毒蛇の道
シャオ家の執務室には、書類の擦れる音と、換気のために開けられた窓から吹き込む潮風だけが満ちていた。
メイファは机の向こうに座る父、コウレンへ向き直り、新しい取引先について淀みなく報告を終えたところだった。
契約の条件、輸送経路、想定される利益率。準備してきた資料を一通り説明し終えると、コウレンは眼鏡の奥から一瞥をくれる。
「まあまあの出来だ」
短い評価だった。褒め言葉と呼ぶには乏しく、けれど貶しているわけでもない。
長年その顔色を窺い続けてきたメイファには、それが父にとって最上級に近い賛辞であることが分かっていた。
「下がっていい」
用が済んだとばかりに視線を書類へ戻すコウレンに一礼し、メイファは静かに執務室を後にした。
綺麗に磨き上げられた廊下を歩きながら、メイファは小さくため息をつく。窓から差し込む午後の光が、床に落ちる自分の影を長く伸ばしていた。
コウレンは、ひどく合理的な男だった。娘であっても、使えないと判断すれば即座に切り捨てる。
そういう冷徹さを、幼い頃から幾度となく見せつけられてきた。
両親の結婚もまた、政略によるものだったと聞いている。
父は仕事にばかり没頭し、家庭を顧みることは滅多になかった。そんな夫に愛想を尽かした母は、いつしか別の男を作り、屋敷を出て行った。コウレンはそれを、探そうともしなかった。
母が去った日のことを、メイファは今でも鮮明に覚えている。
がらんとした部屋、開けっ放しの衣装棚、そして誰もいない食卓。あの日から、この家に温もりというものは存在しなくなった。
(私もこのままでは、見知らぬ男へ嫁ぐ羽目になる)
廊下を歩きながら、苦い思考が胸を過ぎる。
(政略結婚なんて、真っ平ごめんよ)
父が何を考えているかは、既に薄々察していた。
シャオ商会をさらに拡大させるため、他国の裕福な商人の元へ娘を嫁がせる。それが父の描く、次なる一手なのだろう。愛情など介在しない、あくまで事業拡大のための駒として。
それを阻止するには、ハオランとの婚姻を成立させるより他にない。
だからこそ、一刻も早くあの女──ルイナを、彼から引き剥がす必要があった。
(ドレスを汚されても、懲りてないみたいね)
自室へと向かう足取りの中で、メイファの瞳に昏い光が宿る。
(次の作戦を考えなくちゃ。ガレスにも、協力してもらわないと)
その頃──。
砦では巡回パトロールの準備が進められていた。
ルイナはエルシオンの鞍に足をかけ、軽やかに跨る。手綱を握り直したところへ、ノアが欠伸を噛み殺しながら歩み寄ってきた。
「ルイナ、ラト村へ行く山道の途中に、不審者を見たって情報が入った」
「そう、見に行ってみる」
即座に判断を下すと、ルイナはノアへ視線を向けた。
「あなたも、ついて来て」
「えっ、俺も?」
「私がいないと、すぐサボるでしょう」
「あ、バレた?」
しれっと返すノアに、ルイナは表情を変えぬまま釘を刺す。
「バレバレよ。怠慢は許さないわ」
観念したように肩をすくめると、ノアは渋々厩舎から自分の馬を引き出し、跨る。ルイナを先頭に、二騎は砦を出て、目的の山道へと向かっていった。
山道に差し掛かった頃には、木々の葉が生い茂り、日差しが遮られて薄暗い空気が漂い始めていた。
土の匂いと、湿った落ち葉の匂いが濃くなる。蹄が石を蹴る乾いた音だけが、静かな山道に規則正しく響いていた。
その静寂を、不意にエルシオンの荒い嘶きが切り裂いた。
「エルシオン!?」
驚いたように暴れ始めたエルシオンの背に、ルイナは咄嗟にしがみつく。
「どうしたの、落ち着きなさい!」
宥める声も届かぬまま、エルシオンは完全にパニックに陥っていた。
前脚を高く振り上げ、身をよじるように激しく暴れ回る。太い首が何度も左右に振られ、その振動が鞍を通して全身に突き上げてきた。
手綱を握る掌が汗で滑り始める。指の間から皮の感触が逃げていく感覚に、ルイナは反射的に太腿で鞍を締め付けたが、エルシオンの巨躯が生み出す力の前では、それも焼け石に水だった。
ぐらり、と視界が大きく傾いだ。
胃の腑が、内側から浮き上がるような感覚に襲われる。
手綱を握っていたはずの指先が、いつの間にか空を切っていた。
景色が縦に回転し、青々とした木々の梢と、乾いた土の色が交互に視界を占めては消えていく。
呼吸をしようとした瞬間、喉の奥が固く締まって、うまく息が吸えない。
「ルイナ!!!!」
ノアの絶叫が、やけに遠くから聞こえた気がした。
体が宙に投げ出されてから地面に触れるまでの、ほんの一瞬。
それがひどく引き延ばされたように、ルイナの意識の中では長く感じられた。
斜面が迫ってくるのが、まるで自分の意志とは無関係にゆっくりと再生される絵のように映る。
背中から、鈍い衝撃が突き抜けた。
息が一瞬で押し出され、声にならない呻きが喉から漏れる。
しかし体はそこで止まらず、勢いのまま斜面を転がり続けた。
木の根が肩を抉り、小石が頬を掠め、乾いた土埃が鼻腔に流れ込んでくる。
腕を庇おうとしたが間に合わず、肘から先が痺れるような痛みに包まれた。
何度目かの回転の途中、額を鋭い何かに強かに打ち付ける。
かっと熱いものが視界の端を伝う感覚があり、それが自分の血だと理解するまでに、僅かな間があった。
木の根や小石が肩や腕を容赦なく打ち続け、鋭い痛みが幾度となく走る。
ようやく体の回転が止まった時には、口の中に土と血の味が広がっていた。
耳の奥で自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いている。
「うっ……」
呻き声が、掠れた喉から漏れる。
ノアは即座に馬から飛び降り、斜面を駆け下りようとして──その視界の隅に、何かが素早く動く気配を捉えた瞬間、彼の体は反射的に動いていた。
腰から下げていた剣を抜き放ち、迷いなく振り下ろす。
朦朧とする意識の中、上から荒々しい足音と、何かが地面に落ちる鈍い音が聞こえた。
エルシオンが甲高く鳴きながら、慌てた様子で斜面を駆け下りてくる。
「ルイナ、大丈夫か!?」
遅れてノアが駆け寄ってきた。片手には、まだ血の滴る剣を提げている。
「ノア……問題ないわ」
痛みを堪えながら答えるルイナに、ノアは険しい顔で、もう片方の手に持っていたものを掲げてみせた。
赤と黒の禍々しい斑模様を纏った、いかにも毒々しい色合いの蛇だった。既に首を切り落とされ、力なく垂れ下がっている。
「エルシオンが暴れたのは、こいつの仕業だ」
「蛇……」
ルイナは息を呑む。
「だから、エルシオンがあんなに驚いて……」
ヨロヨロと立ち上がった彼女に、エルシオンが申し訳なさそうに鼻先をすり寄せてくる。
まるで「ごめんね」と謝っているかのような仕草に、ルイナは震える手でその首筋をそっと撫でた。
「……外来種だな、こいつは」
蛇の死骸を見下ろしながら、ノアが低く呟く。
「え?」
「意外にも、カルディアには毒蛇は生息してないんだ」
「よく知ってるのね」
驚いたように問うルイナに、ノアは気怠げに肩をすくめた。
「昔、暇潰しに読んだ地理の書物に書いてあっただけだ。うちの兄貴が学者気取りで、家中に小難しい本が転がっててな。読む物がなくて、仕方なく目を通したんだ」
自嘲めじりに答えるその言葉には、普段隠している地頭の良さが、ほんの少しだけ滲んでいた。
その言葉に、ルイナの表情が僅かに強張った。
「それじゃ……どこかで飼われていた? それとも……」
「ここらで見た不審者っつーのが気になるな」
考え込むようにノアが眉根を寄せる。だがすぐに、その視線をルイナの額の傷へと移した。
「それより、診療所行くぞ。怪我してるだろ」
「このくらい平気」
「顔から血出しておいて何言ってんだよ。ほら、いくぞ」
有無を言わせぬ調子でルイナの腕を支えると、ノアは半ば強引に彼女を診療所へと連れて行った。
診察の結果、骨折はないものの、強い打撲が全身に見られるとのことだった。切れた額の傷は丁寧に縫合され、数日は安静にするようにと医師から告げられる。
「ルイナ!!」
診療所を出たところで、慌てた様子のハオランが駆けつけてきた。
騎士団の兵士から話を聞き、居ても立ってもいられなかったのだろう。
息を切らしながら、ルイナの姿を頭からつま先まで確かめる。
「大した怪我ではないわ」
ルイナがそう伝えても、ハオランの表情から心配の色が消えることはなかった。
「怪我なんて、すぐ治るわ。それよりも、エルシオンが無事でよかった」
そう言いながら、ルイナはエルシオンの首筋にそっと手を這わせる。
「毒蛇に噛まれていたら、大変だった」
「……毒蛇?」
聞き慣れない単語に、ハオランが眉をひそめる。
「エルシオンが毒蛇に驚いて暴れたの。それで、私は振り落とされて斜面を転がり落ちた」
「問題なのは、その後だ」
横から口を挟んだノアの声には、これまでにない硬さがあった。
「カルディアに毒蛇は生息していないってとこだ」
「……人為的なものか?」
ハオランの声が、一段と低くなる。
「そうとは限らない」
ノアは慎重に言葉を選びながら続けた。
「ペットとして飼われていたものが逃げ出したか、誰かが捨てたのか……ただ一つ言えるのは、俺らが今日向かった先に、不審者情報が入ってたってことだ」
「…………」
ハオランの拳が、無言のうちにきつく握られる。
「ハオラン……」
その様子に気づき、ルイナが静かに声をかけた。
ハオランは何も答えず、ただ険しい表情を崩さない。
「とくに他意はないんだが」
ノアが慎重な口調で切り出す。
「一応聞いておくぜ。シャオ商会なら、毒蛇の輸入くらい容易いよな?」
「ああ」
即座に頷くハオランに、ルイナは慌てて口を挟んだ。
「待って。そうと決まったわけじゃない」
冷静な声だった。
「メイファはカルディアでは知らない人が珍しいくらい。そんな人が、何もない山道にいれば目立つと思うのよね」
「金積んで誰かにやらせることくらい、なんて事ねーよ」
吐き捨てるように言うハオランに、ノアが小さく肩をすくめる。
「まっ、証拠がない限り、しょっぴく訳にはいかないよな。疑わしきは罰せず、ってな」
その言葉を最後に、三人はそれぞれの帰路につくことになった。ノアと別れ、ルイナとハオランは並んで屋敷への道を歩いていく。
隣を歩くハオランは、いつまでも浮かない顔をしていた。
夕暮れの薄闇が二人の影を長く伸ばす中、彼は何かを堪えるように、ただ黙って前だけを見つめ続けていた。




