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汚されたドレス

お茶会当日、ルイナは新調したドレスに袖を通し、鏡の前でその出来栄えを確かめていた。


黒地に紅の刺繍が映える生地は、光の加減によって微かに色合いを変える。裾の切れ込みから覗く白い脚に、鏡越しの自分がどこか他人のように映る。


普段の騎士装束とはまるで違う自分の姿に、少しの気恥ずかしさと、それを上回る落ち着きが同居していた。


あの日、ハオランが見惚れたと言ってくれたことを思い出すと、胸の奥にじんわりとした温もりが灯る。


それだけで、慣れない社交の場へ向かう足取りが幾分か軽くなった。


会場となったシャオ家の別邸は、辺境にしては珍しいほど瀟洒な造りをしていた。


白い柱に囲まれた中庭には、丸いテーブルがいくつも並べられ、色とりどりのドレスに身を包んだ令嬢たちが優雅に談笑している。


硝子の食器が触れ合う涼やかな音、焼き菓子の甘い香り、そして時折響く控えめな笑い声。


それらすべてが、ルイナにとってはどこか馴染みの薄い光景だった。


案内された席に着いた瞬間から、幾つもの視線が絡みついてくるのを感じた。


値踏みするような、あるいは珍獣でも見るような目つき。表立って何かを言われるわけではないが、その視線の粘つきだけで、この場が歓迎の空気とは無縁であることが伝わってくる。


ルイナは表情を変えることなく、静かに背筋を伸ばして座った。


「あの方が噂の……」


近くのテーブルから、抑えきれない囁き声が漏れ聞こえてくる。声を潜めているつもりなのだろうが、聞こえよがしなその調子には、隠す気などまるでないことが滲んでいた。


「辺境の団長様なんですって。鞭を握って、殿方みたいに戦われるとか」


「まあ、恐ろしい」


小さな笑い声が幾つも重なる。ルイナは黙って茶に口をつけた。


鞭を握る女という肩書きへの好奇と侮蔑の混ざった視線には、これまで幾度となく晒されてきている。今更、この程度で心を波立たせるほど脆くはない。


会話の輪が徐々に広がっていく中で、令嬢たちの話題は、それぞれの家柄や、纏っている宝石の産地、最近仕立てたばかりだという最新のドレスの話へと移っていった。


誰かが自慢げに袖の刺繍を見せれば、周囲が惜しみない賛辞を送る。 


誰かが実家の領地の広さを語れば、感嘆の声が上がる。


その輪の中に、ルイナが加わる隙間は最初から用意されていなかった。


「団長様は、社交界にはあまりいらっしゃらなかったのかしら」


一人が、笑みを崩さぬまま水を向けてくる。


「王都にいた頃は、騎士団の任務が中心だったから」


「まあ、それでは殿方に混じって、随分と忙しくされていたのね。……お可哀想に」


同情めいた言葉の裏に、隠しきれない優越の色が滲む。周囲からも、くすくすとした忍び笑いが漏れた。誰も彼もが、ルイナという存在の異質さを面白がっているようだった。


「そのドレス、少し簡素すぎませんこと?」


やがて話題は、正面からルイナの装いへと向けられる。扇子の陰で口元を隠しながら、一人の令嬢が笑みを浮かべた。

その視線は、ルイナが纏うドレスの上を這うように動いていた。


「この場にはいささか、不似合いかしら」


「あら、安物には見えないけれど……それにしては、少し野暮ったいわね」


「辺境の職人にでも仕立てさせたのかしら。田舎らしいと言えば、田舎らしいわ」


「騎士団長様は、質実剛健ですのね」


くすくすと重なる嘲笑。周囲の視線がドレスの隅々にまで注がれ、まるで値踏みされているかのような居心地の悪さが、静かに肌へ絡みついてくる。


ルイナは表情を変えることなく、静かに紅茶を口へ運んだ。


自分自身への侮辱であれば、いくらでも受け流せる。


……しかし、そのドレスへの嘲りには、思いのほか胸の奥が疼いた。


あれは、ハオランが真っ直ぐな瞳で見つめ、綺麗だと言ってくれた一着だ。


彼が選んでくれたその時間ごと嘲笑われているような感覚に、ルイナは自分でも意外なほどの痛みを覚えていた。


やがて誰からともなく、ルイナへ話しかける者はいなくなっていった。


会話の輪は形だけを保ちながら、実際には彼女を素通りして続いていく。

隣に座る令嬢たちは、まるでそこに誰もいないかのように、互いの間でだけ視線を交わし、笑い合っていた。


空いた茶菓子の皿、注がれることのない二杯目の茶。取り残されたような静けさの中で、ルイナはただ静かに座り続けていた。


「メイファさん、今日はお招きいただきありがとう」


平静を装いながら、ルイナは主催者へ礼を告げる。メイファは満面の笑みで応えた。


「いいえ、こちらこそ。ぜひ辺境の皆様と親睦を深めたくて」


その言葉の裏に潜む意図など、この場では誰も気に留めない。しばらくして、メイファは席を立った。


「少し、庭の様子を見て参りますわね」


軽やかな足取りで去っていくメイファの背中を、ルイナは何気なく目で追う。その姿が完全に見えなくなった瞬間、テーブルを囲む令嬢たちの空気が、明らかに変わった。


「ねえ、聞いてくださる?」


一人が意味深に口を開いたその時、隣に座っていた別の令嬢の手が、僅かに滑った。


ばしゃり、という音とともに、温かな液体がルイナの頭上から降り注ぐ。


「あら、まあ! ごめんあそばせ」


わざとらしい謝罪の声。悪びれる様子など微塵もなく、むしろ愉快そうな響きすら滲んでいた。


淹れたての茶が桃色の髪を伝い、頬を、そして丁寧に仕立てられたドレスの襟元を濡らしていく。


染み込んでいく熱と湿り気に、ルイナは静かに目を伏せた。


「あらあら、大変」


すかさず別の一人が、これ見よがしに扇子でぱたぱたと風を送る仕草をする。

その手が実際にルイナへ届くことはなく、ただ憐れむような視線だけが投げかけられていた。


「団長様も、たまには社交の場に慣れる練習をなさらないと」


含み笑いと共に告げられる言葉。ルイナは濡れた前髪をそっと払いながら、静かに顔を上げた。


感情の色を一切滲ませない瞳が、令嬢たちを一人ずつ、順に見渡していく。


「私、社交界を離れて久しいから……不慣れなことも多いわね」


淡々とした声だった──その奥には、確かな芯が通っている。


「でも、故意に人へ茶を浴びせる作法までは、教わった記憶がないわ。もし社交界に、そういう新しい流儀があるのなら、教えていただきたいのだけれど」


静かな声色でありながら、その一言一言には鋭い棘が仕込まれていた。令嬢たちの表情から、余裕の色が僅かに引く。


「な、なにも故意になんて……」


しどろもどろに弁明しようとする声を、ルイナは冷ややかな眼差しで受け流した。


彼女の内心では、目の前の少女たちの腕の一本や二本、その気になればいつでも折れることを理解している。


そんな力に頼るまでもなく、この場を制する術は他にいくらでもあった。


「戻りました。あら、どうしたの、ルイナさん」


タイミングを見計らったかのように、メイファが庭から戻ってくる。濡れそぼったルイナの姿を目にした瞬間、大袈裟なほど驚いた顔を作ってみせた。


「大変、お茶をこぼしてしまったのね。すぐに布をお持ちしましょう」


心配そうに眉を寄せながら、周囲の令嬢たちへちらりと視線を送る。

その目に浮かんでいたのは、憂慮などではなく、確かめるような、どこか楽しむような色だった。


「お気遣いなく」


ルイナは静かに立ち上がり、差し出された布を丁寧に断った。濡れた髪から水滴が首筋を伝う感覚を、あえて気に留めぬまま、背筋を伸ばして周囲を見渡す。


「今日はこれで失礼するわ。招待、ありがとう」


礼儀を崩さぬまま、ルイナはその場を後にした。中庭を抜ける間、背中に突き刺さるような視線と、押し殺した忍び笑いの気配を感じながらも、その足取りが乱れることは一度もなかった。


屋敷への帰路、既に日は傾き始めていた。

門をくぐるルイナの姿を見た瞬間、玄関先に出ていたハオランの動きが、ぴたりと止まった。


濡れて色を変えた桃色の髪。


染みの広がった襟元。


頬に一筋残る、乾きかけた茶の跡。


それらを、ハオランは声もなく見つめていた。


最初に浮かんだのは怒りではなく、ただの困惑と、遅れてやってくる衝撃だった。

信じたくない、という思いが、言葉になる前に喉の奥で詰まる。


「……ルイナ」


かろうじて紡いだ声は、掠れていた。


「その恰好……」


ルイナは努めて平静な声を保とうとする。


「ちょっとした、粗相があっただけよ」


「粗相……」


繰り返す声が、次第に温度を失っていく。


ハオランの視線が、濡れた髪から染みの跡へ、そしてまたルイナの顔へと、何度も往復した。


信じたくない現実を、目の前の光景が容赦なく突きつけてくる。長い沈黙が落ちた。


「……誰だ」


低く、地の底から絞り出すような声だった。ルイナは何も答えない。その沈黙が、ハオランにとってはこれ以上ない肯定として響いた。


握りしめた拳が、小刻みに震え始める。喉の奥から突き上げてくる何かを堪えるように、ハオランは一度、深く息を吸い込んだ。


「誰がやった」


先ほどよりも低く、けれど確かな怒気を孕んだ声だった。抑えているはずのその響きに、かえって底知れない恐ろしさが滲んでいる。


ルイナはその変化を静かに見つめながら、彼の腕へそっと手を添えた。


「今すぐ行って、全員に落とし前をつけさせてやる」


踵を返し、大股で歩き出そうとするハオランの腕を、ルイナは咄嗟に掴んで引き留めた。


「やめて」


「なんでだよ! こんなことされて、黙ってられるかよ!」


声を荒げるハオランに、ルイナは静かに、けれどはっきりとした声で答える。


「あなたが乗り込んだところで、何も変わらない。むしろ、事を大きくするだけだわ」


「それでも……」


「大丈夫。私は平気だから」


その言葉に、ハオランは何かを言いかけて──言葉を呑み込んだ。


ルイナの声に、いつもの毅然とした強さは確かにある。その瞳の奥に、僅かな翳りが揺れているのを、彼は見逃さなかった。


しばしの沈黙の後、ルイナは俯きがちに口を開いた。


「……ごめんなさい」


「え?」


「せっかく選んでくれたドレスを、汚してしまって」


その声には、これまで見せたことのないような弱さが滲んでいた。言葉を返す間もなく、ルイナは静かに背を向け、屋敷の奥へと歩いていった。


その後ろ姿が階段の向こうに消えるまで、ハオランはただ立ち尽くしていた。


自室に戻ったルイナは、扉を閉めるなり、しばらくその場から動けずにいた。


静かな部屋の中に、自分の呼吸の音だけが響いている。鏡の前に立ち、濡れて色を変えた髪と、染みの広がった襟元をじっと見つめた。


指先で、ドレスの結び紐にそっと触れる。留め具を一つ、また一つと外していくうちに、茶の染みが生地の柄に絡みつくようにして広がっているのが、否応なく目に入った。


あの艶やかだった紅の刺繍の上に、褪せた染みが不格好な影を落としている。


指先が、思わず止まった。


脳裏に、あの日の試着室での光景が蘇る。真っ直ぐに見つめてくるハオランの瞳。掠れた声。


『すっげー綺麗だぜ、ルイナ』


『見惚れちまった』


あの言葉を聞いた瞬間の、胸の奥にじんわりと広がった温かさを、まだはっきりと覚えている。


その温もりごと、汚されてしまったような気がした。


込み上げてきたものを堪えきれず、ルイナの瞳の縁に、じわりと涙が滲む。


声を上げることも、拳を握ることもせず、ただ静かに、一粒だけそれが頬を伝い落ちていった。


染みのついたドレスを胸に抱きしめるようにして、ルイナは鏡の前にしばらく立ち尽くしていた。


一方、玄関先に一人残されたハオランは、握りしめた拳をきつく見つめていた。


爪が掌に食い込むほどの力が籠っている。


悔しさと怒りが、体の奥から沸々とせり上がってくるのを、どこにもぶつけられぬまま持て余していた。


誰よりも強く、誰よりも気高いはずのルイナが、あんな顔をして謝る必要などどこにもないはずだった。


拳が、小さく震え続けている。二階の窓に灯る、小さな明かりを見上げながら、ハオランはただ、その場に立ち尽くすことしかできずにいた。


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