消してやるわ
茶会の前日の事だった。
服飾店の硝子ケースには、色とりどりの宝石があしらわれた装飾品が並んでいた。
メイファはその中の一つ、深紅の宝石をあしらった耳飾りを手に取り、光にかざしていた。
数日後に控えた茶会の装いに合わせようかと吟味する目には、いつもの商人としての落ち着きが宿っている。
「メイファちゃん」
親しげな声に振り返ると、恰幅の良い店主が奥から顔を出していた。
「昨日ね、ハオランくんとルイナちゃんが来たんだよ」
「え」
耳飾りを持つ指先が、僅かに強張った。声の調子が一段低くなったことに、店主は気づく様子もなく、機嫌よく話を続ける。
「目の前でイチャつき出して困ったよ、本当。でも、仲がいい夫婦だよね」
軽い調子の惚気話のつもりだったのだろうが、メイファにとっては、その一言一言が、静かに胸を抉っていく刃のようだった。
表情を取り繕う余裕すらなく、彼女は硬い声で問い返す。
「……二人は、何しにここに来たの」
「ドレスを買いに来たのさ」
店主は嬉しそうに、両手を広げて続けた。
「ハオランくんが選んだドレスがすっごくルイナちゃんに似合っててねー! いやぁ、ハオランくんはセンスがいいね! ルイナちゃんに似合うものをよくわかってるよ!」
「ハオランが……選んだ……」
呟く声が、掠れて消えていく。
「ルイナちゃんのあらぬ噂聞いたけど、あのイチャつきっぷりを見たら、バカバカしくなっちゃうね。あんなに仲良しなのに、他の男に目がいくなんてありえない!」
ガハハと豪快に笑う店主の言葉は、もうメイファには届いていなかった。
耳飾りを握る手から、力が抜けていく。放心したような表情のまま、彼女は会釈もそこそこに、店を後にした。
「ハオランが……ドレスを選んだ……あの女のために……ハオランが……」
ヨロヨロと力なく歩きながら、譫言のように繰り返す。
頭の中で、店主の言葉が何度も反響していた。
あの日、自分に対しては目もくれず、まるで庇うように腕を振り解いたハオラン。
その彼が、あの女のためにドレスを選び、真剣な眼差しで似合うと言った──そのことを想像するだけで、腹の底から黒い感情がせり上がってくる。
「絶対、許さない……!」
俯いていた顔を、メイファは静かに上げた。その瞳は既に、先ほどまでの動揺の色を失い、代わりに嫉妬と怒りだけが渦巻いている。
明日に控えた茶会。招いた令嬢たちを使い、ルイナに恥をかかせてやるつもりだった。
もとは、社交界に不慣れなことを軽く笑い者にする程度の企みだったが、今、腹の底に渦巻くこの黒い感情があれば、もっと徹底的にやれる。
ハオランが選んだというあのドレスを、この手で汚してやれたなら──そう思うだけで、沈んでいた気持ちが昏く昂っていくのを感じた。
そして、迎えた茶会当日。企みは、決して思い通りにはいかなかった。
あの女は最後まで毅然とした態度を崩さず、屈辱に打ちひしがれる姿など、一度として見せることはなかった。
それでもメイファにとっては十分な成果だった。狙い通り、ハオランが選んだというあのドレスを汚してやれたのだから。
茶会の翌日の夕刻、自室で休んでいたメイファのもとへ、侍女が慌てた様子で駆け込んできた。
「メイファ様。ハオラン様がいらっしゃいました」
その名を聞いた瞬間、メイファの胸に淡い期待が過ぎった。もしかすると、自分に会いたくて来てくれたのかもしれない。
そんな都合の良い想像を振り払う間もなく、彼女は「通して」とだけ告げる。
やがて部屋に足を踏み入れてきたのは、目を吊り上げて明らかに怒りを滲ませたハオランだった。
「昨日、ルイナが汚れて帰って来たんだけど、何があった」
前置きも挨拶もない、鋭い声だった。その気迫に、メイファは一瞬たじろぎながらも、すぐに商人らしい滑らかさで表情を整える。
「私の友達が、手を滑らせてお茶をルイナさんへ溢してしまわれたのよ」
「髪の毛まで濡れてたんだぜ? 頭からぶっかけなきゃ、ああはならねーだろ」
低く抑えた声だったが、その奥に燃える怒気は隠しようもない。メイファは目を伏せ、困ったように眉根を寄せてみせる。
「私、庭の様子を見に行ってたから、その場にいなかったのよ」
困ったように眉根を寄せながらも、メイファの声は淀みなく続いた。
「それに、あの場にいた誰に聞いても、事故だったと口を揃えて言うはずだわ。故意にやったという証拠が、どこにあるのかしら」
理路整然とした返しだった。感情に任せて反論すればいくらでも突けたはずの隙を、彼女は先回りして塞いでいる。
ハオランは一瞬、言葉に詰まった。
「証拠なんて……お前が仕組んだのは分かってんだよ」
「わかっている、というのは貴方の心証でしょう。証言も証拠もなく決めつけられたのでは、こちらこそ心外だわ」
「主催はお前だろ!? 何か起きたなら、お前が責任とらないでどうすんだ!!」
声を荒げるハオランに、メイファは僅かに肩を震わせながらも、あくまで冷静さを装って続けた。
「それは、申し訳ないと思っているわ」
そう言いながら、彼女の口元には、消しきれない微かな笑みが滲んでいた。
「ドレスを弁償してほしいなら、もっと煌びやかで高価な物を用意するわ。正直……あの簡素なドレスでは、社交界の笑い者だもの」
「そういう問題じゃねぇだろ!!」
叩きつけるような怒声が、部屋の空気を震わせる。だがメイファは動じることなく、なおも言葉を重ねた。
「友達はわざとやったんじゃないと言ってるの。初対面の相手にお茶をかける理由なんてないでしょう?」
「本人から謝罪がないってどういう事だよ!?」
「それなら後日、本人を連れて謝罪させるわ」
投げやりとも取れる答えに、ハオランの表情が一段と険しくなる。しばしの沈黙の後、彼は静かに、決定的な声で告げた。
「……もう、これっきりにしてくれ」
「え」
「もう二度とルイナに近づくな」
その一言が、メイファの胸を鋭く貫いた。表情が凍りついたまま、彼女は必死に言葉を絞り出す。
「騎士団の備品を調達するには、シャオ商会の力が必要でしょう?」
「俺かノアを通してくれ。とにかく、もうルイナに関わるな」
有無を言わせぬ響きだった。メイファの唇が、僅かに震える。
「……なんでよ」
「は?」
「政略結婚なんでしょ!?」
堰を切ったように、メイファの声が跳ね上がった。
「親が勝手に決めただけの結婚相手に、なんでそんなに尽くせるわけ!?」
「メイファ、あのな……」
「私の方が、ずっとずっとハオランを愛してるのに!!」
涙の滲んだ瞳で、メイファはハオランを睨みつける。
「なんで私じゃ駄目なの!? ハオランはあの女に騙されてるのよ! いい加減目を覚まして!! あなたを一番愛してるのは、私なの!!」
叫ぶように紡がれたその言葉には、長年抱え続けてきた執着の全てが滲んでいた。
しばらく会っていないうちに、大人になったのだと思っていたのは、どうやらハオランの勘違いだったらしい。
人は、そう簡単には変わらない。
積み重ねてきた想いの歪みは、数年の歳月程度で消えるものではなかった。
ハオランは、その様子を静かに見つめていた。
「正直に言うとな」
低く、落ち着いた声だった。
「騙されていたとしても、それでもいいんだよ」
「はぁ……? 何よ、それ」
「俺はルイナを信じたいと、愛したいと思ったから夫婦になった。嫌なら、とっくに断ってる」
そこで一拍置き、彼はまっすぐにメイファを見据えた。
「……お前みたいにな」
その一言に、メイファの顔が瞬く間に赤く染まる。かつて自分から結婚を申し込み、そしてハオランに拒絶されたあの日の記憶が、鮮明に蘇っていた。忘れたつもりでいた屈辱が、抑えていた場所から一気に噴き出してくる。
「確かに始まりは、親が決めた結婚だった」
構わずハオランは続けた。
「でもきっかけなんて、どうだっていいだろ。俺はルイナと結婚できてよかったと思ってる」
「ハオ、ラン……」
震える声で名を呼ぶメイファに、ハオランは一切の迷いを見せなかった。
「俺は、ルイナを愛してる」
はっきりと、迷いなく言い切られたその言葉が、部屋の中に静かに響いた。
「俺は、お前を愛さない」
畳みかけるように、ハオランは続ける。
「ルイナを傷つけるようなら、容赦しないからな」
それだけ告げると、ハオランは踵を返し、振り返ることなく部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、やけに大きく耳の奥に残る。
一人取り残されたメイファの目から、堪えきれなかった涙が溢れ落ちた。
奥歯をギリギリと噛み締め、爪が食い込むほどきつく拳を握り締める。
全身が震えるほどの屈辱と怒りが、腹の底から込み上げてきた。
「消してやるわ……」
低く、地を這うような声だった。
「あの女狐……絶対、許さない……!」
涙に濡れた瞳の奥で、何か取り返しのつかない決意が、静かに──確かに芽生え始めていた。




