火のない所
その日を境に、砦の日常には小さな不穏が忍び込むようになった。
最初は、些細なことだった。
ルイナの執務机に置かれていたはずの書類の順番が、朝になると微妙に入れ替わっている。
届いたばかりの消耗品の一部が、注文数より僅かに少なく納品される。
厩舎に用意されていたエルシオンの飼葉が、いつもより粗末な質のものに変わっている。
どれも一つ一つを取り上げれば、単なる手違いや誰かの不注意で片付けられる程度の出来事だった。
奇妙なことに、その全てに一つの共通点があった。
備品庫の管理と、納品物の検品を任されているのは、いずれもガレス・ウォンという古参の兵士だった。
二十年以上砦に勤め、庫内の隅々まで知り尽くしている男だ。誰かが数を誤魔化そうとするなら、これほど都合の良い立場もない。
だが、証拠と呼べるものは何一つとして残されていなかった。帳簿の数字は帳尻が合わされ、納品書にも不備は見当たらない。
ただ、実際に届いた品と、記録上の品との間に、僅かな乖離があるというだけだった。
ルイナはそれらに気づいていた。書類の順番が入れ替わる不自然さも、備品の数が微妙に合わない違和感も、決して見逃していたわけではない。
彼女はそのいずれに対しても、眉一つ動かすことなく、いつも通りの平静さで対処していった。
書類は淡々と並べ直し、備品は帳簿と照らし合わせて過不足を記録する。
飼葉についても、業者へ静かに確認の書状を送っただけだった。
騒ぎ立てず、動揺も見せず、ただ淡々と処理していくその姿は、傍から見れば何事も起きていないようにしか映らない。
事実、朝の訓練にしか砦へ顔を出さないハオランは、そうした小さな異変に気づく機会そのものがなかった。彼の目に映るルイナは、いつも通り凛として揺るぎない、あの団長の姿のままだった。
「……また、備品の数が合わないな」
書庫の片隅で帳簿を捲りながら、ノアがぼそりと呟く。
「そうね」
ルイナは短く答えるだけで、それ以上の感情を言葉に乗せることはなかった。
「気にならないのか?」
「誰の仕業かは、大方見当がついているもの」
淡々とした声だった。ノアが片眉を上げる。
「なら、なんで放っておくんだよ」
「証拠がない以上、迂闊には動けないわ」
帳簿から顔を上げぬまま、ルイナは静かに続けた。
「疑いだけで処分すれば、こちらの落ち度になる。尻尾を出すまで、泳がせておくしかないもの」
その口調には、犯人を放置しているのではなく、確実に仕留めるための時間を計っているという冷静な意志が滲んでいた。
ノアはそれを聞いて、小さく肩をすくめる。
「相変わらず、容赦ねぇな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
短いやり取りを最後に、ルイナは再び帳簿へと視線を戻していった。
しかし、事態は静かな嫌がらせだけに留まらなかった。
まず砦の中で囁かれ始めたのは、他愛のない軽口だった。
「最近、ノアばっかり団長室に呼ばれてないか」
「業務連絡だろ、副官なんだから当たり前じゃねぇか」
その程度の会話は、日々の何気ないやり取りの延長でしかなかった。
ノアが業務のために団長室へ通う頻度そのものは事実であり、否定しようのない土台がそこにはあった。
数日もすると、噂は次の段階へと進む。
「あの二人、この間は夜遅くまで一緒に仕事してたらしいぞ」
「巡回の報告書がまとまらなかったんだとよ。それだけの話だろ」
真面目に反論する者もいたが、一度火の点いた好奇心はそう簡単には消えない。誰かが軽い調子で「怪しいよなぁ」と付け加えれば、それだけで話の色合いは僅かに変わっていく。
事実の断片に、憶測という薄布が一枚重ねられていくような具合だった。
そしてまた数日が経つ頃には、話はさらに輪郭を変えていた。
「見たぞ、あの二人。厩舎の裏で手を繋いでたって話だ」
「誰から聞いたんだよ、それ」
「知り合いの知り合いが見たとかで……」
出所の曖昧なその噂は、しかし面白おかしく語られるうちに、いつしか確からしさを帯びていく。噂の伝言は、渡る先々で少しずつ色を濃くしていくものだ。手を繋いでいたという話は、瞬く間に「抱き合っていた」という形にまで膨れ上がっていた。
「はぁ?」
初めてその最新版を耳にした時、ノアは思わず素っ頓狂な声を上げた。休憩中の兵士たちが交わしていた会話を偶然拾い、面食らったように立ち尽くす。
「なんだよそれ。誰が言い出したんだ、そんな話」
苦笑混じりに問い質すも、兵士たちは気まずそうに視線を逸らすばかりで、明確な答えは返ってこなかった。ノアは頭を掻きながら、ルイナの元へと足を運ぶ。
「なあ、聞いたか。俺とお前が手を繋いでたとか、抱き合ってたとか、とんでもない噂が出回ってるらしいぜ」
執務室の椅子に腰掛けていたルイナは、報告書から顔を上げることなく答えた。
「聞いたわ」
その声には、驚きも動揺も微塵も感じられなかった。ノアは拍子抜けしたように肩をすくめる。
「反応薄すぎるだろ……普通もっと慌てるところじゃねぇのか」
「事実無根のことで、いちいち動揺していたら身が持たないもの」
淡々と告げるルイナの言葉に、ノアは思わず苦笑を漏らした。もっともな理屈ではあったが、それにしても徹底した無反応だった。
「まあ、俺もお前も否定してるし、そのうち収まるだろ」
「そうね」
軽い調子で交わされたその会話は、二人の間では既に片付いた話のように扱われていた。
実際、ルイナもノアも、噂を耳にするたびにはっきりと否定を重ねている。互いの関係はあくまで職務上のものであり、それ以上でも以下でもない。プライベートで顔を合わせることなど、一度としてなかった。
しかし『火のない所に煙は立たぬ』という言葉ほど厄介なものはない。
ハオランもまた、この噂を聞き及んでいた。だが彼自身は、噂に対して微塵も動揺を見せなかった。
「んなわけねぇだろ」
朝の訓練の合間、噂を耳にした門下生の一人が恐る恐る話を振ってきた際、ハオランは呆れたように鼻を鳴らしただけだった。
ルイナとノアの間に何かがあるなど、想像すらできない。二人のやり取りを間近で見てきた自分だからこそ、あれが職務上の信頼関係以上の何物でもないことを、疑う余地なく理解していた。
ただ、ハオランがこの噂を軽く受け流していられたのには、もう一つの事情もあった。
彼が砦に顔を出すのは、決まって朝の訓練の時間だけだ。ルイナとノアが日中どのように過ごしているかを、その目で確かめる機会自体がほとんどない。
だからこそ、噂話を単なる与太話として笑い飛ばすことができていたのかもしれない。
しかし、砦や村の人々にとっては、そうもいかなかった。
「でもよ、あの二人、しょっちゅう一緒にいるじゃねぇか」
「巡回も一緒、報告も一緒。そりゃ何かあってもおかしくねぇだろ」
「団長は無表情だが、あれで結構モテるって話だしな」
酒場の片隅で交わされる会話は、次第に確信めいた響きを帯びていった。
実際のところ、ルイナとノアが日常的に行動を共にしているのは紛れもない事実だった。
副官という立場上、報告や指示のやり取りは頻繁に発生する。巡回の同行も、業務の一環として当然のことだ。
その事実だけを切り取れば、確かに疑わしく見えなくもない。
段階を踏んで少しずつ色をつけられてきた噂は、もはや誰にも真偽を確かめようのないところまで育っていた。
「勘弁してくれよ……」
ある日の午後、報告書の束を抱えて執務室にやってきたノアが、深いため息と共に椅子に座り込んだ。
「さっき、水汲み場で兵士の一人にすげぇ生温かい目で見られたんだが。あれ絶対、変な誤解してるやつの目だぞ」
疲れきった声だった。ルイナもまた、机の上で頬杖をつきながら、珍しく眉間に薄い皺を刻んでいる。
「私も、村の女性たちから似たような視線を向けられたわ」
「マジかよ……」
二人揃って、深々と項垂れる。
事実無根の噂であることは、当人たちが一番よく分かっている。
けれども、噂とは不思議なもので、否定すればするほど、かえって「何か隠しているのではないか」という疑念を煽ることさえあった。
誰が、何のためにこんな話を流し始めたのか。その根源すら見えないまま、噂だけが確実に、じわじわと二人の周囲を侵食していく。
窓の外では、何も知らぬ様子で兵士たちが訓練に励む声が響いていた。その平和な光景とは裏腹に、執務室の中には、出口の見えない重苦しい沈黙だけが漂っていた。




