第3話 死んだはずの水路が息をしている
夜明けの水務局は、王宮よりも早く目を覚ます。
いや、正確には眠っていない。
王都で水が流れている限り、水務局に完全な夜はない。
井戸番の報告。
雨水溝の詰まり。
市場からの苦情。
貴族屋敷の噴水修理。
貧民街の排水逆流。
王宮の庭園水路。
そして今朝は、南第五井戸の汚染。
クラウディア・フォン・カルンシュタインが水務局の扉をくぐった時、庁舎の中はすでに戦場だった。
書記官たちは紙束を抱えて走り、職員たちは泥のついた長靴で床を汚し、壁際では若い技師が水路図を広げたまま眠りかけている。
舞踏会の余韻など、ここには一粒もなかった。
あるのは、濡れた外套の匂い、石灰の粉、インク、焦げた茶、そして疲労である。
「お嬢様、こちらへ」
オットー・ヴェルナー局長が先に立った。
クラウディアは頷き、水務局の奥へ進む。
借り物の長靴には、まだ南区の泥がついていた。
濃紺の外出着の裾にも、汚水の跳ねた跡がある。
侯爵令嬢としては、間違いなく最悪の朝だった。
だが、都市を見る者としては、ようやく始まった朝だった。
「南第五井戸の封鎖状況は」
「継続中です。井戸番二名、水務局職員三名を配置。水売りの荷車は三台到着済み。軍馬用貯水樽は十六」
「残り四つは?」
「軍務局が、馬の飲み水を理由に拒否しております」
「担当者名を」
「控えております」
「よろしい」
クラウディアは短く答えた。
戦場で兵を動かすには、水がいる。
都市で民を生かすにも、水がいる。
軍務局がその順番を理解していないなら、後で財務局の数字で理解してもらうしかない。
「患者数は」
「夜明け前までに、腹痛および嘔吐の訴えが十二件。聖女ベアタ様が七件を癒やされました。重症は今のところなし」
「再発確認は」
「まだです」
「午前と夕刻の二回、同じ家を回ってください。癒やされた者ほど、記録から漏れます」
「承知しました」
その時、隣の部屋から声がした。
「局長! 南区支所から追加報告です!」
若い職員が飛び込んでくる。
髪は乱れ、片手に濡れた紙を握っていた。
「南第五井戸の西側、洗濯場近くの小排水溝で逆流あり。石灰を撒いて対応中」
「臭気は」
クラウディアが聞いた。
職員は一瞬、驚いたように彼女を見たが、すぐに姿勢を正した。
「腐卵臭に加えて、薬草の腐ったような甘い臭いがあるとのことです」
「薬草」
クラウディアは目を細めた。
「救済院の廃棄水ですか」
「可能性があります」
ヴェルナー局長が低く言った。
「工事現場からだけではなく、施療院内の排水も混ざったかもしれません」
「現在図を」
「はい」
ヴェルナーは奥の作図室へ案内した。
作図室は、水務局の心臓部だった。
中央に大きな机。
壁には無数の地図。
棚には筒状に丸められた羊皮紙と紙束。
床には、乾ききっていない泥の跡。
窓は小さく、朝の光はまだ弱い。
部屋の空気には、古い紙と湿った石の匂いが染みついていた。
クラウディアは部屋に入るなり、机の上を空けた。
「南区現在図を広げてください」
「南第五井戸周辺ですな」
「井戸だけではありません。救済院、洗濯場、北市場への給水路、旧南門跡まで」
書記官が地図を運んでくる。
現在の王都水路図。
線は整っていた。
主要排水路。
支線。
井戸。
雨水溝。
点検口。
水門。
現行水路だけを見るなら、南第五井戸の汚染は慈善施療院の工事ミスで説明できる。
排水溝を塞ぎ、汚水が逆流し、近くの井戸へ染みた。
単純だ。
あまりにも単純すぎる。
クラウディアは地図を見下ろした。
「水の流れが足りません」
ヴェルナーが眉を寄せる。
「足りない?」
「はい。工事現場の排水が南第五井戸へ影響したことは分かります。ですが、洗濯場まで逆流するには、水量が多すぎます」
「雨は?」
「昨夜は降っていません」
「地下湧水」
「この時期に急増する場所ではありません」
クラウディアは指先で地図をなぞった。
慈善施療院。
工事現場。
南第五井戸。
洗濯場。
小排水溝。
線は繋がっている。
だが、説明しきれない。
地図の上では、どこにもないはずの水が増えている。
「局長」
「はい」
「旧図を」
作図室の空気が、わずかに変わった。
若い職員たちが互いに顔を見合わせる。
ヴェルナー局長は少し黙った。
「旧図、と申しますと」
「旧王都暗渠図です」
「水務局の保管分は、断片しか残っておりません」
「承知しています。まずは断片で結構です」
ヴェルナーは書架の奥へ向かった。
鍵を取り出し、古い戸棚を開ける。
中から出てきたのは、黒ずんだ筒だった。
紐は擦り切れ、封蝋は半ば崩れている。
筒の表には、古い文字でこう書かれていた。
――旧南区排水路記録。
ヴェルナーは慎重に机へ置いた。
「百二十年前の写しです」
「原本は?」
「大火で失われたとされています」
「失われた、ですか」
クラウディアは小さく呟いた。
役所で「失われた」と書かれるものには二種類ある。
本当に燃えたもの。
燃えたことにしたもの。
ヴェルナーは旧図を広げた。
羊皮紙の端は傷み、ところどころ穴が空いている。
線は今の地図より粗い。
地名も古い。
縮尺も違う。
だが、クラウディアには読めた。
幼い頃から、父の書庫で見てきた種類の図だった。
美しくはない。
だが、嘘が少ない。
「この旧南門跡は、現在の慈善施療院の東側ですね」
「おそらく」
「この線は?」
「旧雨水路かと。現在は埋没扱いです」
「埋没扱い」
「はい」
「実際に確認した記録は?」
ヴェルナーは黙った。
それが答えだった。
クラウディアは旧図と現在図を重ねた。
縮尺が違うため、そのままでは合わない。
彼女は紙の端にある古い測量印を確認し、現在図の旧南門跡と照らし合わせる。
次に、古市場の位置。
さらに、今は教会裏になっている古井戸跡。
ずれを修正する。
すると、南第五井戸の下に一本の線が現れた。
現在図にはない線。
旧図にだけある線。
慈善施療院の地下をかすめ、洗濯場の下を通り、さらに西へ伸びる古い暗渠。
クラウディアは指を止めた。
「これです」
ヴェルナー局長の顔色が変わった。
「……そこに繋がりますか」
「ご存じなのですね」
ヴェルナーは答えなかった。
作図室にいた職員たちも、いつの間にか静かになっている。
外の喧騒だけが、遠く聞こえた。
クラウディアは旧図の線を辿った。
南第五井戸。
洗濯場。
旧南門跡。
その先。
地図の端に、不自然な空白がある。
線はそこで途切れていた。
羊皮紙が破れているわけではない。
染みで消えたわけでもない。
そこだけ、意図的に削られている。
「局長。この空白は何ですか」
ヴェルナーは深く息を吐いた。
「旧王都暗渠群の一部です」
「正式名称は」
「旧王都暗渠群、南支線」
「では、現場では?」
ヴェルナーは視線を伏せた。
「黒水路、と呼んでおります」
黒水路。
その名を聞いた瞬間、若い書記官の一人が顔を強張らせた。
クラウディアはそれを見逃さなかった。
「なぜ、黒水路と?」
「理由は諸説あります」
ヴェルナーは言った。
「水が黒いから。灯りが届かないから。入った者が、黒い顔で戻るから」
「戻らなかった者もいるのですね」
返事はなかった。
それで十分だった。
クラウディアは地図を見下ろす。
南第五井戸の問題は、もう単なる工事ミスではない。
死んだはずの水路が、現在の水路に影響している。
いや、死んだはずという認識そのものが間違いだったのだ。
水路は死なない。
忘れられるだけである。
「封鎖記録は」
「あります」
「いつ」
「七十八年前」
「理由は」
「老朽化および崩落危険」
「その前は」
ヴェルナーは表情を消した。
「大疫病の時代に、一部が使用されたと聞いております」
大疫病。
作図室の空気がさらに重くなった。
王都では、その言葉を軽々しく口にしない。
百年近く前、王都南区を中心に病が広がった。
王家の記録では、死者三百余。
現在の教科書では、迅速な封鎖と慈善施療によって被害は抑えられた、とされている。
だが、クラウディアは知っている。
母の慈善病院に残る古い薬剤記録。
父の財務書庫に眠る石灰購入記録。
それらは、三百という数字には多すぎた。
数字が合わない。
合わない数字は、どこかに死者を隠している。
「黒水路は、大疫病の搬送路だったのですね」
クラウディアが言うと、ヴェルナーは目を伏せた。
「公式には、そうではありません」
「公式には、ですね」
「お嬢様」
ヴェルナーの声が少し低くなった。
「黒水路は、ただの古い排水路ではありません。水務局の者でも、奥へ入ることは禁じられています」
「誰の命令で?」
「王宮です」
「いつから?」
「封鎖以来」
「七十八年前から、水務局は自分たちが管理するはずの水路へ入れないのですか」
「はい」
クラウディアは指先を旧図の空白に置いた。
王宮が封鎖した。
水務局が入れない。
現在図から消えている。
だが、昨夜の水はそこから来ている。
つまり、王宮が見ないことにした場所が、今の王都に病を運んでいる。
なんとも分かりやすい構図だった。
分かりやすく、最悪だった。
「財務図を」
クラウディアが言った。
ヴェルナーは眉をひそめた。
「水務局に財務図は」
「私が持っています」
クラウディアは革鞄を開けた。
中から細く丸めた紙束を取り出す。
昨夜、母の控室で着替えた時、鍵束と一緒に持ってきたものだ。
カルンシュタイン家に保管されていた写し。
百年前から八十年前にかけての南区修繕費記録。
父の書庫から勝手に持ち出したわけではない。
正確には、非常時に備え、クラウディアが以前から写しておいたものだった。
父には後で叱られるだろう。
だが、叱られるには王都が無事である必要がある。
紙を広げる。
そこにあるのは、水路図ではない。
費目だった。
石材。
人足。
鉄格子。
油。
蝋燭。
石灰。
担架。
布。
香草。
祈祷料。
埋葬費。
クラウディアは行を追った。
「大疫病の翌年、南支線の封鎖工事」
「はい」
「石材四百二十本。鉄格子十二枚。石灰二百樽」
若い職員が小さく息を呑んだ。
ヴェルナーの顔も険しくなる。
「多いですな」
「多すぎます」
クラウディアは旧図の空白を見た。
「単なる崩落危険箇所の封鎖に、この量の石灰は要りません」
「では、何を」
「消毒です」
作図室の誰も声を出さなかった。
石灰は嘘をつかない。
公式記録がどう書こうと、帳簿には痕跡が残る。
そこに大量の石灰があるなら、そこには何かを消そうとした人間がいる。
匂いを。
病を。
あるいは、死者を。
「さらに翌年」
クラウディアは続けた。
「同区画の補修費が出ています」
「封鎖した翌年に?」
「はい。水門補修、人足賃、油、縄」
「おかしいですな。封鎖した場所を、なぜ補修する」
「完全には塞がなかったからです」
クラウディアは静かに言った。
「黒水路は、公式には封鎖された。けれど水だけは逃がす必要があった」
ヴェルナーは地図を見る。
現在図。
旧図。
財務図。
三つの情報が、南第五井戸の下で重なっていた。
「王都南区の排水を殺さないため、細い流れを残した」
「おそらく」
「では昨夜、その細い流れに工事排水が入り込んだ」
「ええ」
「そして黒水路側から、南第五井戸へ戻った」
「はい」
クラウディアは頷いた。
「死んだはずの水路が、まだ息をしているのです」
その時、部屋の扉が開いた。
聖女ベアタが立っていた。
白いドレスではない。
簡素な修道服に近い外套を羽織っている。
髪もまとめ直され、顔には疲労が濃い。
それでも彼女は、手に帳面を抱えていた。
昨夜、クラウディアが渡した帳面である。
「入っても、よろしいでしょうか」
ヴェルナーが困ったようにクラウディアを見る。
クラウディアは頷いた。
「どうぞ、ベアタ様」
ベアタは部屋に入ると、まず深く頭を下げた。
「昨夜の患者記録です。癒やした方、癒やしていない方、再発の有無はまだ途中ですが、水を汲んだ時刻と場所は書きました」
「ありがとうございます」
クラウディアは帳面を受け取った。
文字は美しかった。
だが、ところどころ線が震えている。
おそらく、患者の家を回りながら書いたのだろう。
祈りの言葉ではなく、名前と時刻と症状を書く。
聖女にとっては、初めての種類の仕事だったに違いない。
クラウディアはページをめくった。
患者名。
年齢。
住まい。
水を汲んだ時刻。
症状。
癒やしの時刻。
備考。
その備考欄に、何度も同じ言葉が出ていた。
――薬草のような臭い。
――水が甘く腐ったようだった。
――救済院の裏で同じ臭い。
「ベアタ様」
「はい」
「救済院の薬草廃棄は、どの排水溝へ?」
ベアタはすぐには答えられなかった。
顔が青ざめる。
「……私は、知りませんでした」
「では、誰が知っていますか」
「薬剤係の修道士です。ですが、昨日は工事のため、裏庭の排水溝が使えないと言われ、臨時の水路へ流したと」
「臨時の水路」
ヴェルナー局長が低く唸った。
「その臨時水路が、旧暗渠に繋がった可能性があります」
ベアタは帳面を握りしめた。
「私たちは、病人を増やすために救済院を広げたのではありません」
「分かっています」
クラウディアは言った。
「ですが、意図と結果は別です」
ベアタは目を伏せた。
「はい」
その返事に、クラウディアは少しだけ彼女を見直した。
昨夜のベアタなら、ここで「でも、私たちは善意で」と言ったかもしれない。
今朝の彼女は、それを飲み込んだ。
飲み込んだうえで、記録を持ってきた。
これは前進だった。
「ベアタ様」
「はい」
「祈祷院に、大疫病時代の埋葬記録は残っていますか」
ベアタが顔を上げた。
「古いものなら、あると思います。正確には、大聖堂の地下文庫に」
「閲覧は可能ですか」
「聖職者であれば」
「では、あなたにお願いがあります」
「記録を、見るのですね」
「はい」
ベアタは小さく頷いた。
「分かりました。私が見ます」
その声は震えていなかった。
ただ、少し怖がっていた。
それでいい、とクラウディアは思った。
怖がらない者に、死者の記録は読ませない方がいい。
怖いと知って読む者だけが、そこに書かれた数字を人として扱える。
ヴェルナー局長が旧図の一点を指した。
「お嬢様。黒水路を調べるなら、入口は二つです」
「一つは救済院地下」
「はい。昨夜の工事現場から入れる可能性があります」
「もう一つは」
「古市場地下溜まりです」
ヴェルナーは地図の西側を押さえた。
「かつて市場だった場所の下に、大きな水溜まりがあります。現在は封鎖扱いですが、商人ギルドが勝手に使っているという噂もあります」
「噂ではなく、帳簿に出ます」
クラウディアは財務図の別紙を引いた。
「南区救済院への薬草納入量と、実際の在庫が合わないのです」
「横流しですか」
「可能性があります。薬草は水に消えたのではなく、水路で運ばれたのかもしれません」
ベアタが息を呑む。
「救済院の薬草が……」
「まだ決めつけません」
クラウディアは言った。
「ですが、薬草の臭いが黒水路にあるなら、薬草はどこかで水路と接している」
部屋の外で、鐘が鳴った。
朝を告げる鐘ではない。
水務局の伝令鐘だ。
一回。
二回。
三回。
緊急ではないが、重大報告。
若い職員が飛び込んできた。
「局長!」
「何だ」
「南区から伝令です。昨夜、黒水路の鐘を聞いたという住民がいます」
ヴェルナー局長の表情が凍った。
クラウディアは顔を上げる。
「黒水路の鐘?」
若い職員は言いにくそうにした。
「南区の迷信です。地下で鐘が鳴る夜は、井戸水を飲むな、と」
「迷信ではありません」
ヴェルナーが低く言った。
部屋が静まる。
クラウディアは彼を見た。
「局長」
「古い水鐘です」
「水鐘」
「旧王都時代、水位の上昇を知らせるため、暗渠の奥に鐘が仕込まれていたと聞いています。水が一定の高さに達すると、浮きが上がり、鎖が引かれ、鐘が鳴る」
「現存するのですか」
「確認されているものはありません」
「では、昨夜鳴った鐘は?」
ヴェルナーは地図の空白を見た。
「黒水路の奥に、まだ生きている水鐘があるのかもしれません」
クラウディアの胸の奥で、何かが噛み合った。
王宮庭園の噴水。
七歳の春。
水位の異常。
南第五井戸。
黒水路。
水鐘。
古い都市は、ただ水を流していたのではない。
水を読ませようとしていた。
地上の人間が忘れても、地下の仕掛けはまだ警告している。
「昨夜、王宮庭園の噴水に異常は?」
クラウディアは尋ねた。
ヴェルナー局長が瞬きをした。
「噴水、ですか」
「はい」
「王宮庭園の噴水は、水務局庭園課の担当です。確認を」
「急いで」
職員が走っていく。
ベアタが不思議そうに言った。
「噴水が、関係あるのですか」
「分かりません」
クラウディアは答えた。
「ですが、七歳の時、私は王宮庭園の噴水が止まった理由を排水溝から見つけました」
「それは」
「その時は、ただの噴水だと思っていました」
彼女は現在図を見た。
王宮庭園の水路は、南区とは離れている。
だが旧図と財務図を重ねると、直接ではないにせよ、古い水位調整路が王都全体に伸びている可能性がある。
もしそうなら。
王宮の噴水は、ただの飾りではない。
水圧か、水位か、地下水路の異常を示す装置だったのかもしれない。
クラウディアは、幼い頃の父の声を思い出した。
――この子は、花より先に排水溝を見る。
母の声も。
――王都を見るには、その方が向いております。
あの日、彼女は噴水を直したのではない。
王都の小さな脈を、一度だけ触っていたのだ。
やがて、先ほどの職員が戻ってきた。
息を切らしている。
「報告します。王宮庭園の中央噴水ですが」
「どうでした」
「昨夜、舞踏会の最中に水量が一時低下。庭園番は装飾用水路の不調と判断し、記録だけ残しております」
「水の色は」
「異常なし。ただし、今朝になって、わずかに白濁があると」
ベアタが口元を押さえた。
ヴェルナー局長も硬直している。
クラウディアは静かに目を閉じた。
南第五井戸。
黒水路の鐘。
王宮噴水の水量低下。
そして白濁。
王都の底で、何かが動いている。
それは、ただの汚染ではない。
都市全体に張り巡らされた古い水利機構が、忘れられた言葉で警告を発している。
「局長」
「はい」
「黒水路に入ります」
即座に、ヴェルナーが首を横に振った。
「なりません」
「理由は」
「危険です」
「危険な理由を」
「地図が不完全。水位不明。崩落箇所多数。汚染の可能性あり。加えて、王宮命令で立ち入りが禁じられています」
「では、危険を減らしましょう」
「お嬢様」
「入らずに済むなら、それが最善です。ですが、現在図にない水路が生きている以上、外から見ているだけでは足りません」
ヴェルナーは厳しい顔で言った。
「水務局の職員を入れます。お嬢様が入る必要はありません」
「私が入らなければ、見落とします」
「それは自信ですか」
「いいえ」
クラウディアは地図を見下ろした。
「責任です」
ヴェルナーは黙った。
「昨夜、私は王太子妃候補ではなくなりました。ですが、王都救済基金、慈善病院、井戸改修計画に関わってきた事実は消えません。私が見ていたはずの書類の中に、この異常の前兆があったかもしれない」
「それは、お嬢様の責任では」
「責任かどうかは後で判断します。今は原因を探します」
ベアタが一歩前に出た。
「私も行きます」
ヴェルナーが目をむいた。
「聖女様まで何を」
「患者記録に必要です。水がどこから来たのかを見なければ、同じ過ちをします」
「黒水路は礼拝堂ではありません」
「分かっています」
ベアタは静かに言った。
「だから行きます」
ヴェルナー局長は、二人の令嬢と聖女を交互に見た。
泥のついた侯爵令嬢。
帳面を抱いた聖女。
どちらも、本来なら水務局の作図室にいるべき人物ではない。
まして、黒水路へ入るべき人物ではない。
だが、王都はすでに「本来なら」で動ける状態を過ぎていた。
ヴェルナーは深く息を吐く。
「分かりました」
「局長」
「ただし、私の指示に従っていただきます。勝手に進まない。足場を確認せず踏まない。臭気が変わったら止まる。水音が増したら即時撤退。灯りを一つ失ったら戻る」
「承知しました」
「聖女様も」
「はい」
「白い服はやめていただきます」
ベアタは少しだけ目を伏せた。
「……はい」
クラウディアは地図を丸めなかった。
逆に、さらに広げた。
「入る前に確認します。入口は救済院地下ではなく、古市場側から」
ヴェルナーが意外そうに眉を上げた。
「なぜです」
「救済院地下は汚染源に近すぎます。水位も不安定。古市場側なら、黒水路の西支線から近づけます」
「商人ギルドが使っていれば、別の危険があります」
「だからこそ、そこから入ります。水だけでなく、人の流れも見ます」
クラウディアは旧図の空白を指した。
「目的は三つ。第一に、南第五井戸へ逆流した経路の確認。第二に、水鐘の所在。第三に、この空白の先がどこへ繋がるか」
「第三は危険です」
「承知しています」
その時、ベアタが小さな声で言った。
「あの、クラウディア様」
「はい」
「水鐘という言葉、古い聖歌にあります」
クラウディアが振り返る。
「聖歌に?」
「はい。子どもの頃に習いました。意味は分からず、古い比喩だと思っていました」
「どのような歌詞ですか」
ベアタは少し恥ずかしそうに、しかし確かな声で唱えた。
「水は低きへ、祈りは深きへ。
王は門を開き、鐘は闇に告げる。
白き石の下、眠る都を忘るなかれ」
作図室が静まり返った。
クラウディアの背筋に、冷たいものが走る。
白き石。
王宮の白大理石。
眠る都。
黒水路の奥。
門。
鐘。
祈り。
これはただの聖歌ではない。
おそらく、初代王朝の水利機構を記憶するための歌だ。
文字を読めない者にも、手順と警告を伝えるための歌。
「ベアタ様」
「はい」
「その聖歌、全文を思い出せますか」
「少し時間をいただければ」
「お願いします」
ベアタは頷いた。
ヴェルナー局長が低く呟く。
「白き石の下、眠る都を忘るなかれ……」
「局長」
「はい」
「沈んだ旧王都の伝承はありますか」
ヴェルナーは答えるまでに、少し時間を置いた。
「南区の老人たちは言います。今の王都の下には、もう一つ王都が沈んでいる、と」
「水務局では?」
「迷信扱いです」
「本当に?」
ヴェルナーは苦笑した。
「現場の者は、完全には笑いません。地下には時折、どう見ても下水道ではない石畳や、古い階段が出ます」
「記録は」
「あります。断片的に」
「集めてください」
「はい」
クラウディアは窓の外を見た。
朝日がようやく王都の屋根を照らし始めている。
地上は美しかった。
尖塔。
赤い屋根。
王宮の白い壁。
遠くに見える庭園の噴水。
だが、その下には別の都市があるのかもしれない。
水路。
鐘。
門。
沈んだ街。
そして、王家が消した死者。
婚約破棄された令嬢が手に入れたものは、慰謝料でも新しい婚約者でもなかった。
王都の地下に眠る、巨大水路迷宮の鍵だった。
もちろん、今のクラウディアはまだ鍵を手にしただけである。
どの扉に合うのかも分からない。
開けてよい扉なのかも分からない。
それでも、開けなければならない。
水がそこから来ているのだから。
「局長」
「はい」
「黒水路へ入る準備を。灯り、縄、石灰、簡易呼吸布、長靴、予備の地図。あと、南区の古い地名を知る者を一人」
「候補があります。退職した水路番で、名前はグスタフ。酒場に入り浸っていますが、黒水路の入口をいくつか知っております」
「呼んでください」
「承知」
「ベアタ様」
「はい」
「あなたは聖歌の全文を。祈祷院の埋葬記録も手配してください」
「分かりました」
「それから」
クラウディアは少しだけ言葉を切った。
「今から見るものは、おそらく美しくありません」
ベアタは静かに頷いた。
「昨夜、少しだけ分かりました」
「それでも?」
「はい」
聖女ベアタは、帳面を胸に抱いた。
「私は、人を癒やしていると思っていました。けれど、その人が飲む水を見ていませんでした。なら、今度は見ます」
クラウディアは頷いた。
「では、共に」
その時だった。
作図室の床下から、かすかな音がした。
誰も動かなかった。
ぽたり。
ぽたり。
水滴の音。
この建物の下にも、水路はある。
それ自体は珍しくない。
だが次の瞬間、その音に混じって、遠い金属音が響いた。
こおん。
低く、長く、湿った鐘の音。
ベアタが息を止めた。
若い職員が顔を青ざめさせる。
ヴェルナー局長は、机の端を強く握った。
こおん。
二度目の鐘。
地上の教会ではない。
王宮の朝鐘でもない。
王都の底で、水が鐘を鳴らしていた。
クラウディアは、地図の空白を見下ろした。
死んだはずの水路が、王都の下で息をしている。
そして今、その水路は確かに、地上へ何かを告げようとしていた。




