見惚れた理由
根も葉もない噂が砦を騒がせ始めてから、数日が過ぎていた。
朝の食卓には、そんな喧騒とは無縁の、いつもの賑やかさが広がっている。
湯気の立つ皿の前で、リンナは頬をぱんぱんに膨らませながら、忙しなく箸を動かしていた。
「この春巻き美味しい〜〜! さすがお義姉ちゃん!」
歓声混じりの声を上げながら、次から次へと春巻きを口へ運んでいく。
その様子はまるで小気味よく動く掃除機のようで、皿の上の料理があっという間に姿を消していった。
「もっとゆっくり食べろよ。喉詰まらせるぞ」
呆れたように言うハオランに、リンナは頬を膨らませたまま返事の代わりに首を横に振る。
「まだあるから、ね」
ルイナが台所から新しい皿を運びながら、穏やかに声をかけた。リンナの旺盛な食欲を見るたびに、この家に嫁いできた頃には想像もしなかった賑やかさを、少しずつ愛おしく感じるようになっている自分に気づく。
そこへ、廊下から軽い足音が響いてきた。一枚の手紙を手にしたジンロンが、朝の光の中に姿を現す。
「ルイナ殿。メイファからお主へ手紙が届いておるぞ」
「……私に?」
箸を止め、ルイナは僅かに眉を寄せた。傍らでは、ハオランの表情が一瞬にして険しくなる。
「…………」
何も言わず、ただ黙って皿の中身を見つめるハオランの様子に、ルイナは気づかぬふりをしながら手紙を受け取った。
丁寧に封を切ると、そこには流麗な筆致で綴られた招待状があった。
差出人の名の下に添えられていたのは、来週にでも茶会を開きたいという旨の一文だった。
「……お茶、会」
呟くルイナの声には、僅かな戸惑いが滲んでいた。王都にいた頃から縁遠かった催しだ。
剣を振るう稽古や巡回の合間を縫って参加するような社交には、これまでほとんど関わってこなかった。
「またくだらねーこと考えてんだろ、あいつ」
ハオランが吐き捨てるように言う。
「無視していいぞ」
その声には、隠しきれない苛立ちが混じっていた。だがルイナは静かに首を振る。
「……いいえ、行くわ」
「えっ」
驚いたように顔を上げるハオランに、ルイナは淡々と続けた。
「彼女は品質のいい騎士団の備品を持って来てくれた。断るのは忍びないわ」
「そんなの……」
「心配しなくても大丈夫。ただのお茶会よ」
そう言い切っても、ハオランの表情から不安が消えることはなかった。ルイナはそれに気づきながらも、あえて話題を切り替えるように、小さく息を吐く。
「でも……困ったわね」
視線を宙に漂わせながら、彼女は続けた。
「ドレスは王都に置いて来てしまったのよね。買いに行かなくちゃ」
その言葉に反応したのは、それまで黙って様子を見守っていたジンロンだった。
「ならば、ハオランを連れて行け」
「俺!?」
素っ頓狂な声を上げるハオランに、ジンロンは飄々とした顔で肩をすくめる。
「女物なんかわかんねーぞ!?」
「お前が一緒に行くことに意味があるんじゃよ」
からかうような笑みを湛えながら、ジンロンは続けた。
「デートもろくにしとらんじゃろ、お前たち」
「………」
「………」
二人は同時に押し黙った。互いに視線を合わせられず、それぞれ別の方向へと目を逸らす。
その様子を眺めながら、ジンロンは満足げに頷いた。
「いい機会じゃ。行ってこい」
「いってらっしゃーい!」
口いっぱいに春巻きを頬張ったまま、リンナが手を振る。二人はそれ以上何を言うでもなく、朝食を終えると身支度を整え、隣村であるベルカ村へと向かうことになった。
街道を並んで歩く道中、二人の間にはどこかぎこちない沈黙が続いていた。時折吹き抜ける風が、木々の葉を微かに揺らす音だけが、静けさを埋めている。
「えっと……この近くに服飾店があるんだよ」
ようやく口を開いたハオランが、記憶を辿るように道の先を指し示す。
しばらく歩くと、通りの一角に、少し大きめの店構えが見えてきた。硝子越しに並ぶ礼服やジュエリーの数々が、外の光を受けて艶やかに輝いている。
扉を開けると、涼やかな鈴の音とともに、恰幅の良い店主が顔を上げた。
「いらっしゃ……お! ジンロンさんの息子さんじゃないか!」
親しげに破顔した店主が、大きな声で歩み寄ってくる。ハオランは軽く手を上げて応えた。
「ルイナに合うドレスってあるか?」
「もしかして奥さんとデート? ひゅー! やるじゃないの〜! あついねぇ!」
からかい混じりの声に、ハオランの顔が瞬く間に赤く染まっていく。
「そんなんじゃ……と、とにかく俺の嫁さんにピッタリなドレスを頼んだぜ!」
慌てて言い返すその姿を、ルイナは横目に見つめながら、小さく口元を緩めた。
揶揄われて動揺する姿は、普段の勇ましさとはまるで違う、年相応の初々しさを覗かせている。
「笑うなよ」
視線に気づいたハオランが、恥ずかしさを誤魔化すように睨みつけてくる。ルイナは素知らぬ顔で目を逸らした。
「ちょっと待っててね〜。何着かピックアップしてくるよ」
そう言い残し、店主は奥の作業場へと消えていく。店内に残された二人は、並べられた品々を眺め始めた。
「実を言うと、私、ドレスって苦手なの」
不意にそう零したルイナに、ハオランは意外そうに眉を上げた。
「え、なんで」
「動きにくいから」
あまりにも彼女らしい返答に、ハオランは思わず声を立てて笑ってしまう。
「領主の娘がそんなんでいいのか」
「私の親友、公爵令嬢なのだけど、ドレスが嫌いで社交界へはいつも騎士礼装で行ってたわ」
懐かしむように、ルイナの声が僅かに柔らかくなる。
「騎士礼装ってことは……同僚か何かだったのか」
「ええ。同じ騎士団だった」
「へぇ……今も仲いいのか」
「勿論」
ルイナの口元がわずかに緩む。普段なら数秒で消えてしまう程度の変化だったが、この話をしている間だけは、その柔らかさが長く続いた。
「今でも手紙のやり取りをしているくらいよ。彼女は西方の辺境にいる軍人の方に嫁いでいったわ。五歳も年下の旦那さんらしいけど、とても上手くいってるみたい」
懐かしい誰かを思い出しているのだろう。その視線の先にはもう、周囲に並ぶドレスなど映っていないようだった。
「彼女にこのドレス、送ってあげようかしら」
近くに掛けられていた一着の生地を、無意識のうちに手に取っている。
「動きやすいし、華やかだからきっと似合うわ。こういうドレスなら問題ないでしょうし」
「おいおい」
ハオランが苦笑しながら口を挟んだ。
「プレゼントを選びに来たわけじゃないぞ。今は、お前のだ」
「あっ……そう、だったわね」
我に返った途端、頬にじわりと熱が上る感覚があった。親友のことを語っているうちに、本来の目的をすっかり忘れてしまっていたらしい。
手にしていた生地をそっと戻し、ルイナは誤魔化すように視線を泳がせる。こんな風に他愛もないことで動揺する自分を、彼女自身どこか他人事のように眺めていた。
「……可愛いな」
ぽつりと零れた言葉に、ルイナの心臓が小さく跳ねた。
「え」
聞き返す声が、僅かに掠れる。
「親友を思い出してるお前、無邪気で可愛かった」
視線を逸らしながら、ハオランは僅かに頬を掻いた。
「……こういうの、ちょっと照れるな」
ルイナは何と返せばいいのか分からず、暫く言葉を失っていた。
視線の置き場に困り、手元の何もない空間を見つめる。頬の熱は引くどころか、じわじわと耳の先にまで広がっていくようだった。
「可愛い、だなんて……」
やっとのことで紡いだ声は、いつもより幾分か掠れていた。
「初めて言われた」
「え」
「ずっと……可愛げがないって、言われてきたから」
自嘲めいた響きが、その声に僅かに混じる。
「じゃあ、俺が一番最初だな」
ハオランは真っ直ぐにルイナを見つめ、少し得意げに続けた。
「ちなみに、俺を可愛いって言ったのも、ルイナが初めてだからな」
「あら、そうなの」
動揺を隠すように、ルイナの口元に悪戯めいた笑みが浮かぶ。
「すぐ照れて視線を逸らすあなたはとても可愛いわよ」
「〜〜〜お前! 本当! そういうとこ!」
一気に顔を真っ赤に染め上げたハオランが、慌てて視線を泳がせる。その様子を眺めながら、ルイナはふふっと楽しげに声を立てて笑った。
しかし胸の奥では、彼と似たような熱がまだ燻り続けていることに、彼女自身気づいていなかった。
「あのー……」
不意にかけられた声に、ルイナとハオランはびっくりして振り向く。
「邪魔しちゃ悪いなと思ったんだけど……」
いつの間にか戻ってきていた店主が、両腕いっぱいにドレスを抱えたまま、気まずそうに立っていた。
「あ、あははは……ごめんごめん! ドレス持って来てくれたんだな!」
笑って誤魔化すハオランに苦笑しつつ、店主は抱えていた品を順に広げていく。
最初に広げられたのは、幾重にもフリルの重なった、いかにも王都で流行っていそうな一着だった。
腰回りには大きく膨らんだスカート、袖口には繊細なレース細工、胸元には宝石をあしらった飾り紐まで施されている。
「こちらは如何でしょう」
「重そう」
即座に返ってきた一言に、店主の手が僅かに止まる。持ち上げただけで分厚い生地の重みが伝わってきたのか、ルイナの表情には既に興味の色がない。
「じゃあ、こっちは?」
負けじと店主が広げたのは、淡い水色の生地に小さなリボンをいくつも縫い付けた、可憐な印象の一着だった。袖には小花柄のレースがあしらわれ、胸元には大きなリボン結びが飾られている。
「こういうのは、お若い方に人気なんですよ」
店主が得意げに言うと、ハオランが横からひょいと覗き込んだ。
「へぇ、こういうのも似合いそうじゃねぇか」
軽い調子でそう漏らした瞬間、頭の中で勝手にそれを纏ったルイナの姿を思い描いてしまったことに気づき、ハオランの耳がじわりと赤くなっていく。
「い、いや、別に変な意味じゃなくてだな…… ただ、その、似合うと思っただけで……」
しどろもどろに弁解する姿に、ルイナは思わず彼の顔をまじまじと見つめてしまう。
着ている自分の姿を想像されたのだと気づいた途端、こちらまで妙な気恥ずかしさがこみ上げてきて、視線が定まらないまま、頬まで赤く染まり始めていた。
その様子を見ていたルイナ自身も、リボンだらけのドレスをどう扱えばいいのか分からず、僅かに眉を寄せる。
「……これは、少し」
「あ、やっぱ苦手か」
「ええ。可愛らしすぎて、着ている自分の方が落ち着かなくなりそうだわ」
正直な感想だった。店主はがっくりと肩を落としながらも、まだ諦めていないのか、次の候補を探しに再び店の奥へと引っ込んでいく。
残された二人の間には、なんとも言えない気まずさが漂っていた。互いにさっきの発言を意識しているのか、しばらく視線を合わせられずにいる。
その沈黙を破ったのは、店の奥の棚をぼんやりと眺めていたハオランの、ふと止まった動きだった。
「………」
何かに目を奪われたように、その視線は微動だにしない。
「ハオラン? どうしたの」
声をかけられても反応が返らず、ルイナは訝しげに彼の視線の先を追った。
そこに掛けられていたのは、艶やかな黒地の生地に、深紅の花模様が浮かぶ一着だった。
立ち上がった襟元、胸元に施された繊細な透かし細工、腰から流れるように施された飾り紐と房飾り。
裾に向かって深く入れられた切れ込みからは、羽衣のような薄布が幾重にも重なって覗いている。
全体を包み込むように広がる透け感のある上衣が、静かな妖艶さを纏わせていた。
「ルイナ、これ似合うんじゃないか」
低い声で呟くハオランの言葉に、ルイナはそのドレスへと歩み寄る。
生地を指先で持ち上げ、しばし見つめた。重さはなく、指の間から滑り落ちるような柔らかさだけが伝わってくる。
裾の切れ込みを目で辿ると、これなら鞭を振るう時のような大きな動きでも問題なく対応できそうだと、職業病めいた見立てが真っ先に浮かんだ。
「……素敵ね」
静かに頷くと、店主が戻って来たのを見計らって試着室へと向かう。
カーテンの向こうで衣擦れの音がしばらく続いた後、静かにそれが引かれた。
現れたその姿に、店主が言葉を失った。
黒地に紅の刺繍が映える生地は、体の線に吸いつくように沿いながらも、深く入った切れ込みが動きを妨げない自由さを保っている。
立ち襟から覗く白い首筋、胸元の繊細な透かし細工が上品な色香を醸し出し、腰元に垂れる房飾りが一歩踏み出すたびに揺れて音もなく揺らめいた。
長く艶やかな髪が、深紅と黒の織りなす模様の上に流れ落ち、まるでその生地の一部であるかのように馴染んでいる。
ハオランは、ただ固まったまま動けずにいた。
瞬きすら忘れたように、その視線はルイナの姿に釘付けになっている。
喉の奥で言葉が形を成す前に消えていくのが、自分でも分かった。
「……変?」
沈黙が長引くにつれ、不安が滲み始めたのか、ルイナの声が僅かに揺れる。
両手を無意識に体の前で軽く握り、視線を落としかけた、その時だった。
「………いや」
やっとのことで絞り出された声は、いつものハオランらしくないほど掠れていた。
「とてもお似合いです!!」
先に沈黙を破ったのは、感嘆の声を上げる店主だった。
興奮気味に手を叩き、鏡の角度を調整しながら、あちこちからルイナの姿を確かめ始める。
そんな店主の様子など、ハオランの耳にはほとんど届いていないようだった。
「すっげー綺麗だぜ、ルイナ」
やっと言葉を取り戻したように、ハオランは掠れた声で続ける。
「見惚れちまった」
「そ、そんなに……?」
問い返す声が、自分でも驚くほど上擦っていた。心臓が早鐘を打ち、頬から耳の先まで、じわじわと熱が広がっていくのが分かる。
普段なら平静を装うことなど造作もないはずなのに、今はどうしても表情を制御しきれなかった。
「ああ」
ハオランは真っ直ぐにルイナを見つめたまま、一歩、また一歩と距離を詰める。試着台の前に立ち尽くす彼女を、まるで初めて出会った時のように、まじまじと見つめ続けた。
「やっぱり俺の嫁さんは綺麗だなって、改めて思った」
「……ありがとう」
ルイナの頬が、これまでにないほど深く朱に染まる。滅多に見せない反応に、店主が思わず息を呑んだ。
普段の凛とした団長の姿からは想像もつかない、年頃の娘らしい初々しさがそこにはあった。
視線をどこに置けばいいのか分からず、彼女は自分の手元へと目を落とす。
指先が、房飾りの端をそっと弄んでいた。
「なあ」
ハオランがふと声を落とす。
「もう少し、見せてくれよ」
「え」
「回ってみてくれって意味だ。他意はねぇよ、多分」
自分でも歯切れの悪い言い方だと分かっているのか、語尾が少し曖昧に濁る。
ルイナは一瞬躊躇いながらも、静かにその場で体を巡らせた。裾の切れ込みから覗く白い脚が、動きに合わせてふわりと生地を揺らす。
それを見つめるハオランの喉が、微かに上下した。
「……ずるいわね」
小さく呟いたルイナの声に、ハオランが訝しげに眉を上げる。
「何がだよ」
「あなたにそんな顔をされると、こちらまで調子が狂うもの」
普段の澄ました声が、僅かに乱れている。ハオランはそれを聞いて、ばつが悪そうに視線を逸らした。
しかしその口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいる。
「そちらに、されます?」
蚊帳の外に置かれていた店主が、控えめに割り込んだ。ルイナは咳払いを一つ挟んでから、努めて平静な声で答える。
「ええ」
「金は俺が出すよ」
即座に申し出たハオランに、店主が値を告げようとする間もなく、ルイナが慌てて口を挟んだ。
「ちょ、ちょっといいわよ。そのくらい自分で出す」
「いいから」
「でも……」
「俺の顔を立てると思ってさ」
ハオランは肩をすくめながら、僅かに口元を緩める。
「イイもん見せてもらったしな」
「ハオラン……ありがとう」
しみじみと呟くルイナの声には、隠しきれない温かさが滲んでいた。
二人の間に漂う穏やかな空気に、店主は居心地悪そうに頬を掻きながら、そっと視線を逸らす。
会計の伝票を整える指先だけが、いつまでも所在なさげに動いていた。




