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第1話 婚約破棄された令嬢は、王都の下水図を手に入れた

 クラウディア・フォン・カルンシュタインが初めて父を困らせたのは、七歳の春だった。


 王宮庭園の噴水が止まったのである。


 庭師は噴水の石像を調べ、使用人たちは水瓶を運び、貴族たちは「王家の吉兆に陰りが出た」などと、実に貴族らしい不吉な噂を楽しんでいた。


 その中で、クラウディアだけは噴水を見ていなかった。


 白い子ども用のドレスの裾を泥で汚しながら、庭園の端にある小さな排水溝を覗き込んでいたのである。


「クラウディア」


 父であるカルンシュタイン侯爵は、娘の背後で頭を抱えた。


「そこは令嬢が覗く場所ではない」


 クラウディアは振り返った。


 頬に泥がついていた。


「では、お父様。令嬢のために噴水は流れません」


「……何?」


「水は、高いところから低いところへ行きます。でも、行き先が詰まれば、怒って止まります」


「水は怒らない」


「では、息ができないのです」


 父は黙った。


 幼い娘は、小さな指で石畳の継ぎ目をなぞる。


「噴水の水が消えたのではありません。戻る道が詰まっています。ここから先です」


 半刻後、庭師が古い落ち葉と布切れで塞がれた暗渠を見つけた。


 詰まりを取り除くと、噴水は何事もなかったかのように水を噴き上げた。


 貴族たちは拍手した。


 庭師は安堵した。


 父は深いため息をついた。


「この子は、花より先に排水溝を見る」


 そばにいた母は、扇の陰で静かに笑った。


「よろしいではありませんか。王都を見るには、その方が向いております」


 その日、クラウディアは知った。


 美しいものは、美しい場所だけで保たれているのではない。


 噴水の下には水路がある。


 宮殿の下には排水がある。


 祈りの下には倉庫がある。


 善意の下には帳簿がある。


 そして、国の華やかさの下には、誰にも見られない流れがある。


 だから――。


 婚約破棄された瞬間、クラウディア・フォン・カルンシュタイン侯爵令嬢は泣かなかった。


 大広間には百を超える蝋燭が灯り、磨き上げられた床には、貴族たちの靴音と囁きが薄く重なっていた。


 王太子殿下の誕生祝賀舞踏会。


 本来ならば、クラウディアは殿下の婚約者として、最初の舞を共にするはずだった。


 だが、いま彼女の前に立っている王太子ヴィクトールは、別の女の手を取っていた。


 白いドレスに身を包んだ聖女ベアタ。


 王都で急速に人気を集めている、癒やしの奇跡を使う少女である。


「クラウディア・フォン・カルンシュタイン」


 王太子は、広間中に響く声で告げた。


「私は今この場で、君との婚約を破棄する」


 ざわめきが起きた。


 驚き。


 好奇心。


 それから、隠しきれない期待。


 貴族とは残酷な生き物だ。


 誰かが落ちる瞬間ほど、礼儀正しく目を輝かせる。


「理由をお聞きしても?」


 クラウディアは静かに尋ねた。


 声は震えていなかった。


 それを見て、ヴィクトールの眉がわずかに動く。


 おそらく彼は、彼女が取り乱すと思っていたのだろう。


 泣き崩れ、すがりつき、みっともなく許しを乞うと。


 そうすれば、この場は王太子の勝利で終わる。


 冷たい侯爵令嬢を切り捨て、真に清らかな聖女を選んだ若き王族。


 明日の王都の噂話には、ずいぶん都合のよい物語が並ぶはずだった。


「君は冷たすぎる」


 ヴィクトールは言った。


「民を数字でしか見ていない。貧民街の救済にも、病人の保護にも、君はいつも予算だの順序だのと言うばかりだ」


 聖女ベアタが、胸の前で手を組んだ。


「クラウディア様。人は帳簿ではありません。苦しんでいる人が目の前にいるなら、まず手を差し伸べるべきです」


 美しい言葉だった。


 広間の空気が、彼女に味方する。


 人は美しい言葉が好きだ。


 特に、自分がその費用を払わなくてよい時には。


「なるほど」


 クラウディアは小さく頷いた。


「では殿下は、今後、王都救済基金の管理を聖女ベアタ様にお任せになると?」


「当然だ」


 ヴィクトールは胸を張った。


「君のように、古い家柄と数字だけを信じる女に、民の痛みは分からない」


 その瞬間、広間の奥で誰かが息を呑んだ。


 財務卿である父だろうか。


 それとも、慈善病院の運営に関わる母だろうか。


 クラウディアは振り返らなかった。


 振り返る必要はなかった。


 父は今、怒っている。


 母は今、笑っている。


 母が笑っている時は、たいてい誰かが終わる時だ。


「承りました」


 クラウディアはドレスの裾をつまみ、深く一礼した。


 敗者の礼ではない。


 抗議の礼でもない。


 書類に署名を終えた者の礼だった。


「殿下のご命令に従い、私は本日をもって、王太子妃教育、王都救済基金の会計補佐、慈善病院の薬剤調達記録、ならびに旧市街区の井戸改修計画から手を引きます」


 ざわめきが、少し変わった。


 好奇心から、不安へ。


 貴族たちは馬鹿ではない。


 恋愛劇として見ていた舞台の床下に、別の仕掛けがあると気づき始めたのだ。


 ヴィクトールは顔をしかめた。


「脅しか?」


「いいえ。権限の確認です」


「君がいなくとも、王宮は回る」


「もちろんでございます」


 クラウディアは微笑んだ。


 王宮は回る。


 書類も回る。


 印章も回る。


 ただし、水は、正しい場所に穴を開けなければ流れない。


 人も同じだ。


 善意だけでは、都市は動かない。


「それと、殿下」


 クラウディアは顔を上げた。


「私が保管していた王都地下水路の写しは、明朝、財務局へ返却いたします」


「地下水路?」


 ヴィクトールが不快そうに言った。


「そんなものが、今なんの関係がある」


 ああ。


 やはり知らない。


 クラウディアは、少しだけ気の毒になった。


 王都の貴族は、噴水を見る。


 庭園を見る。


 銀の水差しを見る。


 けれど、その水がどこから来て、どこへ捨てられ、どの井戸とどの病人をつないでいるのかは見ない。


 水は身分を読まない。


 下水は家格を避けない。


 王宮の白い大理石の下にも、貧民街の泥の下にも、同じように暗い流れがある。


 その流れを知らない者が、都市を救うと言う。


 それは、目を閉じて手術をする医者に似ていた。


「関係がないとお考えなら、それで結構です」


 クラウディアは言った。


「今後は、聖女様の奇跡と殿下のご慈悲にて、王都をお導きください」


 聖女ベアタの顔に、わずかな勝利の色が浮かんだ。


「クラウディア様。皮肉を言うのはおやめください」


「皮肉ではありません」


 クラウディアは彼女を見た。


「お願いです」


「お願い?」


「薬草を配る時は、必ず水場を確認なさってください。熱病の家には、癒やしの祈りより先に、桶と石灰が必要な場合があります」


 ベアタは眉を寄せた。


 意味が分からない、という顔だった。


 だが、その表情を責める気にはなれない。


 彼女はきっと、本当に善良なのだ。


 善良で、無知で、そして人々から愛されている。


 この三つが揃うと、時に刃物より危ない。


「もういい」


 ヴィクトールが吐き捨てた。


「最後まで数字と汚物の話か。君には華がない。王太子妃にふさわしくない」


「はい」


 クラウディアは頷いた。


「私も、そう思います」


 広間が静まり返った。


 ヴィクトールが一瞬、言葉を失う。


「王太子妃には、殿下の隣で輝く方がふさわしいでしょう」


 クラウディアは続けた。


「私は、水の濁りを見る方が性に合っております」


 その言葉が落ちた時、広間の入口近くで一人の男が動いた。


 灰色の礼服を着た、痩せた中年男。


 王都水務局の局長、オットー・ヴェルナーだった。


 彼は人混みをすり抜け、クラウディアの前まで来ると、深々と頭を下げた。


「カルンシュタイン侯爵令嬢」


 場に似合わない、実務の声だった。


「至急、ご確認いただきたい件がございます」


 ヴィクトールが怒鳴った。


「今は舞踏会の最中だぞ!」


 ヴェルナー局長は、王太子を見た。


 見た、というより、必要な印章を確認するような目だった。


「恐れながら殿下。南第五井戸に濁りが出ました」


 空気が凍った。


 南第五井戸。


 その名を知る貴族は少ない。


 だが、そこから水を引く区域に、聖女ベアタが通う救済院があることを知る者はいた。


「濁り程度で騒ぐな」


 ヴィクトールは言った。


「聖女がいる。病人なら癒やせる」


「井戸は癒やせません」


 クラウディアが言った。


 静かな声だった。


 けれど、その声は広間の奥まで通った。


「人を一人癒やしても、水が汚れていれば、明日には十人が倒れます。十人を癒やしても、明後日には百人になります」


 ヴィクトールの顔色が変わった。


 ようやく、恋愛劇の外側に都市があることを思い出した顔だった。


 クラウディアはヴェルナー局長に向き直る。


「南第五井戸の濁りは、色ですか、匂いですか」


「匂いです。卵の腐ったような臭気が少々。それと、昨夜から付近で腹痛の報告が三件」


「三件なら、実数は二十を超えます。使用人と露店商は報告に上がりません」


「はい」


「上流側の水路門は?」


「昨日、慈善施療院の増築工事で一部閉鎖を」


 クラウディアは目を閉じた。


 頭の中に、王都の地下図が広がる。


 石造りの主水路。


 古い暗渠。


 塞がれた抜け道。


 忘れられた雨水溝。


 そして、三日前に届けられた工事申請書。


 あの時、彼女は余白に赤で書いた。


 ――閉鎖前に旧排水路の確認必須。


 誰も見なかったらしい。


「局長」


「はい」


「南第五井戸を即時封鎖。周辺三区画の井戸番に通達。水売りの荷車を北市場から回してください。石灰は慈善病院の裏倉庫にあります。鍵は母が持っています」


「承知しました」


「それから、聖女ベアタ様」


 クラウディアは振り返った。


 ベアタは青ざめていた。


「あなたは救済院に向かってください。倒れた者を癒やす必要があります」


「わ、私が……?」


「はい」


 クラウディアは穏やかに言った。


「あなたの善意が必要です。ですが、善意だけでは足りません。だから水を止めます」


 ベアタは何も言えなかった。


 クラウディアは最後に、王太子へ一礼した。


「殿下。婚約破棄の件、正式な書面は明日でよろしいでしょうか」


「クラウディア、待て」


「お待ちできません」


 彼女は初めて、王太子の言葉を遮った。


「水は待ちませんので」


 そのまま踵を返す。


 舞踏会の音楽は、いつの間にか止まっていた。


 百の蝋燭。


 百の視線。


 百の噂。


 その全てを背に受けながら、クラウディアは大広間を出た。


 廊下に出ると、冷たい夜気が頬を撫でた。


 ヴェルナー局長が隣に並ぶ。


「お嬢様」


「なにかしら」


「王太子殿下は、明日には謝罪なさるでしょうか」


 クラウディアは少し考えた。


「明日は無理ね」


「では?」


「三日後」


 彼女は淡々と言った。


「井戸水が濁る意味を、王宮が理解するまで、そのくらいかかります」


 そして、ドレスの裾を持ち上げ、夜の王宮を歩き出した。


 婚約者ではなくなった令嬢として。


 敗者ではなく、王都の水脈を知る者として。


 クラウディア・フォン・カルンシュタインの仕事は、ようやく始まった。


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