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第3話 死んだはずの水路が息をしている

 夜明けの水務局は、王宮よりも早く目を覚ます。


 いや、正確には眠っていない。


 王都で水が流れている限り、水務局に完全な夜はない。


 井戸番の報告。


 雨水溝の詰まり。


 市場からの苦情。


 貴族屋敷の噴水修理。


 貧民街の排水逆流。


 王宮の庭園水路。


 そして今朝は、南第五井戸の汚染。


 クラウディア・フォン・カルンシュタインが水務局の扉をくぐった時、庁舎の中はすでに戦場だった。


 書記官たちは紙束を抱えて走り、職員たちは泥のついた長靴で床を汚し、壁際では若い技師が水路図を広げたまま眠りかけている。


 舞踏会の余韻など、ここには一粒もなかった。


 あるのは、濡れた外套の匂い、石灰の粉、インク、焦げた茶、そして疲労である。


「お嬢様、こちらへ」


 オットー・ヴェルナー局長が先に立った。


 クラウディアは頷き、水務局の奥へ進む。


 借り物の長靴には、まだ南区の泥がついていた。


 濃紺の外出着の裾にも、汚水の跳ねた跡がある。


 侯爵令嬢としては、間違いなく最悪の朝だった。


 だが、都市を見る者としては、ようやく始まった朝だった。


「南第五井戸の封鎖状況は」


「継続中です。井戸番二名、水務局職員三名を配置。水売りの荷車は三台到着済み。軍馬用貯水樽は十六」


「残り四つは?」


「軍務局が、馬の飲み水を理由に拒否しております」


「担当者名を」


「控えております」


「よろしい」


 クラウディアは短く答えた。


 戦場で兵を動かすには、水がいる。


 都市で民を生かすにも、水がいる。


 軍務局がその順番を理解していないなら、後で財務局の数字で理解してもらうしかない。


「患者数は」


「夜明け前までに、腹痛および嘔吐の訴えが十二件。聖女ベアタ様が七件を癒やされました。重症は今のところなし」


「再発確認は」


「まだです」


「午前と夕刻の二回、同じ家を回ってください。癒やされた者ほど、記録から漏れます」


「承知しました」


 その時、隣の部屋から声がした。


「局長! 南区支所から追加報告です!」


 若い職員が飛び込んでくる。


 髪は乱れ、片手に濡れた紙を握っていた。


「南第五井戸の西側、洗濯場近くの小排水溝で逆流あり。石灰を撒いて対応中」


「臭気は」


 クラウディアが聞いた。


 職員は一瞬、驚いたように彼女を見たが、すぐに姿勢を正した。


「腐卵臭に加えて、薬草の腐ったような甘い臭いがあるとのことです」


「薬草」


 クラウディアは目を細めた。


「救済院の廃棄水ですか」


「可能性があります」


 ヴェルナー局長が低く言った。


「工事現場からだけではなく、施療院内の排水も混ざったかもしれません」


「現在図を」


「はい」


 ヴェルナーは奥の作図室へ案内した。


 作図室は、水務局の心臓部だった。


 中央に大きな机。


 壁には無数の地図。


 棚には筒状に丸められた羊皮紙と紙束。


 床には、乾ききっていない泥の跡。


 窓は小さく、朝の光はまだ弱い。


 部屋の空気には、古い紙と湿った石の匂いが染みついていた。


 クラウディアは部屋に入るなり、机の上を空けた。


「南区現在図を広げてください」


「南第五井戸周辺ですな」


「井戸だけではありません。救済院、洗濯場、北市場への給水路、旧南門跡まで」


 書記官が地図を運んでくる。


 現在の王都水路図。


 線は整っていた。


 主要排水路。


 支線。


 井戸。


 雨水溝。


 点検口。


 水門。


 現行水路だけを見るなら、南第五井戸の汚染は慈善施療院の工事ミスで説明できる。


 排水溝を塞ぎ、汚水が逆流し、近くの井戸へ染みた。


 単純だ。


 あまりにも単純すぎる。


 クラウディアは地図を見下ろした。


「水の流れが足りません」


 ヴェルナーが眉を寄せる。


「足りない?」


「はい。工事現場の排水が南第五井戸へ影響したことは分かります。ですが、洗濯場まで逆流するには、水量が多すぎます」


「雨は?」


「昨夜は降っていません」


「地下湧水」


「この時期に急増する場所ではありません」


 クラウディアは指先で地図をなぞった。


 慈善施療院。


 工事現場。


 南第五井戸。


 洗濯場。


 小排水溝。


 線は繋がっている。


 だが、説明しきれない。


 地図の上では、どこにもないはずの水が増えている。


「局長」


「はい」


「旧図を」


 作図室の空気が、わずかに変わった。


 若い職員たちが互いに顔を見合わせる。


 ヴェルナー局長は少し黙った。


「旧図、と申しますと」


「旧王都暗渠図です」


「水務局の保管分は、断片しか残っておりません」


「承知しています。まずは断片で結構です」


 ヴェルナーは書架の奥へ向かった。


 鍵を取り出し、古い戸棚を開ける。


 中から出てきたのは、黒ずんだ筒だった。


 紐は擦り切れ、封蝋は半ば崩れている。


 筒の表には、古い文字でこう書かれていた。


 ――旧南区排水路記録。


 ヴェルナーは慎重に机へ置いた。


「百二十年前の写しです」


「原本は?」


「大火で失われたとされています」


「失われた、ですか」


 クラウディアは小さく呟いた。


 役所で「失われた」と書かれるものには二種類ある。


 本当に燃えたもの。


 燃えたことにしたもの。


 ヴェルナーは旧図を広げた。


 羊皮紙の端は傷み、ところどころ穴が空いている。


 線は今の地図より粗い。


 地名も古い。


 縮尺も違う。


 だが、クラウディアには読めた。


 幼い頃から、父の書庫で見てきた種類の図だった。


 美しくはない。


 だが、嘘が少ない。


「この旧南門跡は、現在の慈善施療院の東側ですね」


「おそらく」


「この線は?」


「旧雨水路かと。現在は埋没扱いです」


「埋没扱い」


「はい」


「実際に確認した記録は?」


 ヴェルナーは黙った。


 それが答えだった。


 クラウディアは旧図と現在図を重ねた。


 縮尺が違うため、そのままでは合わない。


 彼女は紙の端にある古い測量印を確認し、現在図の旧南門跡と照らし合わせる。


 次に、古市場の位置。


 さらに、今は教会裏になっている古井戸跡。


 ずれを修正する。


 すると、南第五井戸の下に一本の線が現れた。


 現在図にはない線。


 旧図にだけある線。


 慈善施療院の地下をかすめ、洗濯場の下を通り、さらに西へ伸びる古い暗渠。


 クラウディアは指を止めた。


「これです」


 ヴェルナー局長の顔色が変わった。


「……そこに繋がりますか」


「ご存じなのですね」


 ヴェルナーは答えなかった。


 作図室にいた職員たちも、いつの間にか静かになっている。


 外の喧騒だけが、遠く聞こえた。


 クラウディアは旧図の線を辿った。


 南第五井戸。


 洗濯場。


 旧南門跡。


 その先。


 地図の端に、不自然な空白がある。


 線はそこで途切れていた。


 羊皮紙が破れているわけではない。


 染みで消えたわけでもない。


 そこだけ、意図的に削られている。


「局長。この空白は何ですか」


 ヴェルナーは深く息を吐いた。


「旧王都暗渠群の一部です」


「正式名称は」


「旧王都暗渠群、南支線」


「では、現場では?」


 ヴェルナーは視線を伏せた。


「黒水路、と呼んでおります」


 黒水路。


 その名を聞いた瞬間、若い書記官の一人が顔を強張らせた。


 クラウディアはそれを見逃さなかった。


「なぜ、黒水路と?」


「理由は諸説あります」


 ヴェルナーは言った。


「水が黒いから。灯りが届かないから。入った者が、黒い顔で戻るから」


「戻らなかった者もいるのですね」


 返事はなかった。


 それで十分だった。


 クラウディアは地図を見下ろす。


 南第五井戸の問題は、もう単なる工事ミスではない。


 死んだはずの水路が、現在の水路に影響している。


 いや、死んだはずという認識そのものが間違いだったのだ。


 水路は死なない。


 忘れられるだけである。


「封鎖記録は」


「あります」


「いつ」


「七十八年前」


「理由は」


「老朽化および崩落危険」


「その前は」


 ヴェルナーは表情を消した。


「大疫病の時代に、一部が使用されたと聞いております」


 大疫病。


 作図室の空気がさらに重くなった。


 王都では、その言葉を軽々しく口にしない。


 百年近く前、王都南区を中心に病が広がった。


 王家の記録では、死者三百余。


 現在の教科書では、迅速な封鎖と慈善施療によって被害は抑えられた、とされている。


 だが、クラウディアは知っている。


 母の慈善病院に残る古い薬剤記録。


 父の財務書庫に眠る石灰購入記録。


 それらは、三百という数字には多すぎた。


 数字が合わない。


 合わない数字は、どこかに死者を隠している。


「黒水路は、大疫病の搬送路だったのですね」


 クラウディアが言うと、ヴェルナーは目を伏せた。


「公式には、そうではありません」


「公式には、ですね」


「お嬢様」


 ヴェルナーの声が少し低くなった。


「黒水路は、ただの古い排水路ではありません。水務局の者でも、奥へ入ることは禁じられています」


「誰の命令で?」


「王宮です」


「いつから?」


「封鎖以来」


「七十八年前から、水務局は自分たちが管理するはずの水路へ入れないのですか」


「はい」


 クラウディアは指先を旧図の空白に置いた。


 王宮が封鎖した。


 水務局が入れない。


 現在図から消えている。


 だが、昨夜の水はそこから来ている。


 つまり、王宮が見ないことにした場所が、今の王都に病を運んでいる。


 なんとも分かりやすい構図だった。


 分かりやすく、最悪だった。


「財務図を」


 クラウディアが言った。


 ヴェルナーは眉をひそめた。


「水務局に財務図は」


「私が持っています」


 クラウディアは革鞄を開けた。


 中から細く丸めた紙束を取り出す。


 昨夜、母の控室で着替えた時、鍵束と一緒に持ってきたものだ。


 カルンシュタイン家に保管されていた写し。


 百年前から八十年前にかけての南区修繕費記録。


 父の書庫から勝手に持ち出したわけではない。


 正確には、非常時に備え、クラウディアが以前から写しておいたものだった。


 父には後で叱られるだろう。


 だが、叱られるには王都が無事である必要がある。


 紙を広げる。


 そこにあるのは、水路図ではない。


 費目だった。


 石材。


 人足。


 鉄格子。


 油。


 蝋燭。


 石灰。


 担架。


 布。


 香草。


 祈祷料。


 埋葬費。


 クラウディアは行を追った。


「大疫病の翌年、南支線の封鎖工事」


「はい」


「石材四百二十本。鉄格子十二枚。石灰二百樽」


 若い職員が小さく息を呑んだ。


 ヴェルナーの顔も険しくなる。


「多いですな」


「多すぎます」


 クラウディアは旧図の空白を見た。


「単なる崩落危険箇所の封鎖に、この量の石灰は要りません」


「では、何を」


「消毒です」


 作図室の誰も声を出さなかった。


 石灰は嘘をつかない。


 公式記録がどう書こうと、帳簿には痕跡が残る。


 そこに大量の石灰があるなら、そこには何かを消そうとした人間がいる。


 匂いを。


 病を。


 あるいは、死者を。


「さらに翌年」


 クラウディアは続けた。


「同区画の補修費が出ています」


「封鎖した翌年に?」


「はい。水門補修、人足賃、油、縄」


「おかしいですな。封鎖した場所を、なぜ補修する」


「完全には塞がなかったからです」


 クラウディアは静かに言った。


「黒水路は、公式には封鎖された。けれど水だけは逃がす必要があった」


 ヴェルナーは地図を見る。


 現在図。


 旧図。


 財務図。


 三つの情報が、南第五井戸の下で重なっていた。


「王都南区の排水を殺さないため、細い流れを残した」


「おそらく」


「では昨夜、その細い流れに工事排水が入り込んだ」


「ええ」


「そして黒水路側から、南第五井戸へ戻った」


「はい」


 クラウディアは頷いた。


「死んだはずの水路が、まだ息をしているのです」


 その時、部屋の扉が開いた。


 聖女ベアタが立っていた。


 白いドレスではない。


 簡素な修道服に近い外套を羽織っている。


 髪もまとめ直され、顔には疲労が濃い。


 それでも彼女は、手に帳面を抱えていた。


 昨夜、クラウディアが渡した帳面である。


「入っても、よろしいでしょうか」


 ヴェルナーが困ったようにクラウディアを見る。


 クラウディアは頷いた。


「どうぞ、ベアタ様」


 ベアタは部屋に入ると、まず深く頭を下げた。


「昨夜の患者記録です。癒やした方、癒やしていない方、再発の有無はまだ途中ですが、水を汲んだ時刻と場所は書きました」


「ありがとうございます」


 クラウディアは帳面を受け取った。


 文字は美しかった。


 だが、ところどころ線が震えている。


 おそらく、患者の家を回りながら書いたのだろう。


 祈りの言葉ではなく、名前と時刻と症状を書く。


 聖女にとっては、初めての種類の仕事だったに違いない。


 クラウディアはページをめくった。


 患者名。


 年齢。


 住まい。


 水を汲んだ時刻。


 症状。


 癒やしの時刻。


 備考。


 その備考欄に、何度も同じ言葉が出ていた。


 ――薬草のような臭い。


 ――水が甘く腐ったようだった。


 ――救済院の裏で同じ臭い。


「ベアタ様」


「はい」


「救済院の薬草廃棄は、どの排水溝へ?」


 ベアタはすぐには答えられなかった。


 顔が青ざめる。


「……私は、知りませんでした」


「では、誰が知っていますか」


「薬剤係の修道士です。ですが、昨日は工事のため、裏庭の排水溝が使えないと言われ、臨時の水路へ流したと」


「臨時の水路」


 ヴェルナー局長が低く唸った。


「その臨時水路が、旧暗渠に繋がった可能性があります」


 ベアタは帳面を握りしめた。


「私たちは、病人を増やすために救済院を広げたのではありません」


「分かっています」


 クラウディアは言った。


「ですが、意図と結果は別です」


 ベアタは目を伏せた。


「はい」


 その返事に、クラウディアは少しだけ彼女を見直した。


 昨夜のベアタなら、ここで「でも、私たちは善意で」と言ったかもしれない。


 今朝の彼女は、それを飲み込んだ。


 飲み込んだうえで、記録を持ってきた。


 これは前進だった。


「ベアタ様」


「はい」


「祈祷院に、大疫病時代の埋葬記録は残っていますか」


 ベアタが顔を上げた。


「古いものなら、あると思います。正確には、大聖堂の地下文庫に」


「閲覧は可能ですか」


「聖職者であれば」


「では、あなたにお願いがあります」


「記録を、見るのですね」


「はい」


 ベアタは小さく頷いた。


「分かりました。私が見ます」


 その声は震えていなかった。


 ただ、少し怖がっていた。


 それでいい、とクラウディアは思った。


 怖がらない者に、死者の記録は読ませない方がいい。


 怖いと知って読む者だけが、そこに書かれた数字を人として扱える。


 ヴェルナー局長が旧図の一点を指した。


「お嬢様。黒水路を調べるなら、入口は二つです」


「一つは救済院地下」


「はい。昨夜の工事現場から入れる可能性があります」


「もう一つは」


「古市場地下溜まりです」


 ヴェルナーは地図の西側を押さえた。


「かつて市場だった場所の下に、大きな水溜まりがあります。現在は封鎖扱いですが、商人ギルドが勝手に使っているという噂もあります」


「噂ではなく、帳簿に出ます」


 クラウディアは財務図の別紙を引いた。


「南区救済院への薬草納入量と、実際の在庫が合わないのです」


「横流しですか」


「可能性があります。薬草は水に消えたのではなく、水路で運ばれたのかもしれません」


 ベアタが息を呑む。


「救済院の薬草が……」


「まだ決めつけません」


 クラウディアは言った。


「ですが、薬草の臭いが黒水路にあるなら、薬草はどこかで水路と接している」


 部屋の外で、鐘が鳴った。


 朝を告げる鐘ではない。


 水務局の伝令鐘だ。


 一回。


 二回。


 三回。


 緊急ではないが、重大報告。


 若い職員が飛び込んできた。


「局長!」


「何だ」


「南区から伝令です。昨夜、黒水路の鐘を聞いたという住民がいます」


 ヴェルナー局長の表情が凍った。


 クラウディアは顔を上げる。


「黒水路の鐘?」


 若い職員は言いにくそうにした。


「南区の迷信です。地下で鐘が鳴る夜は、井戸水を飲むな、と」


「迷信ではありません」


 ヴェルナーが低く言った。


 部屋が静まる。


 クラウディアは彼を見た。


「局長」


「古い水鐘です」


「水鐘」


「旧王都時代、水位の上昇を知らせるため、暗渠の奥に鐘が仕込まれていたと聞いています。水が一定の高さに達すると、浮きが上がり、鎖が引かれ、鐘が鳴る」


「現存するのですか」


「確認されているものはありません」


「では、昨夜鳴った鐘は?」


 ヴェルナーは地図の空白を見た。


「黒水路の奥に、まだ生きている水鐘があるのかもしれません」


 クラウディアの胸の奥で、何かが噛み合った。


 王宮庭園の噴水。


 七歳の春。


 水位の異常。


 南第五井戸。


 黒水路。


 水鐘。


 古い都市は、ただ水を流していたのではない。


 水を読ませようとしていた。


 地上の人間が忘れても、地下の仕掛けはまだ警告している。


「昨夜、王宮庭園の噴水に異常は?」


 クラウディアは尋ねた。


 ヴェルナー局長が瞬きをした。


「噴水、ですか」


「はい」


「王宮庭園の噴水は、水務局庭園課の担当です。確認を」


「急いで」


 職員が走っていく。


 ベアタが不思議そうに言った。


「噴水が、関係あるのですか」


「分かりません」


 クラウディアは答えた。


「ですが、七歳の時、私は王宮庭園の噴水が止まった理由を排水溝から見つけました」


「それは」


「その時は、ただの噴水だと思っていました」


 彼女は現在図を見た。


 王宮庭園の水路は、南区とは離れている。


 だが旧図と財務図を重ねると、直接ではないにせよ、古い水位調整路が王都全体に伸びている可能性がある。


 もしそうなら。


 王宮の噴水は、ただの飾りではない。


 水圧か、水位か、地下水路の異常を示す装置だったのかもしれない。


 クラウディアは、幼い頃の父の声を思い出した。


 ――この子は、花より先に排水溝を見る。


 母の声も。


 ――王都を見るには、その方が向いております。


 あの日、彼女は噴水を直したのではない。


 王都の小さな脈を、一度だけ触っていたのだ。


 やがて、先ほどの職員が戻ってきた。


 息を切らしている。


「報告します。王宮庭園の中央噴水ですが」


「どうでした」


「昨夜、舞踏会の最中に水量が一時低下。庭園番は装飾用水路の不調と判断し、記録だけ残しております」


「水の色は」


「異常なし。ただし、今朝になって、わずかに白濁があると」


 ベアタが口元を押さえた。


 ヴェルナー局長も硬直している。


 クラウディアは静かに目を閉じた。


 南第五井戸。


 黒水路の鐘。


 王宮噴水の水量低下。


 そして白濁。


 王都の底で、何かが動いている。


 それは、ただの汚染ではない。


 都市全体に張り巡らされた古い水利機構が、忘れられた言葉で警告を発している。


「局長」


「はい」


「黒水路に入ります」


 即座に、ヴェルナーが首を横に振った。


「なりません」


「理由は」


「危険です」


「危険な理由を」


「地図が不完全。水位不明。崩落箇所多数。汚染の可能性あり。加えて、王宮命令で立ち入りが禁じられています」


「では、危険を減らしましょう」


「お嬢様」


「入らずに済むなら、それが最善です。ですが、現在図にない水路が生きている以上、外から見ているだけでは足りません」


 ヴェルナーは厳しい顔で言った。


「水務局の職員を入れます。お嬢様が入る必要はありません」


「私が入らなければ、見落とします」


「それは自信ですか」


「いいえ」


 クラウディアは地図を見下ろした。


「責任です」


 ヴェルナーは黙った。


「昨夜、私は王太子妃候補ではなくなりました。ですが、王都救済基金、慈善病院、井戸改修計画に関わってきた事実は消えません。私が見ていたはずの書類の中に、この異常の前兆があったかもしれない」


「それは、お嬢様の責任では」


「責任かどうかは後で判断します。今は原因を探します」


 ベアタが一歩前に出た。


「私も行きます」


 ヴェルナーが目をむいた。


「聖女様まで何を」


「患者記録に必要です。水がどこから来たのかを見なければ、同じ過ちをします」


「黒水路は礼拝堂ではありません」


「分かっています」


 ベアタは静かに言った。


「だから行きます」


 ヴェルナー局長は、二人の令嬢と聖女を交互に見た。


 泥のついた侯爵令嬢。


 帳面を抱いた聖女。


 どちらも、本来なら水務局の作図室にいるべき人物ではない。


 まして、黒水路へ入るべき人物ではない。


 だが、王都はすでに「本来なら」で動ける状態を過ぎていた。


 ヴェルナーは深く息を吐く。


「分かりました」


「局長」


「ただし、私の指示に従っていただきます。勝手に進まない。足場を確認せず踏まない。臭気が変わったら止まる。水音が増したら即時撤退。灯りを一つ失ったら戻る」


「承知しました」


「聖女様も」


「はい」


「白い服はやめていただきます」


 ベアタは少しだけ目を伏せた。


「……はい」


 クラウディアは地図を丸めなかった。


 逆に、さらに広げた。


「入る前に確認します。入口は救済院地下ではなく、古市場側から」


 ヴェルナーが意外そうに眉を上げた。


「なぜです」


「救済院地下は汚染源に近すぎます。水位も不安定。古市場側なら、黒水路の西支線から近づけます」


「商人ギルドが使っていれば、別の危険があります」


「だからこそ、そこから入ります。水だけでなく、人の流れも見ます」


 クラウディアは旧図の空白を指した。


「目的は三つ。第一に、南第五井戸へ逆流した経路の確認。第二に、水鐘の所在。第三に、この空白の先がどこへ繋がるか」


「第三は危険です」


「承知しています」


 その時、ベアタが小さな声で言った。


「あの、クラウディア様」


「はい」


「水鐘という言葉、古い聖歌にあります」


 クラウディアが振り返る。


「聖歌に?」


「はい。子どもの頃に習いました。意味は分からず、古い比喩だと思っていました」


「どのような歌詞ですか」


 ベアタは少し恥ずかしそうに、しかし確かな声で唱えた。


「水は低きへ、祈りは深きへ。

 王は門を開き、鐘は闇に告げる。

 白き石の下、眠る都を忘るなかれ」


 作図室が静まり返った。


 クラウディアの背筋に、冷たいものが走る。


 白き石。


 王宮の白大理石。


 眠る都。


 黒水路の奥。


 門。


 鐘。


 祈り。


 これはただの聖歌ではない。


 おそらく、初代王朝の水利機構を記憶するための歌だ。


 文字を読めない者にも、手順と警告を伝えるための歌。


「ベアタ様」


「はい」


「その聖歌、全文を思い出せますか」


「少し時間をいただければ」


「お願いします」


 ベアタは頷いた。


 ヴェルナー局長が低く呟く。


「白き石の下、眠る都を忘るなかれ……」


「局長」


「はい」


「沈んだ旧王都の伝承はありますか」


 ヴェルナーは答えるまでに、少し時間を置いた。


「南区の老人たちは言います。今の王都の下には、もう一つ王都が沈んでいる、と」


「水務局では?」


「迷信扱いです」


「本当に?」


 ヴェルナーは苦笑した。


「現場の者は、完全には笑いません。地下には時折、どう見ても下水道ではない石畳や、古い階段が出ます」


「記録は」


「あります。断片的に」


「集めてください」


「はい」


 クラウディアは窓の外を見た。


 朝日がようやく王都の屋根を照らし始めている。


 地上は美しかった。


 尖塔。


 赤い屋根。


 王宮の白い壁。


 遠くに見える庭園の噴水。


 だが、その下には別の都市があるのかもしれない。


 水路。


 鐘。


 門。


 沈んだ街。


 そして、王家が消した死者。


 婚約破棄された令嬢が手に入れたものは、慰謝料でも新しい婚約者でもなかった。


 王都の地下に眠る、巨大水路迷宮の鍵だった。


 もちろん、今のクラウディアはまだ鍵を手にしただけである。


 どの扉に合うのかも分からない。


 開けてよい扉なのかも分からない。


 それでも、開けなければならない。


 水がそこから来ているのだから。


「局長」


「はい」


「黒水路へ入る準備を。灯り、縄、石灰、簡易呼吸布、長靴、予備の地図。あと、南区の古い地名を知る者を一人」


「候補があります。退職した水路番で、名前はグスタフ。酒場に入り浸っていますが、黒水路の入口をいくつか知っております」


「呼んでください」


「承知」


「ベアタ様」


「はい」


「あなたは聖歌の全文を。祈祷院の埋葬記録も手配してください」


「分かりました」


「それから」


 クラウディアは少しだけ言葉を切った。


「今から見るものは、おそらく美しくありません」


 ベアタは静かに頷いた。


「昨夜、少しだけ分かりました」


「それでも?」


「はい」


 聖女ベアタは、帳面を胸に抱いた。


「私は、人を癒やしていると思っていました。けれど、その人が飲む水を見ていませんでした。なら、今度は見ます」


 クラウディアは頷いた。


「では、共に」


 その時だった。


 作図室の床下から、かすかな音がした。


 誰も動かなかった。


 ぽたり。


 ぽたり。


 水滴の音。


 この建物の下にも、水路はある。


 それ自体は珍しくない。


 だが次の瞬間、その音に混じって、遠い金属音が響いた。


 こおん。


 低く、長く、湿った鐘の音。


 ベアタが息を止めた。


 若い職員が顔を青ざめさせる。


 ヴェルナー局長は、机の端を強く握った。


 こおん。


 二度目の鐘。


 地上の教会ではない。


 王宮の朝鐘でもない。


 王都の底で、水が鐘を鳴らしていた。


 クラウディアは、地図の空白を見下ろした。


 死んだはずの水路が、王都の下で息をしている。


 そして今、その水路は確かに、地上へ何かを告げようとしていた。


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