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第2話 聖女は人を癒やせるが、井戸は癒やせない

 王宮の廊下は、夜になると別の顔を見せる。


 昼間は金の縁取りと赤い絨毯で飾られ、王家の威厳を見せつけるための場所だ。


 だが、夜になると違う。


 壁際に控える燭台の火は低く、絨毯の端には昼間の靴跡が残り、磨き上げられた窓には、外の闇が黒い水のように張りついている。


 その廊下を、クラウディア・フォン・カルンシュタインは歩いていた。


 白銀のドレスの裾を片手で持ち上げ、もう片方の手で髪飾りを外す。


 宝石をちりばめた髪飾りは、月明かりを受けて美しく輝いた。


 実務には、まったく向かない。


「ヴェルナー局長」


「はい」


「馬車は?」


「水務局のものを裏門へ回しております。ですが、お嬢様、そのお召し物では」


「分かっています」


 クラウディアは歩きながら、耳飾りを外した。


 小さな真珠が掌に落ちる。


「着替えます。母の控室を通ります」


 ヴェルナー局長――王都水務局長オットー・ヴェルナーは、灰色の礼服のまま頷いた。


 彼もまた、舞踏会にふさわしい格好をしていた。


 ただし、その顔色は貴族たちとは違う。


 青ざめているのではない。


 焦っているのでもない。


 すでに現場の人間の顔になっていた。


「南第五井戸の使用世帯数は」


「登録上は二百八十七世帯です」


「登録上は?」


「未登録の借家人、露店商、洗濯女、日雇い労働者を含めれば、四百を超えるかと」


「なら、水桶の数は足りませんね」


「ええ」


「北市場から回すだけでは不足します。西門の軍馬用貯水樽を借りてください」


 ヴェルナーはわずかに目を見開いた。


「軍務局が渋ります」


「私の名前ではなく、カルンシュタイン侯爵家の名で借りると言ってください」


「それでも渋るかと」


「では、三日後に王都南区の腹痛が軍営に入った時、誰の馬から倒れるかを聞いてください」


「……承知しました」


 クラウディアは角を曲がる。


 舞踏会場のざわめきは、もう遠かった。


 代わりに聞こえてきたのは、王宮の裏側の音だ。


 使用人が走る足音。


 食器が片づけられる音。


 馬車の車輪。


 厨房の水場から流れる排水の音。


 王宮は、夜でも生きている。


 美しい場所ほど、裏側は忙しい。


 母の控室の前には、すでに侍女が二人立っていた。


 扉が開く。


 中には、クラウディアの母、エレオノーラ・フォン・カルンシュタインがいた。


 扇を閉じ、椅子に腰掛けている。


 その顔には、先ほどの舞踏会場で見せた静かな笑みがまだ残っていた。


「遅かったわね、クラウディア」


「婚約破棄されておりましたので」


「そう。では急ぎましょう」


 母は驚きもしなかった。


 泣きもしなかった。


 ただ、娘のドレスを上から下まで見て、淡々と言った。


「その格好で井戸へ行くつもり?」


「まさか」


「よろしい」


 母が指を鳴らすと、侍女たちが動いた。


 背中の留め具が外され、重いドレスが肩から落ちる。


 真珠。


 絹。


 刺繍。


 舞踏会のための装いが、次々と剥がされていく。


 代わりに用意されたのは、濃紺の外出着だった。


 裾は短く、歩きやすい。


 袖は絞られ、手元を邪魔しない。


 腰には小さな革鞄を吊るせるようになっている。


「お母様」


「なに?」


「慈善病院の裏倉庫の鍵を」


「机の上」


 見ると、鍵束が置かれていた。


 大きさの違う鍵が七つ。


 どれも磨き込まれている。


 母は微笑んだ。


「あなたなら必要になると思って」


「ありがとうございます」


「南第五井戸?」


「はい」


「増築工事の場所ね」


「おそらく旧排水路を潰しています」


「でしょうね」


 母は軽く息を吐いた。


「善意のために急いだ工事は、たいてい善意の届く道を壊すものよ」


 クラウディアは母を見た。


 その言葉は、少しだけ苦かった。


 母は慈善病院を長く支えてきた人間である。


 だからこそ知っている。


 善意が制度を無視した時、何が起きるかを。


「ベアタ様も救済院へ向かわせました」


「聖女様を?」


「はい」


「良い判断ね。あの方の力は必要です。ただし、現場を見なければ、あの方は一生、自分が奇跡だけで人を救っていると思い続けるでしょう」


 母は立ち上がり、クラウディアの襟元を整えた。


 それは、幼い頃から変わらない手つきだった。


 舞踏会へ送り出す時も。


 王太子妃教育へ向かわせる時も。


 そして今、汚れた井戸へ向かう時も。


「クラウディア」


「はい」


「婚約破棄された娘に言う言葉ではないのでしょうけれど」


「はい」


「泣くのは後になさい。水は待たないのでしょう?」


 クラウディアは一瞬だけ、目を伏せた。


 胸の奥に、何かが小さく沈む。


 婚約破棄。


 大広間。


 嘲笑。


 王太子の声。


 聖女の白いドレス。


 それらは確かに彼女の中に残っていた。


 痛くないわけではない。


 悔しくないわけでもない。


 ただ、それより先にやるべきことがある。


「はい、お母様」


 クラウディアは鍵束を手に取った。


「泣くなら、井戸を封鎖してからにいたします」


 母は満足そうに頷いた。


「それでこそ、カルンシュタインの娘です」


 控室を出ると、ヴェルナー局長が待っていた。


 彼はクラウディアの服装を見て、深く頷いた。


「これで走れますな」


「走る必要がある場所へ、馬車で向かいます」


「ごもっとも」


 二人は裏門へ向かった。


 そこには、水務局の紋章をつけた黒い馬車が止まっていた。


 王宮の正門に並ぶ貴族馬車とは違う。


 飾り気がなく、車輪が太く、荷台には木箱と巻いた地図が積まれている。


 実務の馬車だった。


 クラウディアが乗り込むと、ヴェルナーも続いた。


 扉が閉まる。


 馬車が走り出した。


 王宮の敷地を出ると、空気が変わった。


 香油と蝋燭の匂いが薄れ、代わりに夜の王都の匂いが入ってくる。


 湿った石畳。


 馬糞。


 焼き菓子の残り香。


 川の水。


 そして、どこか遠くで腐り始めたものの匂い。


 クラウディアは窓を少し開けた。


「閉めなくてよろしいので?」


「匂いを見ます」


「匂いを」


「水は目で濁る前に、匂いで訴えることがあります」


 ヴェルナーは少しだけ笑った。


「お嬢様は、本当に変わられませんな」


「変わりました。今夜、婚約者ではなくなりました」


「それは、王都にとって幸いかもしれません」


「局長」


「失礼を」


「いいえ」


 クラウディアは窓の外を見た。


 王都の夜は、場所によって明るさが違う。


 貴族街は灯火が整い、見張りもいる。


 商業区はまだ賑やかで、酒場から笑い声が漏れている。


 だが南区に近づくにつれ、灯りはまばらになった。


 道幅は狭くなり、建物の影は濃くなり、水路の蓋は欠けたものが増える。


 王都は一つの都ではない。


 いくつもの都が、同じ城壁の中に押し込められている。


 貴族の王都。


 商人の王都。


 職人の王都。


 貧民の王都。


 そして、その全ての下を水が流れている。


「報告を」


 クラウディアは言った。


 ヴェルナーは鞄から紙束を取り出した。


「南第五井戸付近で、昨夜より腹痛と嘔吐の訴えが三件。うち一件は救済院に運ばれ、聖女ベアタ様の癒やしを受けて回復」


「回復したため、報告が軽く扱われた」


「はい」


「他には」


「本日夕刻、井戸番が臭気を確認。水を汲んだ洗濯女が苦情を言い、水務局支所へ届け出ました」


「洗濯女の名は?」


「アンナ」


「覚えておいてください」


「はい?」


「最初に異変を報告した者の名です。後で褒賞が必要です」


 ヴェルナーは紙に小さく書き込んだ。


「承知しました」


「異変を見つけた者が損をする都市は、次の異変を見逃します」


「……おっしゃる通りです」


 馬車が揺れた。


 外で誰かが叫ぶ声がする。


 南区に入ったのだ。


 道の先に、人だかりが見えた。


 井戸の周りに、住民たちが集まっている。


 桶を抱えた女。


 子どもの手を引く男。


 肩に布袋をかけた露店商。


 不安と苛立ちが、夜気の中で混じっていた。


 馬車が止まる。


 クラウディアが降りると、ざわめきが起きた。


「貴族様?」


「舞踏会じゃなかったのか」


「水務局だ」


「井戸を止めるって本当か?」


 ヴェルナー局長が一歩前に出た。


「南第五井戸は、ただいまより一時封鎖する!」


 その瞬間、怒号が上がった。


「ふざけるな!」


「明日の水はどうする!」


「子どもがいるんだぞ!」


「金持ちは困らないだろうが、こっちは井戸がなきゃ生きられないんだ!」


 当然の反応だった。


 井戸は生活だ。


 井戸を止めるとは、水を止めることではない。


 炊事を止めること。


 洗濯を止めること。


 商売を止めること。


 母親の眠りを奪うこと。


 だから、ただ命じるだけでは人は動かない。


 クラウディアは前に出た。


「南第五井戸を使っている皆様に申し上げます」


 声を張る。


 舞踏会のためではない。


 現場に届かせるための声だった。


「この井戸は現在、汚染の疑いがあります。今夜から明朝にかけて使用を続ければ、腹痛と発熱が広がる恐れがあります」


「恐れってなんだ!」


 男が怒鳴った。


「確かじゃないなら使わせろ!」


「確かになってからでは遅いのです」


 クラウディアは言い返した。


「井戸の汚れは、病人の数で証明するものではありません」


「じゃあ俺たちに喉が渇いて死ねっていうのか!」


「いいえ」


 クラウディアは即座に答えた。


「北市場から水売りの荷車を三台。西門から軍馬用貯水樽を二十。慈善病院の裏倉庫から桶と石灰を運びます。今夜の炊事用水は世帯ごとに配給。洗濯は明日正午まで停止。商売用の水は申告制です」


 ざわめきが変わった。


 怒りの中に、計算が入り込む。


 人は不安だけでは動かない。


 だが、手順が示されると耳を傾ける。


「申告制って、誰に言えばいい!」


「水務局の者が名簿を作ります。ヴェルナー局長」


「はい」


「井戸使用者を三列に。世帯、商売、病人ありの家に分けてください。病人ありの家を最優先。小さな子どもと老人がいる家は印を」


「承知」


「慈善病院から布を。井戸の周りに仮の仕切りを作ります。水桶を汚染区域へ入れないで」


「はい!」


 水務局の職員たちが走り出す。


 すると、群衆の中から一人の女が声を上げた。


「うちの子が夕方から腹が痛いって!」


 クラウディアは振り向いた。


「水を飲みましたか」


「飲んだよ! 昼に!」


「嘔吐は?」


「一度」


「熱は」


「少し」


 その時、白い影が人垣を割って現れた。


 聖女ベアタだった。


 舞踏会の白いドレスのまま、裾を汚しながら駆けてきたのだ。


 取り巻きの神官が二人、息を切らして続いている。


「その子を見せてください!」


 ベアタは迷わず膝をついた。


 母親が抱いていた子どもに手を当てる。


 白い光が、夜の井戸端に淡く広がった。


 周囲から、安堵の声が漏れる。


「聖女様だ」


「助かった」


「これなら大丈夫だ」


 ベアタの額に汗が浮かぶ。


 子どもの呼吸が落ち着き、泣き声が弱まった。


 母親が涙を流す。


「ありがとうございます、聖女様!」


 ベアタは微笑んだ。


 その笑みは本物だった。


 人を救えた喜び。


 誰かの苦しみを軽くできた安堵。


 クラウディアは、その光景を黙って見ていた。


 美しい。


 確かに美しい。


 だが、美しいだけでは足りない。


「ベアタ様」


 クラウディアは言った。


「その子が昼に飲んだ水桶を隔離してください」


 ベアタが顔を上げる。


「え?」


「水桶です。まだ家に残っているなら、誰にも触れさせないでください」


「で、でも、この子はもう」


「その子は癒えました」


 クラウディアは井戸を見た。


「ですが、その子が飲んだ水は癒えていません」


 ベアタの表情が揺れた。


 周囲の人々も、少しずつその意味に気づき始める。


 聖女が子どもを癒やしても、井戸が汚れたままなら、次の子どもが倒れる。


 次の母親が泣く。


 次の祈りが必要になる。


 奇跡が追いつく限り、人は救えるかもしれない。


 けれど、それは井戸の汚れが消えたことを意味しない。


「ベアタ様」


 クラウディアは静かに続けた。


「あなたにお願いがあります」


「私に……?」


「倒れた方を癒やしてください。ですが、癒やした方の家、飲んだ水、使った桶、食べた物を必ず記録してください」


「記録……」


「はい」


「私は、治療を」


「治療の一部です」


 クラウディアは言った。


「誰が、どこの水を、いつ飲んで倒れたのか。それが分からなければ、次に倒れる人を減らせません」


 ベアタは唇を噛んだ。


 おそらく彼女は、こんなことを言われたことがないのだろう。


 癒やしの奇跡は、いつも感謝される。


 祈れば人は立ち上がる。


 涙は笑顔に変わる。


 そこに帳簿はない。


 水桶の確認もない。


 汚れた布をどこへ置くかもない。


 しかし、今夜の王都は違った。


 祈りのすぐ横で、汚れた水が息をしている。


「……分かりました」


 ベアタは小さく頷いた。


「何を書けばよいのですか」


 クラウディアは腰の革鞄から小さな帳面を取り出した。


「名前。年齢。住まい。井戸を使った時刻。症状。飲んだ水の量。癒やしを施した時刻。再発の有無」


「そんなに」


「命は、細かいところで落ちます」


 ベアタは帳面を受け取った。


 その手は少し震えていた。


「クラウディア様」


「はい」


「私は、今まで……何も見ていなかったのでしょうか」


 その問いは、井戸端のざわめきの中で、ひどく小さく聞こえた。


 クラウディアは一瞬だけ黙った。


 責めることは簡単だった。


 あなたは無知です、と言えばよい。


 善意だけで人を救えると思っていたのです、と切ればよい。


 だが、それでは誰も救われない。


「見ていました」


 クラウディアは答えた。


「苦しむ人を、あなたは誰より近くで見ていました」


 ベアタの目が揺れる。


「ですが、近すぎると、苦しみの原因が見えないことがあります」


「原因……」


「だから今夜は、少しだけ引いて見てください」


 クラウディアは井戸を指した。


「人ではなく、水を。涙ではなく、その涙がどこから来るのかを」


 ベアタは何も言わなかった。


 ただ、帳面を抱きしめるように持った。


 その時、ヴェルナー局長が戻ってきた。


「お嬢様。井戸番から確認が取れました。昨日の夕刻、慈善施療院の増築現場から泥水が流れ込んだ可能性があります」


「排水溝は?」


「臨時の板で塞いでいたそうです」


「誰の指示で?」


「現場監督です。理由は、工事車両の通行に邪魔だったため」


 クラウディアは目を閉じた。


 想像通りだった。


 道を通すために排水を塞ぐ。


 工事を急ぐために確認を省く。


 慈善のためだから、と誰も止めない。


 その結果、井戸が汚れる。


 善意は、手順を省く免罪符ではない。


「現場へ向かいます」


 クラウディアは言った。


「ここは局長に」


「お嬢様は?」


「詰まりの場所を見ます」


「危険です」


「見なければ、どこを止めるか決められません」


 ヴェルナーは苦い顔をしたが、反論しなかった。


 その代わり、職員の一人に指示を飛ばす。


「灯りを二つ。縄を一本。あと、長靴を」


「はい!」


 クラウディアは足元を見た。


 急いで着替えたとはいえ、まだ靴は王宮用だった。


 泥に向かない。


 まったく向かない。


 だが、今さら靴を理由に戻るわけにもいかない。


 その時、横から古びた長靴が差し出された。


 洗濯女らしき女性だった。


 年は三十ほど。


 手は荒れ、腕には濡れた布をかけている。


「お嬢様、これ」


「あなたは?」


「アンナです。井戸の匂いを届けた者です」


 クラウディアは彼女を見た。


「あなたがアンナ」


「はい。あの、そんな綺麗な靴じゃ、南の路地は無理です」


 クラウディアは長靴を受け取った。


「ありがとうございます。必ず返します」


「返さなくていいです。代わりに、井戸を返してください」


 周囲が静かになった。


 重い言葉だった。


 だが、正しい言葉だった。


 クラウディアは深く頷いた。


「必ず」


 その場で靴を履き替える。


 侯爵令嬢が、井戸端で洗濯女の長靴を履く。


 貴族社会なら、眉をひそめる者もいるだろう。


 だが、南第五井戸の前で、それを笑う者はいなかった。


 水が止まった場所では、身分より桶の方が重い。


「行きましょう」


 クラウディアは灯りを受け取った。


 ベアタが一歩前に出た。


「私も行きます」


「あなたはここで患者を」


「行きます」


 ベアタは震えながらも、はっきり言った。


「私は、水を見ていませんでした。なら、見ます」


 クラウディアは彼女を見た。


 白いドレスの裾はすでに泥で汚れている。


 舞踏会の聖女ではなくなっていた。


 ただ、今の彼女は少しだけ頼もしかった。


「では、記録係として」


「はい」


「見たことを、すべて書いてください。美しい言葉に直さずに」


 ベアタは頷いた。


「分かりました」


 二人は南区の奥へ歩き出した。


 狭い路地を抜け、洗濯場を過ぎ、慈善施療院の増築現場へ向かう。


 夜の路地は暗かった。


 建物の間から湿った風が吹く。


 足元では、細い排水溝が黒く光っている。


 クラウディアは灯りを低く掲げた。


 石畳の隙間に、水の跡がある。


 流れが逆だ。


「ここです」


 彼女はしゃがみ込んだ。


「本来なら、こちらへ流れるはずが、南第五井戸側へ戻っています」


 ベアタも膝をついた。


 白いドレスがさらに汚れる。


 もう彼女は気にしていなかった。


「どうして逆に?」


「出口を塞いだからです。水は消えません。行き場を失えば、別の弱い場所へ逃げます」


「弱い場所……」


「今回は井戸です」


 ベアタの顔が青ざめる。


 目の前の細い水筋が、急に恐ろしいものに見えたのだろう。


 人を倒すのは、怪物だけではない。


 魔法だけでもない。


 石畳の下を流れる、見えない水も人を殺す。


 施療院の増築現場に着くと、問題の場所はすぐに分かった。


 資材置き場を作るため、古い排水溝の上に板が渡され、土嚢で押さえられていた。


 その脇から、黒ずんだ水がじわじわと漏れている。


 ヴェルナー局長が低く唸った。


「これは……」


「板を外してください」


「すぐに」


 職員たちが動く。


 土嚢を退かす。


 板を剥がす。


 その瞬間、溜まっていた汚水が音を立てて流れ出した。


 ベアタが思わず口元を押さえる。


 臭気が立ち上る。


 腐った卵のような匂い。


 湿った布のような匂い。


 長く閉じ込められていた水の匂い。


「これが」


 ベアタが呟いた。


「これが、あの子を」


「可能性は高いです」


 クラウディアは言った。


「ただし、決めつけません。水の流れ、患者の家、症状の時間を照らし合わせます」


「まだ、調べるのですか」


「はい」


「見れば、分かるのに」


「見れば分かる、で間違える人が多いのです」


 クラウディアは灯りを上げた。


「王太子殿下も、あなたを見て、民を救えると思った。あなたは病人を見て、癒やせばよいと思った。現場監督は板を見て、邪魔だから塞げばよいと思った」


 ベアタは息を呑む。


「見るだけでは足りません。繋げなければ」


 沈黙が落ちた。


 夜の工事現場で、水の流れる音だけが響く。


 やがて、塞がれていた排水が少しずつ本来の方向へ戻り始めた。


 細い流れ。


 頼りない流れ。


 だが、水は道を得ると、迷わず進んだ。


 ヴェルナー局長が職員へ指示を飛ばす。


「仮排水路を掘れ! 板は全部外す! 井戸側へ逆流している溝は石灰を撒け!」


「はい!」


 クラウディアは工事現場の奥を見た。


 積まれた木材。


 雑に置かれた石材。


 雨よけもない薬草箱。


 そして、施療院の壁に掲げられた美しい看板。


 ――聖女ベアタ救済院増築予定地。


 皮肉なほど、綺麗な文字だった。


 ベアタもそれを見ていた。


 自分の名前が書かれた看板を。


 その下で、汚水が流れている光景を。


「クラウディア様」


「はい」


「私は、あの看板を見て、嬉しかったのです」


「ええ」


「もっと多くの人を救えると思いました」


「ええ」


「でも、そのための工事で、井戸が汚れた」


 ベアタの声は震えていた。


「私の善意で、人が倒れたのですか」


 クラウディアはすぐには答えなかった。


 ここで慰めることはできた。


 あなたのせいではありません、と。


 事実、直接の責任は現場監督にある。


 確認を怠った工事管理者にある。


 それを許した役所にもある。


 だが、ベアタが今、そこから目を逸らせば、彼女はまた同じ場所へ戻ってしまう。


「あなた一人の善意ではありません」


 クラウディアは言った。


「多くの善意です」


 ベアタが顔を上げる。


「寄付した貴族の善意。名誉を求めた王太子殿下の善意。早く病人を受け入れたい施療院の善意。あなたを慕う人々の善意」


 クラウディアは、流れ出した汚水を見た。


「善意が多すぎて、誰も止まれなかったのです」


 ベアタの目から、涙がこぼれた。


 しかし彼女は泣き崩れなかった。


 帳面を握りしめ、汚れた水路を見つめ続けた。


「私は、何をすればいいですか」


「記録を」


「はい」


「そして、明日から救済院で水場を確認してください。患者を癒やす前に、患者がどこで水を汲んだかを聞く。飲み水と洗い水を分ける。汚れた布をどこへ捨てるか決める。癒やした後、再発した者がいないか追う」


「……それは、聖女の仕事でしょうか」


「人を救う仕事です」


 ベアタは涙を拭った。


「なら、私の仕事です」


 その返事に、クラウディアは少しだけ目を細めた。


 聖女ベアタは無知だった。


 だが、愚かではないのかもしれない。


 少なくとも今、彼女は自分の白いドレスが汚れることより、水路を見ることを選んだ。


 その時、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。


 夜の路地に、不自然に整った音。


 貴族の護衛騎馬だ。


 ヴェルナー局長が顔を上げる。


「王宮からですな」


 やがて、騎士たちが現れた。


 先頭にいたのは、王太子ヴィクトールの側近である若い男だった。


 彼は工事現場の惨状を見ると、顔をしかめた。


「クラウディア・フォン・カルンシュタイン侯爵令嬢」


「はい」


「殿下がお呼びです。直ちに王宮へ戻られよ」


 クラウディアは返事をしなかった。


 排水の流れを見ていた。


 側近の声が苛立つ。


「聞こえなかったのですか。殿下のご命令です」


「ヴェルナー局長」


「はい」


「南第五井戸の封鎖は完了しましたか」


「現在、縄と封印を。井戸番二名を配置済みです」


「水の配給は」


「北市場の荷車が一台到着。残り二台も向かっています」


「軍馬用貯水樽は」


「交渉中です」


「交渉ではなく、徴用記録にしてください。後で父が財務局へ補償を通します」


「承知しました」


 側近の顔が赤くなった。


「クラウディア様!」


 ようやくクラウディアは彼を見た。


「何でしょう」


「殿下がお呼びです」


「私は今、水務局の緊急対応に協力しております」


「あなたにはもう、その権限はないはずです」


「はい。ですので、命令はしておりません」


 クラウディアは静かに言った。


「助言と私財提供と家名による信用貸しを行っております」


 側近は言葉に詰まった。


「それは……」


「違法でしたら、後ほど正式に抗議文をください。今は水が流れています」


「しかし殿下が」


「殿下にお伝えください」


 クラウディアは、工事現場の汚水へ視線を戻した。


「井戸は殿下のお召しを待てません」


 側近が絶句する。


 ベアタが小さく息を呑んだ。


 ヴェルナー局長は、口元を隠すように咳払いをした。


「……そのまま伝えればよろしいのですか」


「はい」


「不敬と取られます」


「では、こう言い換えてください」


 クラウディアは少し考えた。


「王都南区における水質異常への初動対応が完了次第、正式に参上いたします、と」


「最初からそう言ってください!」


「急いでいるのでしょう?」


 側近は悔しそうに歯を食いしばったが、反論できなかった。


 結局、騎士たちは王宮へ戻っていった。


 その背中を見送りながら、ベアタがぽつりと言った。


「殿下は、怒るでしょうね」


「でしょうね」


「怖くはないのですか」


「怖いです」


 クラウディアは即答した。


 ベアタが驚いた顔をする。


「怖いのですか」


「王太子殿下に逆らうのは、怖いことです。侯爵家にも影響します。父にも母にも迷惑がかかるでしょう」


「では、どうして」


「怖いことと、やるべきことは別です」


 クラウディアは水路を見た。


 ようやく流れが安定してきた。


「それに、私は今夜、婚約者ではなくなりました」


「……はい」


「ならば、殿下の隣で美しく黙っている義務もなくなりました」


 ベアタは何も言えなかった。


 その顔には、痛みと理解が同時に浮かんでいた。


 彼女もまた、王太子の隣に立つ者である。


 あるいは、これから立つ者になる。


 白いドレスを着て、清らかな言葉を求められ、民の前で微笑む者に。


 だが今夜、彼女は知ったはずだ。


 王太子の隣から見える民と、井戸端から見える民は違う。


「ベアタ様」


「はい」


「あなたが本当に民を救いたいなら、殿下の隣だけにいてはいけません」


 ベアタは目を伏せた。


「……覚えておきます」


 夜が深くなる頃、南第五井戸の封鎖は完了した。


 水売りの荷車が三台到着し、貯水樽も十六だけ確保できた。


 残り四つは軍務局が最後まで渋ったらしい。


 クラウディアは、その担当者名を控えさせた。


 水が必要な時に水を出し渋る部署は、次の会計監査でよく喋ることになる。


 井戸の周囲には縄が張られ、石灰が撒かれた。


 病人のいる家には印がつけられ、ベアタと神官たちが巡回に向かう。


 彼女はもう、ただ祈るだけではなかった。


 帳面を持ち、水桶を確認し、患者の家族に同じ質問を繰り返している。


 ぎこちない。


 遅い。


 何度も聞き返している。


 だが、始めていた。


 その姿を見て、ヴェルナー局長が小さく言った。


「聖女様は、変わられますかな」


「分かりません」


 クラウディアは答えた。


「ですが、今夜見たものを忘れなければ」


「忘れなければ?」


「少なくとも、井戸を癒やそうとはしないでしょう」


 ヴェルナー局長は笑った。


 疲れた笑いだった。


 だが、少しだけ救われたような笑いでもあった。


 東の空が、かすかに白み始めていた。


 王都の夜が終わる。


 だが、問題は終わっていない。


 南第五井戸の水質検査。


 施療院増築工事の責任追及。


 慈善基金の支出記録。


 現場監督の証言。


 王太子からの呼び出し。


 そして、婚約破棄の正式書面。


 やるべきことは、山のようにあった。


 クラウディアは、泥のついた長靴を見下ろした。


 アンナに借りたものだ。


 必ず返さなければならない。


 いや。


 井戸を返す方が先だ。


「局長」


「はい」


「夜明けとともに、水務局へ戻ります。地図を広げてください。南第五井戸だけではありません。周辺の古い暗渠をすべて確認します」


「承知しました」


「それから、アンナに伝えてください」


「何と?」


 クラウディアは封鎖された井戸を見た。


 縄の向こうに、黒い穴が沈黙している。


 人々の生活を支え、そして一晩で恐怖の源になった穴。


「井戸は、必ず返すと」


 ヴェルナー局長は深く頭を下げた。


「必ず、お伝えします」


 その時、遠くの鐘が鳴った。


 王宮の朝を告げる鐘だった。


 クラウディアはその音を聞きながら、静かに息を吐いた。


 昨日までなら、その鐘は王太子妃教育の始まりを告げる音だった。


 今日からは違う。


 それは、王都の底から国を見直す一日の始まりを告げる音だった。


 クラウディア・フォン・カルンシュタインは振り返らずに歩き出した。


 婚約破棄された令嬢として。


 井戸を封鎖した女として。


 そして、王宮の誰もまだ理解していない、都市という巨大な生き物の診察を始める者として。


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