元へと注がれている。包丁の刃、俎板の上の人参、そして彼女の指先。
何一つ見逃すまいとするようなその眼差しに、ルイナは小さく息を呑んだ。




