重なる想い
「……何してんだ、二人で」
戸口に立つハオランの視線が、包丁を持つルイナの手元へと注がれている。その眼差しの奥に潜む落ち着きのなさに、ルイナは小さく息を呑んだ。
まただ、と思う。危険なものなど何一つないはずのこの台所にすら、彼は無意識に警戒の色を滲ませている。
「夕餉の下拵えをしていただけよ」
努めて平静に答えると、ハオランは僅かに肩の力を抜いたものの、視線は依然として油断なくルイナの周囲を確かめていた。
リンナがその空気を察したのか、包丁を置いてわざとらしく伸びをする。
「あたし、お風呂の準備してくるー」
すたすたと台所を出ていく妹の後ろ姿を、ハオランは呼び止めることもせずに見送った。
二人きりになった空間に、鍋の煮える音だけが響いている。
「……ハオラン」
ルイナは包丁を置き、濡れた手を布巾で拭った。まっすぐにハオランを見据える。
「少し、話したいことがあるの」
その声色に、ハオランは何かを察したのか、僅かに表情を硬くした。
夕餉を終え、リンナが早々に自室へ引き上げた後、二人は縁側に並んで座っていた。
夜風が肌を撫で、庭先の草木が微かに揺れる音だけが、静けさを埋めている。
空には星が瞬き始め、遠くで虫の音が控えめに響いていた。
しばらくの沈黙の後、ルイナは静かに口を開いた。
「あなた、最近ずっと気を張っているでしょう」
「……悪いか」
前と同じ答えが返ってくる。その声には、以前ほどの強さがなかった。
ルイナは膝の上で手を組み、慎重に言葉を選ぶ。
「あなたが心配してくれるのは、有り難いと思っているわ。でも……もしかして」
一拍、間を置く。夜風が桃色の髪を微かに揺らした。
「私が狙われているのは、自分のせいだと思っていない?」
その問いに、ハオランの肩が僅かに強張った。
答えは返ってこない──その沈黙こそが、何よりも雄弁な返答だった。
「……ハオラン」
「……ああ、そうだよ」
長い沈黙の末、絞り出すような声が返ってきた。
星明かりに照らされたその横顔は、これまで見たことのないほど頼りなく映る。
「メイファが執着してるのは、俺だ。お前に何かあるたび、原因を辿れば、結局は俺に行き着く。茶会も、あの毒蛇も……全部、俺のせいだ」
握りしめた拳が、膝の上で小さく震えていた。
「お前がこの地に来なけりゃ……いや、俺と結婚さえしなけりゃ、こんな目に遭うこともなかった」
苦しげに紡がれるその言葉には、長らく胸の奥に押し込めてきたであろう自責の念が、確かな重みをもって滲んでいた。
ルイナはその横顔を、静かに見つめる。
想像していた通りだった。
実際に言葉として聞くと、思っていた以上に胸が締めつけられる感覚があった。
「ハオラン」
もう一度、名を呼ぶ。今度は、はっきりとした声だった。
「私は、あなたと結婚したことを、後悔したことは一度もないわ」
「でも……」
「最後まで聞いて」
ルイナはハオランの方へ体を向け、真っ直ぐに視線を合わせた。
「危険があるのは、あなたのせいじゃない。悪意を持って私を傷つけようとする人間がいる、それだけのこと。あなたが背負う必要のある罪ではないわ」
淡々とした、けれど確かな芯を持つ声だった。ハオランは唇を噛み、俯く。
「そんな簡単に、割り切れるかよ」
「簡単だなんて言ってない」
ルイナは静かに首を振った。
「私だって、辛くないわけじゃない。ドレスを汚された時も、崖から落ちた時も、悔しかったし、痛かった。でも、それとあなたのせいだということは、まったく別の話よ」
言葉を切り、彼女は暫く星空を見上げた。夜の帳が深くなるにつれ、瞬く光の数が増えていく。
「あなたが自分を責めることで、私が救われることは一つもないの。むしろ、そんな顔をされる方が、よほど辛いわ」
囁くように紡がれたその一言に、ハオランの喉が微かに鳴った。彼は暫く何も言わず、膝の上に置かれた拳をじっと見つめていた。
「……俺は」
やがて、掠れた声が漏れる。
「昔から、そうなんだ。大事な人を、ちゃんと守れたことがない。お袋を、守ってやれなかった。まだガキだったから、何もできなかった。それでも……もっと強かったら、何か変わったんじゃないかって、ずっと思ってる」
その声には、これまで聞いたことのない脆さが滲んでいた。
「リンナは、母親のぬくもりを知らずに育った。あいつが寂しそうにする度に、俺がしっかりしなきゃって、そう思ってやってきたんだ。……お前にまで、同じ思いはさせたくないんだ」
震える声で紡がれるその告白に、ルイナは静かに手を伸ばし、ハオランの拳をそっと包み込んだ。
硬く握りしめられていた指先が、その温もりに触れて、僅かに緩んでいく。
「あなたのせいで、お母様を亡くしたわけじゃないわ。当時のあなたは、まだ子供だったのでしょう。それに」
ルイナの声が、僅かに柔らかくなる。
「私は、あなたに守られるだけの人間じゃない。あなたの背中を、私が守ることだってできる」
その言葉に、ハオランは弾かれたように顔を上げた。
星明かりに照らされたルイナの瞳には、迷いのない強さが宿っている。
「私たちは、夫婦でしょう。守る側と守られる側で、分かれる必要なんてないわ。お互いに、背中を預け合えばいい」
「……ルイナ」
かすれた声で名を呼ぶハオランに、ルイナは一瞬、言葉に迷うように視線を伏せた。
胸の内にある想いを、どう言葉にすればいいのか。分からないまま、それでも何か伝えなければという焦りだけが募っていく。
「私は……」
言いかけて、止まる。
夜風が沈黙を埋めるように、二人の間を静かに通り抜けていった。
しばらくの逡巡の後、ルイナはようやく、絞り出すように言葉を継いだ。
「私は、あなたと結婚したことを、一度も後悔していないわ」
淡々とした口調だったが、その声には確かな重みがあった。
「これから先も、後悔するつもりはない。それだけは、はっきり言えるの」
その言葉が、夜の静寂に染み込んでいく。ハオランの目が、驚いたように見開かれた。何を意味する言葉なのか、彼の中で咀嚼するまでに、僅かな間があった。
「……それって」
「それ以上は、聞かないで」
食い気味に遮る声には、僅かな狼狽が滲んでいた。
頬に上る熱を誤魔化すように、ルイナは視線を庭先へと逃がす。これ以上言葉を継げば、自分でも制御できない何かが溢れ出してしまいそうだった。
長年、感情を面に出さぬよう律してきた分別が、辛うじてその一線を押し留めている。
ハオランはしばらくの間、呆然とした様子でルイナの横顔を見つめていた。
やがて、その口元に、堪えきれないような笑みが浮かぶ。
「……分かった」
それ以上追及することなく、ハオランは静かに頷いた。
今、この場で全てを聞き出す必要はない。むしろ、彼女がそこまで言葉にしてくれたということ自体が、これまでにない一歩なのだと、彼は理解していた。
「ありがとな」
短い一言だったが、その声には、先ほどまでの張り詰めた緊張が、幾分か和らいでいるのが感じ取れた。
ルイナは小さく頷き返すことしかできなかった。
頬の熱はまだ引いておらず、視線を合わせる勇気もまだ持てずにいる。
しばらくの沈黙の後、ハオランがふっと息を吐いた。
「……こんなこと言うと、また心配性だって怒られるかもしれねぇけどさ」
「何よ」
「これからも、お前のこと守らせてくれよ。俺自身のためにも、な」
その言い方に、ルイナは思わず小さく吹き出した。張り詰めていた空気が、僅かに緩む。
「ええ。その代わり、私にもあなたを守らせて」
「上等だ」
軽口混じりに笑い合う二人の間には、もう先ほどまでの重苦しさはなかった。
それでも、根本にある不安の種そのものが、完全に消え去ったわけではない。メイファの執着も、その裏に潜む何者かの影も、依然として色濃く残ったままだ。
それでも、二人でその不安に向き合っていけるという確かな手応えだけは、今夜、確かにこの手の中に残っていた。
夜風が二人の髪を優しく揺らし、頭上では星々が変わらぬ輝きを湛えている。
虫の音だけが、穏やかにその夜を包み込んでいた。言葉にしきれなかった想いの続きは、まだ二人の間に、そっと預けられたままになっていた。




